2 Atlanta, GA I-285 Exit58
空港内のB区画に居並ぶレンタカー会社。一軒目のハーツで首を振られる。二軒目のエンタープライズ、三軒目のバジェット、四軒目のエイビス……店員の肌色は様々なれど返事はそろって、車はもう残っていない、であった。
「スプリング・ブレイクですからね」
五軒目のアラモの店員は、知らないおまえが悪いと言わんばかりにふんぞり返った。
二学期制をとる大学において、三月は春学期の中間試験と期末試験の谷間にあり、一週間程度のスプリング・ブレイク――春休みを挟む。旅行に繰り出す大学生の需要で、レンタカーは軒並み借り出されていた。
アトランタからキーウェストまでの直行便が満席だったのはそのせいか、とルイはそこで思い当たる。
キャンセル待ちをしてもいいが、三日後のオープニングパーティまで席が空かないなんて事態はシャレにならない。それよりはレンタカーでフロリダへ向かった方が確実だというのがルイの結論だったが、早速にもプランは崩れつつあった。
キーウェストへの陸路は車のみ。レンタカーが無理でもグレイハウンド――長距離バスがある、とレンタカーの店員は告げた。
丸々二十四時間を乗り合いバスで過ごす。見知らぬ他人と会話を楽しむ趣味のないルイにとって、ひどく苦痛な選択肢。しかし手は残されていない。
ルイは妥協のため息をつき立ち上がった。
「Excuse me――ねえ、さっきから話を聞いちゃってたんだけど」
「は?」
長距離バスのターミナルへと向かいかけていたルイの足は、娘の気軽な声に引きとめられた。
見たところルイと同年代、それこそ春休み中の大学生のようだった。東洋系ながら流暢な英語、そこへわずかな南部訛りが混じるところから、アメリカ生活を長く経験したらしかった。
サインした書類をレンタカー店員へ押しやって、娘は椅子の中でルイへと体の向きを変える。
「あたしね、キーウェストへ一緒に旅行するはずだった彼を直前で振ってきちゃったの。せっかくだから一人でも行こうと思って来たんだけど、ここから運転してくのは正直キツいなって思ってたとこ」
朝食はシリアルだったの。恋人との別れをそんな程度にあっけらかんと言いのけて、娘はきれいに並んだ白い歯を覗かせた。
アメリカでは歯の矯正と白さがステイタスの一種とされる傾向が強い。メイクなし、無造作に束ねられた髪、破れたジーンズ。それでも完璧な歯とマニキュアを見れば、育ちのいい娘であることは一目瞭然だった。
「だって知ってる? ここからキーウェストまで800マイル以上あんの。つまり――運転してくれない? レンタカー代は持つから」
突然の棚ぼた話を、ルイは素早く検討してみた。
長距離バスとてたどる道程、かかる時間は同じ。見ず知らずの不特定多数に囲まれた後部座席へ押し込められているより、見ず知らずの一人を横に運転していた方がマシかもしれない。
「直行便のキャンセル待ちリストの長さを見たら、あたしのオファーを受けるのが賢い選択。大体ね、飛行機で行くなんてキーウェストの魅力の三分の一を放棄するようなもんよ。ブルーグリーンの海を突き抜けるセブンマイルブリッジ、あれをバスの後部座席から眺めるより、運転してみたくない?」
カウンターの向こう側で、レンタカーの店員が大げさに天を仰いで嘆いてみせている。
「彼が受けないならそのオファー、僕が受けたいくらいだよ」
改めて観察してみれば店員の嘆きも頷ける、きれいな顔立ちをした娘だった。茶色の瞳は好奇にすばしこく動き、目尻には芯の強さと生来の明るさをたたえている。
東洋系にありがちな痩せぎすではなく、柔らかなラインも計算して残したような体は恒常的な運動を窺わせた。滑らかな肌は視線を軽やかにさらっていく開放と、だからといって媚びない颯爽が同居している。
きゅっとどこか挑戦的に口角を上げ、娘は人差し指を立てた。
「運転の他に条件はただ一つ――あたしを退屈させないこと」
「The deal is done.」
取引成立、その証にルイの右手が差し出される。
「いい答えが聞けて嬉しい」
にっこり握手しようとした娘の笑顔が、まるでお手を要求するように上を向いているルイの手のひらに戸惑って曇った。
「キー。車の」
「……呆れた現物主義者」
ノースリーブの肩をすくめてから、娘はレンタカー会社のキーホルダーがついたキーを放って寄越した。
「ルートは?」
ダークグリーンのSUVの運転席で、バックミラーを調整しながらルイが聞く。
「州間高速道路285号(I-285)EastからI-75 South。あ、言っとくけど――スピード違反の罰金は自分で払って」
「俺も余計な出費するつもりはない」
ティソの懐中時計のための金鎖。宝飾時計専門店のアトランタ支店長に、欲しがっていることを知られてしまった。非売品であるそれを取引に乗せるのにいくらかかるか、ルイは貯金をはたく羽目になる覚悟をする。
そもそもヨーロッパの宝飾店で、強盗殺人犯が奪っていった品だ。どういう経緯で仕入れたか知らないが、向こうもおおっぴらに取引できるモノじゃない。そこにつけこんでうまく値段を引き下げ――
「退屈させないことって言わなかった?」
ルイの思考を不満そうな声が断ち切る。助手席の住人は踵の高いサンダルを脱いで組んだ足をぶらぶらさせ、すでに寛ぎモードに入っていた。
「音楽もなし会話もなしで、黙々と運転してもらいたいわけじゃないの」
「あー……」
I-285 East、Exit60。ルイは本線に合流するためにアクセルを踏み込む。スピードメーターの針が示す値は一気に時速75マイルに跳ね上がる。
「その件だけどさ。無理」
「えーっ!」
速度計と連動するかのように悲鳴が上がった。
「そういう条件で取引したはずでしょ」
「あんたが誰と取引したところで、そいつは無理。I-75の分岐ってExit58? すぐじゃん」
速度の速い左レーンに移ろうとしてインジケーターを出しかけた左手が止まる。
「ごまかさないで、次の出口で降りて。取引は終わり。契約違反」
「あのな。退屈させないでってのが間違ってる」
降りろと指示されたExit59を無視して、ルイはI-75とのジャンクションへ向かう。
「あんたを退屈させずにおけるのは、あんたしかいないんだよ」
ルイの握るハンドルはI-75へと続く分岐道を選択した。
「どんな刺激をやったってそれがあんたの求めるもんと違う限り、あんたはいつまでもそうやって誰かに刺激をねだり続けるんだ。で、結局退屈し続ける」
助手席は沈黙している。
「誰かに要求する前に、自分の欲しいモンを考えてみれば? それともあんたは、そいつは金や服と同じように親や他人から与えられるモンだって思ってんのか。いくつか知らないけど、その歳になって」
「……取引した相手が悪かったみたいね」
ぼん、とペディキュアを施した素足がダッシュボードに載せられる。ルイはその仕草を彼女の降参の印と受け取った。
「取引前じゃなくて州間高速道路に乗ってから言い出すのがやらしいとは思うけど、君の意見も君も興味深いから見逃してあげる」
口調は苦笑よりも、楽しそうな響きに占められていた。感知したルイの唇にも笑みが浮かぶ。車は分岐道から本線への合流ゾーンを加速した。
「最初の分かれ道は無事通過ってわけだ」
「アドバイスに従って、自分でラジオつける。でも会話には付き合ってもらうから、だって一人じゃできないでしょ」
「はいはい。おっしゃる通りです」
ぱつんと弾けるような音がして、車内を軽快なロックが満たした。