第四章 舞姫柚綺
「女の子がひかれたぞ!!」
「はやく救急車を!!!」
「お前…、まさか津季に突き飛ばされたのか…!?」
柚綺はそれには頷かず、真っ直ぐ黛兎の瞳を見つめた。
「…お願い…です…。津季先輩のコト、悪く思わないで…ください…。」
「な、なんでだよ…?だって津季は柚綺をこんな目に…」
「津季先輩も、私と同じだったから…。」
「え…。」
「津季先輩も、私みたいにただ一途に黛兎先輩を想っていた…。ただ、それが歪んでしまっていただけだったんです…。だから、津季先輩を…許してあげて…ください…。」
「でも…。」
「…だって、大好きな人に嫌われたら…、生きる気力さえ…なくなってしまうと…思うんです…。だから…」
黛兎は、柚綺の声がだんだん小さくなっていくのに気づき、優しく抱きしめた。
「もうしゃべるな。…わかった。だから…、だからずっと生きてそばにいてくれよ…。」
黛兎の瞳から一筋の涙が頬を伝った。
黛兎は柚綺からは見えないように泣いた。
「ねぇ、先輩…。」
柚綺は、なるべく声を出さないように、黛兎の耳元まで口を近づけた。
「…先輩は、私が死んだら悲しいですか…?」
柚綺のか細い吐息を耳に感じながら、黛兎は少し強く柚綺を抱きしめた。
「当たり前だろ…。お前がいなかったら、俺は何を愛していけばいいんだよ…?…好きな人に死なれたって、生きる気力はなくなっちまうんだぜ…」
それを聞いて、柚綺は少し表情を和らげた。
「…よかった…。…私、自分のせいで、津季先輩を辛くさせてしまったから…、生きてていいのかなって、思ってたんです…。でも、私、生きたい…。先輩を…悲しませるのだけは…イヤなんです…。でも、もう、力が…入らなくて…。どうして…、私はいつも…先輩を困らせて…ばかりなの…?」
「柚綺のせいで困ったコトなんて一度もない…。だって柚綺は俺の中の一番大切な存在だから…。ただ、お前がいなくなるのだけは困る…。でも逆にそれが柚綺にとっては重荷なのかも…」
柚綺は大きく首を横に振った。
黛兎は、どんどん弱っていく柚綺を温めてあげるコトしかできない自分の無力さに失望した。
その時、柚綺は激しく咳込んで、口から血を大量に吐いた。
「ゲホゲホ…、ご、ゴメンなさい…。私もう、ダメみたい…です…。」
柚綺は眼に涙をいっぱい溜めて黛兎を見つめた。
黛兎はゆっくり柚綺の顔に近づき、唇を重ねた。
「…謝らなきゃいけねぇのは俺の方だよ…。…何が柚綺を助けるだ…。こんな肝心なときに俺は…。」「…せん…ぱ…い……。今こうして…先輩に、抱かれてる…だけで…幸せ…です…。ゲホゲホ…、いま…まで…ありがとう…ご、ござい…まし…た。ホントに…楽しかっ…た…です…。私のコト…忘れない…で…くだ…さい…―。」
かすれた声で最後の力を振り絞った柚綺だったが、そのまま黛兎の腕の中で深い眠りについた。
「バカ…誰が柚綺を忘れんだよ…?」
黛兎は更に強く柚綺の身体を抱きしめた。
そして、黛兎はそのまま動かなかった。
血と雨に濡れた2人を哀れむように見つめる周囲の目。
黛兎にはその視線がやけに冷たく感じた。
柚綺が息を引き取ってから間もなく救急車が到着した。
黛兎は柚綺と一緒に救急車に乗り込み、冷たくなった手を握ると、離すコトはなかった。
「柚綺を守れなかった…。」ただそれだけが心残りだった。
それから黛兎の心の傷が癒えるコトはなく、雨の日になると、あの傷だらけの柚綺の顔が鮮明に蘇るのだった。
―想いを伝えたあの部室にはもう、柚綺はいない…。
あの日から、津季はまた部活に来なくなった。
そして、家から出るコトもなかった。
きっと、こう言われるのが怖かったのだろう。
―殺人犯と…。
―まさか、死ぬなんて思ってなかったのよ…!!
ちょっと怪我させようと思った、ただそれだけだったのに…。
初めのうちはこう思っていた津季だったが、次第に考えが変わり始めた。
「…ゆずが消えたってコトは、黛兎の一番は私よね…。」
暗い部屋の中、布団にくるまって、水を含んだ墨液を一面に垂らしたような空を眺めていた津季は、にやりと薄く笑った。
「…ふふ、黛兎は始めから私だけのものだったの。それに手を出した者はひとり残らず消滅するんだわ!!!」
布団を勢いよく投げ捨てて、ベッドの上で高笑いする津季だった…。
部屋のベッドの上で休んでいた黛兎は目を覚ました。
それは、テーブルの上に置いていたケータイが鳴ったからであった。
メールは津季からのものであった。
『今、私の家に来て。』
黛兎の眉がピクリと動く。―アイツに会いたくない。でも黛兎は津季の家に行くコトにした。
…津季には言わなきゃいけねぇコトがある。
椅子に掛けてあったパーカーを羽織ると、黛兎は暗闇の中を駆けていった。津季の家に行く途中、柚綺が事故に遭った道を通りかかった。
夜の8時を回っているため、もう車通りは少なくなってきていた。
『黛兎先輩…、寒いよ…助けて…。』
実際に聞こえたのか幻聴なのかはわからないが、柚綺のか細い声が黛兎の頭に響く。
そして、まぶたの裏に焼き付いた、柚綺のあの血と雨にまみれた顔が…。
「柚綺…ッ…。…くそっ…」黛兎の目尻に雫が溜まって、風に消えた。
自分が情けないけれど、泣いている場合ではないのだ。
俺が泣いたら、ただ柚綺を悲しませるだけ…。
最後の最後まで俺のコト気遣ってくれて…。
なのに俺は何をやってんだよ…ッッ。
頭の中が様々な感情でもつれはじめる。
けれど、津季の家まであと少しというところになると、それらの感情は一気に真っ白になり、津季に言いたいコトだけが頭の中を駆け巡った。
それと同時に、嫌な汗が背中を凍らせるように流れた。
―俺、もしかするとこれで…。
だがすぐにその考えを否定した。
自分のコトは考えるな。今は柚綺のコトだけを心に入れておくんだ…。
津季の家に着き、チャイムを鳴らすと、すぐに津季は出てきた。
「ここじゃなんだから。」
2人は近くの公園に移動した。
誰もいない、ただライトがひとつあるだけの…。
黛兎は津季の右ポケットの膨らみが気になった。
「急に呼び出してゴメン。でも、どうしても言いたいコトがあって…。」
「…何だよ。」
黛兎はわざとぶっきらぼうに応えた。
津季の目が怯えたように泳ぐ。
「私のコト怒ってる…?」
黛兎の心臓がズキンと鳴った。
―許せるはずがない。
でも、柚綺のお願いを無視するなんてできない…。「怒ってねぇよ…。」
黛兎は風に揺れるブランコを見つめたまま言った。「…じゃあさ、私は黛兎の一番だよね。」
「は……?」
「だって、ゆずは消えたもの。」
にこやかに津季は言う。
「…確かに、柚綺が息を引き取ってから、お前は俺の一番になったよ…。」
「え…。じ、じゃあ…」
「ただし。ナンバー1じゃなくてワースト1だけどな。」
津季の目の下あたりが引き攣り、ヒクヒクと痙攣する。
「柚綺は消えてなんかねぇよ。ずっと俺のそばで生きてんだ。生きた屍のようなお前とは違ってな。」津季は黙ったまま涙を流した。
公園に入ってきた酔っ払いが2人を冷やかしたが、ただ生温い風が吹いていくだけであった。
《第四章・終》




