8 Fort Drum, FL FLORIDA'S TURNPIKE Mile Marker184
184マイル地点、フォートドラムにあるサービスプラザでは、娘の予言通りインディアンリバーの農産物が出張販売されていた。グレープフルーツ、オレンジ、ピーカン。
雨の後の日差しはより一層強くなっているようだった。停車するなり試食コーナーにすっ飛んでいった娘と同じく、プラザ内はTシャツに短パン、ビーチサンダルで溢れている。
足元から立ち昇る雨の名残のむっと蒸すような熱気、肌を焦がそうとする情熱さえ感じられる陽光に顔をしかめてから、ルイはキーウェストに着いたらすべき最優先事項を書き換えた。短パンにサンダルを買うこと。
ドライバーにこそ必要だと取り上げたサングラスの向こうで、取り上げられた娘が手を振っている。もう片方の手にすでに試食用グレープフルーツをふた切れ持っているのを見つけて、ルイは苦笑した。
「へえ、完熟してるとこんなに皮が薄いのか。……わっ甘い、なんだこれ。すっげー果汁が」
「ね、砂糖かけるなんて信じられないでしょ」
いたく満足気に笑ってから、娘は山積みされた赤いネット入りのグレープフルーツをぽんと叩いた。
「一袋ください」
「おい、それ一ダースはあんだろ……」
「絞っちゃえばすぐなくなる。日焼けしたらビタミンC補給しなくちゃ。君はタバコ吸うんだからなおさら。ねえ、日差しの強い場所でシトラスがなるって、自然のシステムってうまくできてるよね――おつり取っといて」
取っておけと言うには多すぎる金額に、真っ黒に日焼けした店員が戸惑っていた。
「不要なコストは払わない主義じゃなかったのか?」
「彼がここまで売りに来てくれてなければ、君に本場のグレープフルーツを食べさせてあげられなかった。はい、持って」
娘の指先がこともなげに大きなネット袋を示す。
「俺、運転手。荷物持ちにあらず」
「さっきご機嫌取ってくれた優しいあの彼はどこへ行っちゃったんだろ? 一時間も経ってないのに」
「晴れてる時に傘を差し出すやつはいない」
「君の受け答えは可愛くない」
結局ルイはグレープフルーツのネットを肩に担いだ。
「やっぱりマナティかな。ああでも、亀もいいんだなあ」
助手席の彼女はフロリダのナンバープレートの多彩さについて語りまくっている。特に環境保護のために寄付するともらえる動物の絵柄付きプレートを取得するのは、夢の一つらしかった。
確かにルイの国のナンバープレートの素っ気無さからすればアメリカの、特にフロリダのプレートは絵画のようだ。月の海に尾を掲げる鯨、夕暮れの湿地に佇む水鳥、砂地を這う海亀、愛嬌のあるマナティ。
「ジョージアではゴミを分別しなくていいんだろ? リサイクルに興味のない州民が環境保護プレートを欲しがるなんて偽善だ」
「グローサリーのビニール袋が余ったら、ちゃんとリサイクルボックスに入れてるもん」
「それくらいでいばるな。俺の国なんざ燃えるゴミ燃えないゴミどころの騒ぎじゃない、電池や古紙回収の日が決まっててだな、それを逃すと部屋の隅にいつまでもいつまでもそのゴミが」
助手席からは形容しがたい悲鳴が上がった。
「ジョージア万歳」
ふとルイは追い越しをかけようとした車の、紺に白字のプレートに目を留めた。上部にはくっきりとMICHIGAN。
「ミシガンって、五大湖のミシガンだよな。北はもうカナダじゃなかったか? フロリダまで来たらそれこそ大陸縦断だろ。めちゃくちゃ遠いくせに、やたらとミシガンナンバーを見かけるのが謎だ」
「I-75はね、それこそカナダとの国境から始まってるの。ミシガンからインディアナ、ケンタッキー、テネシー、ジョージアを通ってフロリダまで。距離としてはあたしたちの旅程の倍はあるでしょうね、でも……想像してみて」
白く細い腕が魔法をかけようとするように、ひらりと優雅に舞った。
「一年の半分は雪。ジョージアでは梨も桃も花盛り、でもミシガンはまだ一面の白。そんな時I-75の標識を見上げてこう思う。このインターステートに飛び乗ってただ真っ直ぐ真っ直ぐ南を目指せば、そこにフロリダがある」
ルイもハンドルは左手に任せて、右手で魔法をかけかえす。
「コートからセーターへ、セーターからTシャツへ。一州抜けるごとに一枚脱いで、後部座席に放り投げる。最後には裸の自分もそこへダイブ」
ベビーは神の贈り物です。鼓動は六週、脳波は九週で始まります――フロリダで羽目を外す若者を心配するかのような看板がインターステート脇に繰り返し設置されていたのを思い返したのか、白い腕は元気を失って助手席に戻った。
「……さっきのは軽率だって言いたいの?」
声に含まれる熱は急に冷え込んでいた。ルイは戸惑った一拍後に、雨をやり過ごしていた車の中でキスを乞われたことを思い出した。
「別にあれは、そういうんじゃないだろ。単に地名に引っ掛けただけの冗――」
「あたしは浮かれた観光客とは違う」
「おかしな深読みすんなよ、あんたが軽率だなんて言ってないだろ」
「……ごめんなさい」
小さな謝罪がなぜこうも自分を苛立たせるのか分からずに、ルイはハンドルを強く握った。
湿気を含んだような沈黙が続いても、それをラジオで埋める気にならずにいた。マイルを示す道路標識の数字を黙々と追ううちに、ルイの苛立ちは募っていく。
何かしゃべってくれ、謝罪以外の言葉を。そう頼みたくても他力本願を戒めた張本人が言えるはずもない。
乗り合いを嫌う男が、長距離バスより乗客が少ないというだけで選択した女。旅行直前に恋人を振ってきた女が、彼の代わりに運転させているだけの男。
キーウェストに着けばすべておしまい。手を振り、See youでなくByeで別れてきれいさっぱり。
暗黙のうちに成立したと思っていた線引き、それを超えて踏み込んで来られるのは想像する気も起きない。
けれど助手席の彼女はそうではないらしい。
ルイには金鎖とその奥の両親の背中が、フロリダの景色を透かして常に見えていた。
アトランタの国際空港から変わらぬルイと、フロリダで一枚薄着になった彼女の温度差。意図せず明らかになった差を、彼女へ突きつけることになった苛立ち。
どうして俺が悪いことをした気分にならなきゃいけない? 旅先限りの関係と割り切って適当にあしらえばいい、おいしいとこだけ頂いて帰国してしまえばいい話なのに――
「あううう。もうだめ」
突然の発言に、レンタカーのSUVは驚いてフラついた。
「ハーディーズ許して、あたしはバーガーキングに浮気します。次のウェストパームのサービスプラザに寄って」
「あー……昼飯か。なんだよ、人がせっかく」
「アンガスビーフ気分になってたのに? 今回は縁がないみたいね、君の国で探してみて」
アトランタ経由で帰るならアトランタのどこそこで試してみて、とは言わなくなった。ルイが望む方向へと線引きは修正されたらしかった。
ルイは安堵しなければならない場面で拍子抜けを感じている自分に気付いて、馬鹿げていると一蹴を試みた。