19 Louis's Folly
「キーウェストの大らかな住人たちを、名産の貝にちなんでコンクって呼ぶの。だからキーウェストにはコンク・リパブリック――コンク共和国って愛称がある」
ビーチから料金所前を通過し、公園の反対側へ。空港からピックアップを運転してきた時に見えた鉄橋が間近に現れる。
西にあたる鉄橋側のビーチはピクニックエリアが近いこともあり、家族連れで賑わっていた。
「コンクに『キーウェストにビーチはあるか』って聞いたら、答えはノー。厳密に言えばイエス、だけど狭いし至近距離でホテルに見下ろされてるし、岩場も多いしヘンな匂いがするし」
だからコンクたちはビーチを満喫したければこのバヒア・ホンダ州立公園まで来るのだ、とフランは説明しながらレクサスをパーキングロットに停めた。
「あの鉄橋……園内にあるのか」
「そう。この土地はフラグラー東海岸鉄道会社のものだった。鉄橋がハリケーンで破壊されてからフロリダ政府が買い上げたの」
「コンクは鉄道を失ったが、まんまとビーチを手に入れたわけだ」
ギフトショップへ向かう足を止めて、フランのすんなりした背中が鉄橋を見上げている。
古い鉄橋とそれを眺められるビーチは、キーウェストの鉄道史を語る証人でもあるらしい。
ぽっかりと途切れた鉄橋の一部、ルイはその先端に立たされている気になった。海を飛び越え向こうへ――フランの待つキーウェストへ行くか、後戻りするか。
「キーウェストまで鉄道を通すって壮大な計画は当時、『フラグラーの愚行』って非難されたんだって。でも橋は架かった。海上列車は走った。このアンティークの鉄橋を見るたび、フラグラーの夢は消えてないって思うの。ハリケーンだってそれは奪えない」
アンティークが運ぶ人と夢の面影を愛しそうに語る娘が、盗品と知りながら購入した金鎖。それをあっさりとルイに譲った心境を思うと決心が萎えそうで、ルイの指先はポケットに忍んだ小切手を確かめる。
海を飛び越えるなんて海上鉄道以上に『ルイの愚行』だ、と内心で呟いた。
「……だからキーウェスト支店には、絶対にアンティーク部門が欲しかった」
「夢を語ったかと思えば、いきなりビジネスのお話ですか」
「君だって好きでしょ? ビーチを前にしてビジネスだビジネスだっていかつい顔するのは」
まずい。これは完全にキーウェストのペースに呑まれつつある。フランに話せ、小切手を渡せ、ダラスからの荷物を受け取ったら即座に帰国便に乗れ、愚行を犯すな。
一夜限りの女と一年間やってくなんて無理に決まってる。一夜限りじゃなかった女とだって一年続いたためしなんかないだろ、ルイ。
しかもボスになるんだぞ。女の下で働いたことなんか、ベッド以外ではない――いや、Aurore et Crepusculeの店主はばあちゃんだが、あれは女にカウントしちゃいけない。
理性を叩き起こすことで理性を失いかけていたことを思い知らされながら、ルイは自分に言い聞かせた。スニーカーの靴底で駐車場のアスファルトをざりっと鳴らす。
「やっぱり水着は買わない。ここではっきりさせとく。フラン、俺は」
単にこいつを渡しに来ただけなんだ。そう告げて小切手を渡そうと、ポケットに指を滑らす。懐中時計の金蓋が噛み付くようにルイの指先を挟んだ。
「えーっ、海の中ってあったかくて気分いいんだから。波もないし、メキシコ湾サイズの温水プール」
「俺はただ……」
指に食い込む懐中時計の蓋をどうにか振り払い、指先に小切手を確保する。ごそごそしているルイを怪訝そうにしていたフランが、はっと息を呑んだ。驚愕に見開かれる茶色の瞳を、ルイは気迫でにらみ返す。
「ルイ、まさか」
そうさ、俺はあんたにNoとByeを言いに来たんだ――
「まさか泳げないの?」
「ダディ、ボール投げてー!」
「よーし、しっかり受けろよランニングバック!」
突っ立つルイの横を、楽しげな父子がビーチへと駆け抜けていく。フランがそっと身体を寄せてくる。
「大丈夫、遠浅だから足は届く。ボディボードを浮き輪代わりにしてもいいし」
「マミー、レストルームはどこ?」
「すぐそこよ、もう少し我慢してね」
無言のルイの横を、そわそわした母娘がトイレへと急いでいる。
親子の微笑ましい休日風景は暗い都会を根城にする者にとって、脱力と嫌悪を伴うひどい毒だ。ルイの虚ろな目はフランの日焼けした肌の上をさまよった。
「言ってくれたらいいのに、ルイ。だからずっとビジネスだビジネスだって主張して、ビーチに出ようとしなかったのね。気付かなくてごめんなさい」
「マジでビジネスなんだが……場所を改めさせてくれ。ダラスからの荷物を受け取んなきゃいけねーし」
重すぎる倦怠と疲労を抱えたルイは、回れ右してずるずるとレクサスを目指した。
戻ってチェックインすると言い張るルイに、フランは渋々パラソルとデッキチェアの撤収を命じる。シャワーを浴びて、トイレでホルターネックのキャミソールワンピースに着替えてきた。
フランは東洋の血が混じっていることを充分に活用しているようで、アジアンテイストの色柄が肌の色、茶色の瞳や髪によく映える。そのフランがボロいピックアップ百台の金額で釣り合うくらいの高級車に乗り込むと、通りすがりの観光客が称賛の視線を送ってくる。
早く乗り込んじまえ、とルイはレクサスのドアを蹴りたい気分になった。
キーウェストへ戻る道すがら二車線の地域にさしかかると、最高速度60マイルのルイは右側の遅いレーンに寄る。バックミラーに映っていたゴールドのレクサスがぎゅーんと加速してきて横に並んだ。
レクサスの助手席の窓が、電動ならではの遠隔操作とスムーズさで下がる。一方、パワーウィンドウどころかエアコンを持たないピックアップはすでに窓全開だ。
手を振るフランの首元に黒く細いコードが垂れている。携帯電話のヘッドセットのようだった。
「夕食は海老、ポーク、チキンどれがいいー?」
ばたばた鳴る風に負けじとフランは声を張り上げてきた。ヘッドセットのマイク部分を押さえたところをみると、電話中らしい。
「俺は部屋で荷物を待ってなきゃ――」
「だからテイクアウトするー! グリーン・ストリートにペナンカレーの美味しいタイレストランがあってね、テイクアウトできるのー! で、カレーの具は海老、ポーク、チキン? あ、野菜も選べるってー」
応答から、まさにそのタイレストランに電話している最中だと気付く。
メシなんか一緒に食ったら、ますます小切手を突きつけにくくなる――ルイが断ろうとした矢先、返事待ちに気を取られたか、レクサスがふらっと揺れた。
「海老だ海老! 危ない運転すんな、車ごとダイブして海老に食われたいのか」
「アイアイサー! じゃあ、モーテルでね。フロントから電話する」
レクサスは滑らかに加速してピックアップを追い抜き、US-1が再び一車線ずつに戻る頃には見えなくなった。
悪いがペナンカレーは持ち帰ってくれ。俺はあんたに支払いをしに来ただけなんだ、そう事務的に告げて小切手を切る――予約してあるモーテルの看板を探しながら、ルイは頭の中でシミュレーションを繰り返していた。
部屋に入れちゃいけない。フランが来たらロビーまで下りて行って、そこでビジネスを済ます。このピックアップのキーも返す、空港まではシャトルを使えばいい話だ。
決意を整えなおして踏み込んだモーテルのロビーには、すでにペナンカレーの香ばしい匂いが充満していた。スパイシーな香りの発信源を抱えたフランがソファから上機嫌に手を振ってくる。
「えらく早いな……」
「だってお腹ぺこぺこだったんだもん。あたし犬を飼うことがあったらおあずけはさせない、このたった十分間があたしにそう決意させた」
歓迎できない展開だ、とルイは気を引き締めた。会話から親しさを排除せよ、さあビジネスの時間だ――しかしルイの、苦手な機内食を残してきた胃がカレースパイスの刺激に暴れ鳴く。
結局ルイは不本意ながら海老入りペナンカレーを平らげた。
カレー代を払うと言うルイに、フランはきらりと白く輝く歯を覗かせた。
「じゃあ明日のランチをご馳走して。マグノリアカフェのサワードウ・サンドイッチがいいな」
「いやその前に……話があるんだ。仕事のことで」
「仕事の話なら明日。九時に店に来て。今日はゆっくり休んで、君は時差ボケと食後の睡魔にノックダウン寸前みたい」
そうだ疲れてんだ。一晩眠って気力を養い、明日はきっぱりとフランのオファーを断る。カレー代は小切手に足して返そう――ルイは重たくなってきた瞼を伏せて頷く。目元に添えられたキスを払う気力ももうない。
「来てくれて嬉しい、ルイ」
素直な言葉にルイは苛立つ。
この女は俺が戻って来ない可能性など考えなかったのか。俺が小切手を押し付け、約束を違えて帰国しようと思ってることなど想像もしていないというのか――ゴールドのレクサスを見送って、ルイはくそっと呟いた。