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Mile Zero  作者: シトラチネ
続編
18/22

18 Bahia Honda State Park

挿絵(By みてみん)

 意外に空いている駐車場へ停めた車内。

「さあビジネスといきますか」

 視界を埋め尽くそうと企むとんでもないエメラルドグリーンから強引に視線を引き剥がし、ルイは小切手を切った。額面五万ドル、宛先フラン、今日の日付で。

 それをポケットに突っ込むと、懐中時計が警告するようにチンと鳴った。

「くそ、Aurore et Crepusculeの展示ケースに突っ込んできちまえば良かった。ミニッツリピーター故障中の札くくりつけて」

 もう一度チンと抗議を申し立てる懐中時計を黙らせ、ビーチへ降りる階段に向かう。柔らかく沈む砂へと、スニーカーを脱ぎ捨て素足を突っ込みたい衝動を押さえ込んだ。

 ビーチは広かった。海はもっと広く、水平線まで遥か穏やかに凪ぎ、二週間前にセブンマイルブリッジを渡ったばかりのルイでさえ逃れられず息を呑むほど。なのに人はちらほら点在する程度で、波音以外は遠い隣人の話し声など聞こえぬ静けさだった。

 たった何ドルかで独占状態の碧玉の海と、五万ドルの金無垢の鎖。ルイは自分のしようとしている取引がひどく馬鹿げているように思えてきた。さっさと終わらせなければ、と足を速めてサンタンを塗り込む白人女性の後ろを通過する。

「肌を焼きたがる白人優越主義者ってのは矛盾の塊だな」

 フランはすぐ見つかった。鮮やかなパラソルの下、デッキチェアで仰向けにゆったり身体を伸ばしている。オレンジ系のビキニは東洋系の肌に映えたし、インディアンリバーで試食した輝くグレープフルーツを回想させた。濃い色のサングラスが空を見上げている。

 実在してたんだな、と安堵とも驚きともつかぬものがルイの胸をよぎった。それを機に湧き出ようとする体温つきの記憶を念入りに払いのけてから、歩を進める。

「フラン」

 デッキチェアの脇に立ち、ルイは小切手を挟んだ指を突き出す。

「代金を払いに来た。あんたの――労働力で、ってオファーは無理があると思うんだよね。ここがフロリダじゃなくてアラスカだったら、あんたは小切手を引っつかんでアトランタに舞い戻るよ」

 フランのサングラスは沈黙している。ほっそりした腕は差し出された小切手を受け取ろうとする気配を見せない。

「あのピックアップは空港に置いとくから、誰かに運転させてくれ。あんた得意だろ、空港でドライバー拾うの」

 二週間前、ルイの皮肉に対する舌戦を優位に持ち込むこともあったフランの唇は動かない。

 ルイの指先で小切手はしばらくのあいだ、はたはたと虚しく海風になぶられていた。小切手の振出人は事態を察して呻く。

「フラン……まさか、寝てんのか」



「何してんだ俺は、マジで、こんなとこまで来て」

 娘の足元に座り、着替える暇のなかった長袖シャツと暑いジーンズを呪い、それ以上に自分を呪い、ルイは砂を蹴った。背後では規則正しく安らかな寝息が続いている。眼前では涼しげで滑らかな海面が誘いをかけてくる。

挿絵(By みてみん)

「水着はない。ダラスにある荷物の方だ――じゃなくて、ビジネスだ」

 舌打ちついでに喉が渇いて、ルイはパラソルの根元に置かれたクーラーボックスを開けてみた。用意のいい娘は氷を詰め、サンドイッチやドリンクのボトルを持ち込んでいたようだ。

 懐中時計を確かめれば午後三時。一体何時間、ここで一人で待ってたんだ。俺が来るか来ないか、紫外線以上に不安に焼かれてたんだろうか、そんな自意識過剰な考えは気付いた端から苦々しく打ち捨てる。

 ふと、氷を見たルイは唇に笑みを浮かべた。

 一矢報いずしてどうする――ルイの手は氷をつかむと、無防備にさらされていたフランの腹の上へぶちまけた。

 ビーチに悲鳴がこだます。フランは飛び起きて氷を払い落とした。

「誰っ? 痴漢、変態っ、ポリス呼ぶから!」

 寝ぼけとサングラスで視界が定まらないのか、フランの予想以上に激しい警戒にルイは焦って後じさる。

「はあっ? フラン、俺だって」

「オレオレ詐欺がビーチでも通用すると思ってんの!」

「ちょっと待て、二週間で俺の顔を忘れたのか? 俺だよ、ルイ」

「……ルイ?」

 きれいにマニキュアされた指先が、ひょいとサングラスをずらした。茶色く敏捷な、大きな瞳が縁から覗く。

 次の一瞬、ルイは抱きついてくるフランの腕から逃げそこねて砂浜に転んだ。

「あんたはつくづく、俺を押し倒すのが好きなんだな。農耕民族の東洋系かと思ってたら、狩猟民族の家系なのか」

「ルイったら、こんなサプライズなら大歓迎。あたし朝からずっと待ってたの」

 別のサプライズを突きつけるつもりだったんだけどな――フランに唇を塞がれて、ルイはそう言うのを諦めた。



「ところでルイ。ビーチで水着のあたしを前にしてシャツにジーンズにスニーカーだなんて、どういう我慢大会させられてるの」

「あんたの質問はねじくれてる」

「二週間前にねじくれトークの個人レッスンを受けちゃったの。どうやらいい成績をつけてもらえそう」

 個人指導教官を砂から引っ張り起こして、優秀な生徒はにっこり笑った。

「ねえ、君はビーチにいるの。アメリカ本土で一番美しいと称賛されたこともあるバヒア・ホンダにいるの。水着に着替えて――荷物がダラスにある? じゃあギフトショップで買って。見立ててあげる」

 襟や袖から砂が入り込み、汗にまみれて不快この上ない。シャツをはたき、ルイは嘆息をイエスの代わりにした。

 娘はパラソルやデッキチェアを置きっ放しにして、駐車場のゴールドのレクサスへ戻る。ナンバープレートに描かれたピーチのデザインの下には、ジョージア州のカウンティ名が記されていた。

「へえ、アトランタから乗ってきたのか。今回はどんな可哀相な男をドライバーにしたんだ」

 ビキニの紐が掛かった肩がすくめられる。

「自分で運転した、すんごく長かった。君となら悔しいくらいあっという間だったのに」

「……ラジオ壊れてたんだろ」

「そうなの。今はお気に入り、ライブのねじくれ放送局に周波数ばっちり」

 助手席に座ったねじくれ放送局ラジオパーソナリティは、度重なる好意の表明をかわしきれずに黙り込む。

 ピックアップとは比較する気も起きないくらい静かにエンジンが回る。レクサスが公園内のギフトショップに向かう短い途上、ルイは頻繁に足を組み替えた。定まらない膝先をぽんと叩き、フランは明るい笑い声を立てる。

「あたしも落ち着かない! だってあたしが運転席で、君が助手席なんて初めてだもん」

「ああそうか」

 違和感の原因が分からずにいたルイは、ついうっかりと間抜けな返事をした。


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