9-2『一頭の羊』
剥き出しになった白目と、限界まで押し開かれた口。その口角から滴る唾液が、額やこめかみに向かってあふれ、伝い落ちる。
「あ、あ、あ」——唾液に遮られた、喘ぐようなうめきが喉の奥から這い出してくる。時計屋の異変に魔王は迷わず手を伸ばした。術式からその体を引き剥がそうと、時計屋の肩へ触れる、その寸前。
指先から硬質な火花が弾けた。容赦のない雷光が手のひらを焼き、衝撃が腕を駆け抜ける。強固な拒絶に、魔王は即座に剣を抜き、その術式を物理的に断ち切った。
しかし、時計屋の体は反り返ったまま戻らない。深い襟ぐりから覗く痩せた肌には、今も術式と同じ赤い文字が、呪いのように刻み込まれている。
斬った刃が戻るより早く、地面の文様が意思を持ったように動き出し、四方へと鋭く光の線を伸ばした。
赤い光に塗りつぶされる城壁の床面。満ちた光はうねり、瞬く間に無数の人影の形へと変わっていく。
光が銀の鎧をまとった兵士へと実体化していくのと同時に、莫大な質量に押し流された周囲の空気が下方へ一気に吹き抜けた。城壁の上を埋め尽くしたのは、一瞬にして転移を完了させた数百の軍勢だ。
鋭い金属音を響かせ、兵士たちが剣を抜く。
完全に囲まれながらも、魔王は剣の刃へ、自らの左指を深く押し当てた。
刃が肉を裂き、鮮やかな血がにじみ出る。その指を床面へ押しつけ、すでに発動している文様の上から、新たな血文字を素早く書き殴る。自身の血を混ぜることで、術式の構成を強制的に書き替えるための処置だった。
だが、床に引かれた血の文字は、文様が放つ赤い光に瞬く間に吸い込まれ消えていく。術式に何の変化も起きない。他者の介入など、最初から存在しないかのように。
その赤い光の奥から、ふわりと、場にそぐわない甘い匂いが立ち上る。
数日前、時計屋と盤面を挟んで向かい合っていた。あの男はいつものように振る舞いながらも、攻め手には精彩を欠いていた。駒をおもむろに傾けていると、一枚の紙片が視界の端に置かれた。
『今では珍しい契約の紙片です。特性の投影を行える術式ですが、契約者の精神に負荷がかかるため、三百年ほど前に廃れています』
時計屋は紙片を摘まみ上げると、紙片を持ち込んだ補佐官と「術式」と「血文字に混じる甘い匂い」について語り合っていた。
――あの時、時計屋の体から確かに漂っていた甘い匂い。体に不審な点もなく、本人が心配ないと跳ね除けたあの匂いが今、あの時以上に濃密に城壁の上を満たしている。
やがて、術式は静かに霧散した。光が消え去っても、時計屋は硬直したまま動かない。
魔王はその体をそっと抱き寄せた。開いた手のひらは石のように固く、指先の一本一本に異常な力が突っ張ったまま、戻ることはない。
しかし、その顔に残された眼だけが、最後の力を振り絞るようにぎょろりと動き、魔王をじっと見つめた。その瞳が、何かを強く訴えかけている。
「わかっている……俺も、楽しかった」
そう告げると、時計屋は己の運命を受け入れたようだった。体はようやく弛緩し、ゆっくりと瞼を閉じた。
「………」
魔王はそっと視線を外し、城の内側へとあてもなく目を泳がせた。その視線はそのまま、空を遮る峻険な山々の尾根、どんよりとした雲の切れ間へと向けられる。
大切なものの喪失したのは、一度や二度ではない。
けれど、腕の中で重くなった友の体を受け止めながら、魔王は最後に空の色を確かめていた。
――その時、黒い稜線を裂くように、強烈な朝陽が山向こうから射し込んだ。
山肌を抉るような鋭い光が、一瞬にして世界を赤く染め上げる。魔王の目が見開かれた。
それは巻き戻しを告げるあの鮮烈な赤ではなかった。どんよりとした雲を白く透けさせ、新しい一日を告げる、ただの美しい朝焼けだった。
(――時計屋は「戻っていった」わけではない。ここで、死んだのだ)
ゆっくりと俯いた魔王は自らの片手で、顔の半分を覆った。何を動揺することがある。何を後悔することがある。そう自問しながら、涙管から何かが流れそうになる。
指の奥、ただ一度だけ強く目を閉じる。
「……はッ……」
喉の奥から、乾いた音が漏れ出た。
魔王は笑っていた。
腕の中の友へ、静かに顔を寄せる。もう二度と応えることのない羊角へ、自らの角を、ざり、と静かに噛み合わせる。
伝わるのは、ただただ硬質で冷たい石のような手応えだけだというのに、思い出の名残がどうしようもなく温かい。
静まり返った城壁の上、一頭の羊の自嘲がしばらく黙然とすわっていた。




