廃工場のお母さん
骨組みだけの屋根から、月の光が差し込んでいた。今夜は月が真ん丸だ。静かな夜だった。かつて工場だった建物のコンクリートの床は壊れた色々な物で埋め尽くされている。
何日か前の夕方、大規模な空爆があった。
その日はトトの四歳の誕生日で、家族が食卓を囲み、お祈りをしていた。
ヒューッと音がした。
「花火だ!」
お祝いの花火だと思った。
トトは、母親が止めるのも聞かずに家を飛び出した。直後、鼓膜が破れるような大きな音が何度もして地面が揺れ、強い力で吹っ飛ばされた。気が付いたら道に倒れていた。
砂埃で真っ白になった手足に血が滲み痛くて涙が出る。咳き込みながら身を起こして辺りを見回すと、亡くなった祖父が建てた組積造の家や隣家のリリーの家、一帯の建物は無くなって、ずっと向こうの小学校まで見渡せた。所々火の手が上がり、小学校も燃えていた。
何が何だかわからない。家があったところには、壊れた日干し煉瓦が山積みになって、土煙が上がっていた。煉瓦に挟まっているのは、母親が刺繍したテーブルクロスだろうか。
「お父さん! お母さん! お祖母ちゃん!アブル!」
応える声はない。灯りはなく、群青の闇が黒に限りなく近付いても、トトは為す術も無くしゃがみ込んでいた。肩を叩かれて振り向くと、知らないおじさんが悲しそうな顔でゆっくりと首を振った。
「行くあてはあるか?」
トトの頭に、父親の仕事場の工場が浮かんだ。あそこは、大きくて頑丈そうだから、きっと大丈夫。皆、あそこへ逃げたのかもしれない。
「うん」
トトは、おじさんがくれた小さな懐中電灯の光を頼りに、父親の仕事場に向かって歩き出した。何処かが燃えているので、明るい所では懐中電灯を消した。おじさんが、電池が無くなるから、そうしろと教えてくれたのだ。
何かが燃える臭いがし、道端で身を寄せ合う黒い人影は泣いていた。誰もトトを見ず、声をかけない。
遠くでサイレンの音が聞こえる。暗い道を一人で歩くのは怖かったが、二つ年上の兄のアブルに「弱虫」と言われたくなくて、唇を噛み締め、泣かずに歩いた。
家の前の道をまっすぐ歩いて、小学校のある通りの手前を右に曲がって、一本、二本、三本目の路地を入った突き当り。
トトは建物の前に立ち、見上げた。昇って来た月明かりの中に父親の仕事場の工場があった。
「……壊れてる」
屋根も壁もひしゃげた鉄骨の骨組みを晒し、一部にトタンがバタバタ揺れていた。
今夜ではなく、ずっと前に壊れたみたいだ。
月が照らす内部には誰もいない。いや、もしかしたら奥の方にいるかもしれない。トトは、足元に転がる何かに躓つまずいて転んだり、踏みつけたりしながら、ズンズン進んだ。
奥まった一角に黒く大きな塊かたまりが見え、怯えて足を止めた。息を詰めて見つめるが、それは動かない。ゆっくり、一歩ずつ近づいて行くと、何かの像のようだった。
「お母さんだ」
ブロンズで出来た像は、お姉さん座りをする女の人で、両手を体の前で輪にするようなポーズをしていた。まるで、誰かを抱き締めるような姿だった。
トトは像の腕の輪をくぐり、像の膝に座った。
像の胸に顔を寄せると、冷たく硬かった。お母さんの胸みたいに、涙を吸い取ってはくれないけれど、まるでお母さんの膝に抱かれているような気持ちがした。
「お母さん」
そっと呼んで腕を回し抱きついた。
お腹がグゥと鳴る。丁度、夕飯を食べようとしていたのだ。久しぶりの羊肉の煮込み、食べたかったな。お腹は空いていたけれど、沢山歩いて疲れて眠い。お母さんに抱っこされて安心する。トトはここに住むことにした。
翌朝、目覚めたトトは工場の中で食べ物を探した。
何の工場だったのだろう。
父親は「いもの」と言っていたが、トトにはよく分からない。金属を溶かして、何かを作るらしい。金属を溶かす炉や、加工する機械が壊れて並んでいた。パン工場だったらなぁ。食べものは無かった。
お腹はぺこぺこで、喉はからからだった。
誰かが崩した積み木みたいな街を彷徨さまよっている時に、パンと水を配っている人達に出会った。土埃と渇いた血で汚れた手を差し出す。
「大丈夫? 家族は?」
「お母さんと住んでる」
「じゃあ、二人分ね」
トトは、工場に帰ってお母さんに話した。
「これはね、街で配っていたんだよ。ほら、お母さんの分もくれた」
パンを半分に割る。いつも、兄のアブルと半分こした。
「……でも、もういない」
呟くと自分の言葉が、胸の中でどんどん重くなり、息が苦しくなって視界が歪んだ。皆、あの煉瓦の下敷きになってしまった。
少し前のある日、「街の外に出掛けたい」と言うトトに「出られなくなった」と父親は暗い顔をした。父親のいる家は静かで、母親がよく作っていた羊肉の煮込み料理の匂いはしなくなった。
トトはアブルと兄弟喧嘩をして、父親に叱られたけれど、二人はいつも一緒にいた。アブルや隣家のリリー達と縄跳びや鬼ごっこをした時、大縄に入るタイミングが掴めなくて笑われた。べそを掻くトトを母親は温かな胸に抱いて「大丈夫。そのうち出来るようになる」と優しく励ました。
その内、低い音を立てて、小さな飛行機が空を飛ぶようになった。
「いいかい、空から爆弾っていう恐ろしい物が降って来るから、何処にいても皆が逃げたら、一緒に逃げるんだよ」
母親と祖母は、身を屈めてトトとアブルに言い聞かせた。
「……あれは、花火じゃなかったんだね、お母さん」
月が真ん丸なその夜、静けさを破ってヒューッと音がした。
心臓が胸を突き破りそうに跳ねている。いつか見た集団舞踊の足を踏み鳴らす音が耳の中でする。
「お母さん、……怖いよ」
トトは、像の腕の中でがたがた震え縮こまった。
大きな音と、地響き。廃工場が崩れ落ちた。
ガラガラ、バラバラ、ズゥウウン!
像はトトを庇うように、前向きに倒れた。
ブロンズの背中は、落ちて来た鉄骨を受け止め、胸に抱かれたトトは守られた。
了




