17 International Airport
「何してんだ、俺」
左手にはキャスターバッグ、右手には航空券――ダラス経由キーウェスト行き片道。搭乗ゲートを前にしてルイは呻く。
前回の突発的アメリカ行きから二週間が経とうとしていた。
金鎖を持ち帰って両親の墓に詣で、キーウェストで一年間働く旨を祖母に告げて後任のバイトを探し、ビザを取得して身辺整理をする。目の回るような多忙の中で考えることを忘れていた選択肢が、ここでルイの前へ浮かび上がってきた。
キーウェストなんて行かなくていい。
念願の金鎖はここにある。代金の五万ドルは労働力で支払えと言われたが、小切手を送りつけたってあいつは咎めないに違いない――ルイは記憶の中にしかない娘の顔を思い返す。
東洋系ながら笑顔はアメリカ的に快活で、すばしこい茶色の瞳は心の底を見透かしてきそうな知性と澄明をたたえている。娘はキーウェスト支店オープニングパーティーを待たず帰国しようとするルイに、ためらいもせず金鎖を与えた。
ルイは渡米準備が整ったら戻ってくる、と約束をしたのだが。
あれはキーウェストの太陽に惑わされていただけだ――まだフリースの要る自国で過ごすうち、ルイの中でフロリダでの日々が現実から遠のき始めた。
情熱の太陽、ブルーグリーンの海、砂糖のごとき白砂。世界のどこかに存在する南国は日常にはなり得ず、だからこそパラダイスと呼ばれる理由となる。
フロリダの開放感が許した一夜限りの女。おいしいところだけ頂いてサヨナラ。そう割り切って現実に、住み慣れた国に生きればいいだろ、ルイ――語りかけるもう一人の自分の声には嘲笑が混じっている。
チン。不意にジーンズのポケットで懐中時計が鳴った。ようやく鎖の繋がったそれのミニッツリピーターを、ルイは慌てて解除する。弾みで落ちるキーの束。
中に一つだけ、ルイが鍵穴を知らないキーが混じっている。一週間前にキーウェストから速達で送られてきた封筒に入っていたのは、使い古された傷だらけのキーとキーウェスト国際空港のパーキングチケットだ。問いたださなくてもルイには何のキーか分かっていた。
ボロい、エアコンがなくて窓が手動の、黄色いピックアップトラック。
こんな車でUS-1の先を確かめに行くのも悪くない。そう言ったルイの背を、娘は事もなげに押してみせたのだ。
助手席空いてるけど? アンガスビーフもつける――そう誘われた時の娘の嬉しそうな顔が、ルイを搭乗ゲートに向かわせた。
せめて小切手は手渡ししようと。
機内の映画はつまらなかった。隣の巨体アメリカ人の脇腹は席に収まりきらず、肘掛けに乗り上げてルイの座席まで侵入してきた。ダラス空港で短すぎる乗換時間のために猛ダッシュをさせられた。
入国審査では前に並んでいた女の指が乾燥していて指紋リーダーが反応せず、審査官の指示で額の汗を拭い取ってようやく通った。ルイは女の額の汗が残るリーダーを使わされた。荷物が出てこなかった。
「体積に比例した座席数を買わせるべきだな」
疲労困憊でたどりついたキーウェスト国際空港。南国の午後早い、高く眩しい太陽がルイには憎らしかった。
トランク代わりのキャスターバッグはダラスで荷物検査をされ、短い乗換時間のあいだに積み込まれそこなったらしい。ダラスからの次の便に乗せて、夕方に届けると言われた。
手荷物で持ち込んだ小さなキャスターバッグだけを引いて、ルイは駐車場へ向かう。
埃っぽく風の強い駐車場へ踏み入れる前に目的のものは見つかった。これが会社の敷地ならば社長が停めるような特等の場所に、場違いにボロく黄色いピックアップは停められていた。ルイは手の中で温まっていたキーを試す。
釘の頭の形をしたシンプルなロックは、キーに呼応してゴトンと跳ね上がった。
「あいつ、マジでこの車を支給しやがった」
馬鹿じゃないのか、と鼻先で嘆息しながらルイは思う。金鎖を買いたいと言えば女は応じた。車が欲しいと言えばそれも用意した。住む家をくれと頼めばくれそうな勢いだ。
キャスターバッグを荷台に放り込み、運転席の硬いシートに座る。ハンドルにはメモの添えられた地図が貼られていた。
『バヒア・ホンダで待ってる。あたしが皮膚がんになる前に来て』
US-1をキー諸島から本土方面へ37マイル、約五十分。Bahia Honda State Parkが赤くマークされている。
イグニッションを回すと、エンジンは駐車場内に響き渡るような騒音を立てた。
ピックアップの最高速度は、今にも事切れそうに咳き込んだところで60マイル。やすやすと追い越しをかけられる。ルイがSlower Trafficのレーンに甘んじたのは免許取得以来初めてだった。
重いステアリング、つながりにくいクラッチ、切り替えるのにやたらと力の要るコラムシフト、壊れたラジオ。
厄日というのは日付変更線を越えたらもう一日延長されるもんなのか、とルイは知りたくもなかった真実にうんざりする。窓を全開にしても、入ってくるのはアスファルトに巻き上げられた土埃混じりの熱風。
「やっぱり小切手は郵送すりゃ良かった。いや振り込めば良かった」
あっという間に汗だくになって悪態をつくルイ。しかしキーウェストを脱し、US-1がサウスルーズベルト通りからオーバーシーズハイウェイに名を変えると、車内を抜ける風は土色から劇的に変化を遂げる――ブルーグリーンへ。
二週間前に娘を助手席に乗せて通った洋上の橋を、今度は逆に走っている。運転してみたいとただ戯れに憧れたポンコツのハンドルを握り、マイルのカウントアップをしながら。
ルイの中で薄れかけていた現実性が、風と共に急速に色を帯びる。
水平線まで呆れるくらい青の続く空には、綿菓子を気まぐれにちぎったような雲。青から緑にかけての中間色を独占する海。sugar-loaf――棒砂糖と地名を与えられるほどに白い砂。スピードダウンせよ、ここは本土じゃないと語るシールをフェンダーに貼ってのんびり走る車。
ルイはピックアップの遅さを忘れる。クラッチがきれいにつながれば、うしと笑う。車道と並行して架けられた釣り橋で糸を引く竿があれば、その先を目で追う。レゲエをハミングする。
緑と白の鮮やかなマイルマーカーが37に近付くとルイは、もっと先でもいいのにと感じている自分に気付いて苦笑した。フロリダ風の時間の緩やかさにすでに合流させられている。
右手に、青を背景にして立つ鉄橋が現れた。かつて娘に教えられた通り、今は使われていないために一部分だけがぽっかりと切り落とされている。
すぐに州立公園を案内する茶色の標識が、あと1000フィートで右折しろと教えてきた。
『料金所を左折ね』
3ドルの入園料を払うとメモに従い、細い道に乗り入れる。ルイの目は空も海も離れ、娘を探し始めた――フランという名の、かつての一夜限りの恋人。そして小切手を渡せばビジネスの完結する、金鎖の所有者。