2-5『再演規定』
補佐官が羊皮紙を丸め、棚に挿し込んだ。それから片眼鏡を少し押し上げた。微動していないそれに触れるのは、別異な行動をとろうとする無意識の合図だと俺だけが知っている。
「……ひとつ申し上げてよろしいですか」
「言ってみろ」
一つ一つ指の付け根にはめた指輪をもてあそびながら、俺は少し邪険に返した。もしも、すれた若者に疑心を向けられるのならいいが、しかしこの男に見限られては困るという気持ちが立った。先程までそんなものだと軽く受け流しておいて、何の底意もなく、気まぐれに心移りをしてしまう。胡椒を噛んで咥内が痺れたようなものだ。さほどでも無くなるまで、短い感傷となるのだろう。
(俺はもう、お前の知る俺ではない……)
時戻りをした数だけ、非常識な振る舞いを増やしているような気がした。そばにあればあるほど、俺が何事かを企てていることを察するのだろう。俺の目的は魔族の繁栄でも生存でもなく、別にある。それを成すための小細工は、彼らの知る俺からはひどく乖離しているはずだ。
「今回は集落ごとの避難経路と日程、誘導部隊の編制に至るまですべて貴方の独断で敢行されました。貴方は各地に留め置いている潜伏者よりも早く王国軍の動きを掴んだ。大多数は、得体の知れない根拠を認め、これまで貴方が授けてくれた恩恵を鑑みれば、細事に拘るべきではないと思っています。ですが私はそうではない。この肩書きを持つ責任として、純粋に疑問に思っています。貴方は何一つ説明してくれなかった。薄弱な理由のひとつも」
何千回も同じ生を繰り返してきたからだ、とは言わなかった。言えなかったのではなく、言う必要がなかった。この男が何を見てそう言ったのか、わかっていた。そしてその言葉に込められた懐疑も、妥当な事だと思った。
もしもすべてを詳らかにしたとして、道筋が大幅に変わることは望んでいない。幸いなことに補佐官の言葉は必ずしも俺の秘密を射当てているわけではなかった。この男はまっさらな器を差し出して、俺の病斑を呑みたがっている。だが俺は、白いものは白いままにあって欲しいのだ。
「すべてを知ることが、この上なしに正しいことではない」
「ほかにも隠し事があるというのですね」
「俺は俺の苦労をお前に知って欲しいわけじゃない。その逆も然りだ」
「……本当のことを言うまでここを動かないと言っても?」
「無意味だ」
「…………」
「…………それだけか?」
「……私は、貴方が何もかも見晴るかしているように思えるのです……私の思い違いですか?」
見晴るかすとは、高いところから広い景色を眺める行為だ。
俺がしているのは、もっと地べたに近い何かだ。
二人分の沈黙を、扉を叩く音が破った。
補佐官の声を待って入室してきたのは城門の見張りだった。男は扉のそばで直立し、片手で胸を叩いた。黒い胸当てが鈍い音をたてる。男は顎をあげ、息継ぎをしてから、一息に言った。
「申し上げます! 北の側防塔で勇者接近の狼煙があがりました! 王国の方角から、森に抜けてきたものと思われます!」
「茨の森の様子は」と、厳しい顔の補佐官が見やるので、見張りは一瞬われを忘れた。
執務机を指先で叩き、放念から戻った見張りは口にたまった唾をぐっと飲み込むと、再度答えた。
「木々は倒伏し、茨は落枝しして、裂けた幹の中で縮こまっている模様です。通常であれば森を抜けるのは至難の業ですが、長が申しておりました。茨も廃液沼も勇者にとっては児戯に等しいものだ。朝焼けの空を背に、世のすみずみまでも揺るがすのが勇者なのだと……はっ! あのッ、申し訳ございません! 出過ぎたことを申しましたっ!!」
補佐官の殺気立った表情に、見張りは自身の失言に気づいて慌てて口を噤んだ。彼が惚けたのも当然だ、勇者は神に愛された職だ。これまで勇者と名乗った者がのこした逸話は、畏怖と尊敬をこめて魔族側でも語り継がれている。見張りに退室を許可すると、扉や外の守衛にぶつかりながら逃げるように去っていった。
「城外に部隊を集めます」と、鋭く補佐官が言った。体はもう扉の方に向けている。
「不要だ」
信じられないものをみたという体で補佐官は振り返った。
「何故です! 貴方が出るというのですか?」
「誰にも報せる必要はない。門番も見張りも普段通りの防衛準備状態のままでいい」
「……それでは勇者の侵入を……もしや、止めるつもりがないのですか?」
沈黙は肯定となる。
「………………説明はしてくださらないのですね」
「…………」
窓向こうで梢が揺れていた。補佐官はゆっくりと視線を漂わせ、それからゆっくりと顔をあげた。
「…………失礼します」
風が止んだ。梢が揺れをやめた。城内の音は遠ざかって今度こそ静寂が訪れた。
静かになった部屋を後にする。俺は屋上に出て、時を待った。湿った風が吹いている。もうすぐ嵐になるのだろう。
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