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廃工場のお母さん

作者: 時輪めぐる
掲載日:2026/06/03

 骨組みだけの屋根から、月の光が差し込んでいた。今夜は月が真ん丸だ。静かな夜だった。かつて工場だった建物のコンクリートの床は壊れた色々な物で埋め尽くされている。





 何日か前の夕方、大規模な空爆があった。


 その日はトトの四歳の誕生日で、家族が食卓を囲み、お祈りをしていた。


 ヒューッと音がした。


「花火だ!」


 お祝いの花火だと思った。


 トトは、母親が止めるのも聞かずに家を飛び出した。直後、鼓膜が破れるような大きな音が何度もして地面が揺れ、強い力で吹っ飛ばされた。気が付いたら道に倒れていた。


 砂埃で真っ白になった手足に血が滲み痛くて涙が出る。咳き込みながら身を起こして辺りを見回すと、亡くなった祖父が建てた組積造の家や隣家のリリーの家、一帯の建物は無くなって、ずっと向こうの小学校まで見渡せた。所々火の手が上がり、小学校も燃えていた。


 何が何だかわからない。家があったところには、壊れた日干し煉瓦が山積みになって、土煙が上がっていた。煉瓦に挟まっているのは、母親が刺繍したテーブルクロスだろうか。


「お父さん! お母さん! お祖母ちゃん!アブル!」


 応える声はない。灯りはなく、群青の闇が黒に限りなく近付いても、トトは為す術も無くしゃがみ込んでいた。肩を叩かれて振り向くと、知らないおじさんが悲しそうな顔でゆっくりと首を振った。


「行くあてはあるか?」


 トトの頭に、父親の仕事場の工場が浮かんだ。あそこは、大きくて頑丈そうだから、きっと大丈夫。皆、あそこへ逃げたのかもしれない。


「うん」


 トトは、おじさんがくれた小さな懐中電灯の光を頼りに、父親の仕事場に向かって歩き出した。何処かが燃えているので、明るい所では懐中電灯を消した。おじさんが、電池が無くなるから、そうしろと教えてくれたのだ。


 何かが燃える臭いがし、道端で身を寄せ合う黒い人影は泣いていた。誰もトトを見ず、声をかけない。


 遠くでサイレンの音が聞こえる。暗い道を一人で歩くのは怖かったが、二つ年上の兄のアブルに「弱虫」と言われたくなくて、唇を噛み締め、泣かずに歩いた。


 家の前の道をまっすぐ歩いて、小学校のある通りの手前を右に曲がって、一本、二本、三本目の路地を入った突き当り。


 トトは建物の前に立ち、見上げた。昇って来た月明かりの中に父親の仕事場の工場があった。


「……壊れてる」


 屋根も壁もひしゃげた鉄骨の骨組みを晒し、一部にトタンがバタバタ揺れていた。


 今夜ではなく、ずっと前に壊れたみたいだ。


 月が照らす内部には誰もいない。いや、もしかしたら奥の方にいるかもしれない。トトは、足元に転がる何かに躓つまずいて転んだり、踏みつけたりしながら、ズンズン進んだ。


 奥まった一角に黒く大きな塊かたまりが見え、怯えて足を止めた。息を詰めて見つめるが、それは動かない。ゆっくり、一歩ずつ近づいて行くと、何かの像のようだった。


「お母さんだ」


 ブロンズで出来た像は、お姉さん座りをする女の人で、両手を体の前で輪にするようなポーズをしていた。まるで、誰かを抱き締めるような姿だった。


 トトは像の腕の輪をくぐり、像の膝に座った。


 像の胸に顔を寄せると、冷たく硬かった。お母さんの胸みたいに、涙を吸い取ってはくれないけれど、まるでお母さんの膝に抱かれているような気持ちがした。


「お母さん」


 そっと呼んで腕を回し抱きついた。


 お腹がグゥと鳴る。丁度、夕飯を食べようとしていたのだ。久しぶりの羊肉の煮込み、食べたかったな。お腹は空いていたけれど、沢山歩いて疲れて眠い。お母さんに抱っこされて安心する。トトはここに住むことにした。




 翌朝、目覚めたトトは工場の中で食べ物を探した。


 何の工場だったのだろう。


 父親は「いもの」と言っていたが、トトにはよく分からない。金属を溶かして、何かを作るらしい。金属を溶かす炉や、加工する機械が壊れて並んでいた。パン工場だったらなぁ。食べものは無かった。


 お腹はぺこぺこで、喉はからからだった。


 誰かが崩した積み木みたいな街を彷徨さまよっている時に、パンと水を配っている人達に出会った。土埃と渇いた血で汚れた手を差し出す。


「大丈夫? 家族は?」


「お母さんと住んでる」


「じゃあ、二人分ね」


 トトは、工場に帰ってお母さんに話した。


「これはね、街で配っていたんだよ。ほら、お母さんの分もくれた」


 パンを半分に割る。いつも、兄のアブルと半分こした。


「……でも、もういない」


 呟くと自分の言葉が、胸の中でどんどん重くなり、息が苦しくなって視界が歪んだ。皆、あの煉瓦の下敷きになってしまった。




 少し前のある日、「街の外に出掛けたい」と言うトトに「出られなくなった」と父親は暗い顔をした。父親のいる家は静かで、母親がよく作っていた羊肉の煮込み料理の匂いはしなくなった。


 トトはアブルと兄弟喧嘩をして、父親に叱られたけれど、二人はいつも一緒にいた。アブルや隣家のリリー達と縄跳びや鬼ごっこをした時、大縄に入るタイミングが掴めなくて笑われた。べそを掻くトトを母親は温かな胸に抱いて「大丈夫。そのうち出来るようになる」と優しく励ました。


 その内、低い音を立てて、小さな飛行機が空を飛ぶようになった。


「いいかい、空から爆弾っていう恐ろしい物が降って来るから、何処にいても皆が逃げたら、一緒に逃げるんだよ」


 母親と祖母は、身を屈めてトトとアブルに言い聞かせた。


「……あれは、花火じゃなかったんだね、お母さん」





 月が真ん丸なその夜、静けさを破ってヒューッと音がした。


 心臓が胸を突き破りそうに跳ねている。いつか見た集団舞踊の足を踏み鳴らす音が耳の中でする。


「お母さん、……怖いよ」


 トトは、像の腕の中でがたがた震え縮こまった。


 大きな音と、地響き。廃工場が崩れ落ちた。




 ガラガラ、バラバラ、ズゥウウン!




 像はトトを庇うように、前向きに倒れた。


 ブロンズの背中は、落ちて来た鉄骨を受け止め、胸に抱かれたトトは守られた。







               了

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