月の記憶
見慣れた道も、夜になると表情を変える。
中空にある大きな満月と、道端に点々と続く街灯に照らされ、闇に浮かび上がった景色は、昼間に穏やかな気持ちで眺めていたそれとは、まるで別のもののような気がする。
「心細いのはきっとそのせいだよ」
自分を元気づけるために出した声が、妙に空しく響いて、私はビクリと立ち止まる。
右手に見える満月の光が、私の左側の地面にくっきりと黒い影をはりつけている。もしも今、自分の心が目に見えたら、この影のように見えるのかもしれないと、私は思った。
* * * * *
不安な理由を私はわかっている。ケイゴの本当の気持ちがわからないからだ。
私とケイゴは来週結婚する。ケイゴは職場の同僚で、同い年。でもしっかりしている彼は、私よりずっと年上の人のように見える。
ケイゴは高校生の頃、交通事故で両親と妹を亡くした。その日、部活のため法事に出かけなかった彼だけが、家族の中でただ一人難を逃れたらしい。今日まで親戚の世話になることもなく、彼はたった一人で家族と過ごした家で暮らし続けてきた。
それはきっと他人が思う以上に大変なことで、ケイゴは嫌でもしっかりせざるをえなかったのかもしれない。でも、大変そうなそぶりは少しも見せない。いつも冗談を言って、私を笑わせる。冗談がうけないと本気で落ち込んだりする。
いつの間にか本気で好きになっていた。姿の見えない日は知らず知らず雑踏の中に、彼を探している。プロポ-ズも二つ返事でOKした。
親友のチヅルがケイゴの変な噂を聞いたと携帯をかけてきたのは、昨夜だった。
「ユウの彼って一人暮らしだよね。同じ課の人がね、彼の家に用事があって行ったら、家の中から女の人の話し声や笑い声がしたって。ずいぶん夜も遅い時間だったみたいだよ。ユウ、彼の家にほとんど上がったことがないって言ってたから、じゃあ誰なのって気になったものだから」
チヅルの話を、私は笑い飛ばすことができなかった。もちろん私には覚えのない事だった。チヅルの言ったように、ケイゴは私を家に上がらせたがらない。結婚したら、近くのマンションで暮らす。でも、この家は手放さないと言った。
彼の気持ちを疑うことはなかったけれども、彼が私に何か隠していることは気がついていた。それと同時に、私自身も何かすごく大切なことを忘れている気がしていた。それが何かはわからなかったけれど。
ただ、目の前の『幸せ』に傷をつけたくなくて、ずっと触れないようにしてきた。でも、それではダメなのだ。チヅルの話を聞いて、私はそう思った。
* * * * *
もう9時近かった。なのに、ケイゴの家の窓には灯りが点っていなかった。留守なのだ、今日はあきらめて帰ろうと思ったとき、突然家の中からピアノの音が聞こえてきた。
とっさにチャイムを押すと、しばらくして驚いた顔をしたケイゴがドアから顔を出した。
「あれ、ユウ? こんな遅くにどうしたの」
「えっ? あの、あの……ちょっとケイゴの顔が見たいな、なんて思って……」
ケイゴに会った時の言い訳を、全然考えていなかった自分に気づき、私は慌てた。ケイゴの怪訝な表情が緩んで、やがてクスリと笑みを漏らす。
「そっか。なんかかえって心配かけちゃったのかな」
「家の中、真っ暗だから留守だと思って、帰ろうかなと思っていたの。そしたら、ピアノの音が聞こえてきたから」
「ああ、ユウにも聞こえた? ショパンの『別れの曲』。妹の十八番だったんだ。ここで立ち話もなんだし、上がったら?」
ケイゴの家のリビングは、ガラス越しに月の光を受けて、青い海の底に静かに沈んでいるようだった。ただ、窓の向こうに見える少し雲のかかった満月だけが、淡いオレンジ色に輝いていて、ただ一つ色彩というものを感じさせた。
「灯り、つけないの?」
ケイゴはソファ-に深く腰を下ろすと、私に隣に座るよう促した。
「うん。灯りをつけると見えなくなっちゃうんだ」
相変わらずピアノの演奏が静かに流れている。
―――何が見えなくなるんだろう。
私はそう軽く思いながらも、どこからピアノの演奏が聞こえてくるのかが気になって、蓋の閉じたピアノ・電源の入っていないオーディオと視線を移していた。
月にかかった雲が切れ、明かりのない部屋に差し込む光がほんのり明るさを増す。その時だった。ピアノの音が若干大きくなったかと思うと、私の目の前にその『映像』が現れたのは。
さっきまで誰も座っていなかったピアノの椅子に、長い髪を二つのお下げにした中学生くらいの女の子が座り、私に背を向けピアノを弾いていた。すると、その横にお兄さんらしき男の子が現れ、『ねこふんじゃった』を弾いてその邪魔を始めた。
『おかあさん、またおにいちゃんが意地悪するの』
女の子は演奏を中断すると、椅子から立ち上がり、台所に向かって声をかけた。
『まあまあ、あなたたちったら、本当に仲がいいのか、悪いのかわからないわね。ケイゴもミカの邪魔をしないのよ』
『ケイゴは部活で、明日叔父さんの家に一緒に行けないものだから、ちょっと寂しくって意地悪するんだよな』
お母さんとお父さんらしき人の穏やかな声が混ざり、女の子の『ええっ、嫌だ、おにいちゃんたら、寂しいの?』という声に『違うよ!』と慌てたような男の子の声が重なった後、辺りはひとしきり温かな笑い声に包まれた。
「これって……」
私の言葉を受けて、ケイゴが静かに答えた。
「幽霊じゃないから安心してよ」
「もしかして、あのケイゴって呼ばれている男の子は……」
「そう、高校生の時のおれ。隣の女の子が妹のミカ。それから、とうさんとかあさん。幸せだった頃のおれの家族」
それから、ケイゴは「はあーっ」と大げさなため息をついた。
「良かった、ユウが思ったほど怖がらなくて。ほらユウって遊園地に行っても、お化け屋敷なんか全くダメなタイプだろ? きっと怖がるだろうと思って言えなかった。
おれの家族はおれが高校生の時、車の事故でみんな亡くなったって話した事があるけれど、この目の前の光景は事故の前の晩、実際にあったことなんだ。
おれが初めてこの光景を見たのは、事故があって最初の満月の夜だった。家族で過ごした最後の夜の光景が、今みたいに、まるでビデオテープを見るように寸分違わず、目の前で繰り返された。それから満月の夜が来るたびに同じ光景を見た。夢でも幻でも、満月の夜に家族に会える、それが長い間おれの支えだった。
満月の夜にどうしてこんな不思議な事が繰り返されるのかはわからない。満月には元々そんな不思議な力があるのか、それともおれの神経がおかしくなったのか。亡くなった家族が残されたおれをあまりに心配してくれたせいかもしれない。幸せに暮らしていた日々をこの家も忘れられなくて、満月の夜の度にあの時の夢を見るせいかもしれない。いろいろ考えたけど本当のところは今でもわからないんだ。
―――でも、ユウにも見えるって事は、少なくともおれの神経がおかしくなったせいではなかったってことだよな」
ハハ…という力のない笑い声に、私はそっとケイゴを見た。冷たい沈んだ光がケイゴの横顔にかすかに色を与えていた。
彼は前を見つめたまま、静かに涙を流していた。
彼の涙を見たのは初めてだった。
私は突然胸の奥がきゅんとして、今まで経験した事がないくらい切なくなって、急に大声を上げて泣きたくなった。私の知らないところで、ずっとケイゴはこんな切ない表情をして過去を見つめてきたのに違いない。
「ごめんね」
―――ちゃんと気づけなくて。いつも近くにいたのに。
「どうしてユウが謝るのさ。ユウがいたから、おれ、過去を振り切ろうって思えたんだ。次の満月の夜はユウが側にいてくれる。だから今日は最後の夜で、一人で家族にさよならを言うつもりだった。いつまでも過去にしがみつきたいおれに、ユウは自分じゃ気づいてないけど、いつも前に踏み出す力をくれた。おれに『未来』を感じさせてくれたんだ」
私はケイゴの右手を両手でぎゅっと包み込み、その肩に頭をもたせかけた。そして、目の前の幻を見つめた。
ケイゴの妹は再びショパンの『別れの歌』を奏でていた。今までだって私はケイゴが好きだと思っていたけど、それでも十分自分の気持ちが分かってはいなかった。それくらいケイゴが愛しい気持ちで心の中はいっぱいだった。
「私はずっとずっとケイゴの側にいるよ。私、ケイゴが好きだもん」
その言葉を言ったとき、心の中に欠けていたピース(断片)がピタッとはまったような気がした。ずっと忘れている気がしていた大切なこと―――私は無意識のうちに、ケイゴにこの言葉が言いたかったのだ。
ケイゴが私の頭にそっと頬を寄せた。
ピアノの旋律は続いている。闇に沈む景色の中で、ただ窓の外の月の色だけが暖かく、命を感じさせる。だけど、月がそのように輝くのも、いつも月に想いをはせ、力を送り続ける存在がこの世にあるからなのだろう。
―――ずっと側にいるよ。大丈夫、側にいれば。二人一緒なら。
手のひらからケイゴの暖かさが伝わってくる。それを確かに感じながら、私は幻の少女の奏でる最後の演奏をいつまでも聴いていた。
( 完 )