1-2『黄金の刻』
いま俺とルカの眼下には深い谷、その底に荒れ狂う川がたぎっている。
断崖の向こうには毒の湿地が広がり、鬱蒼とした森が際まで迫っている。そこでは茨が侵入者の死顔をはぎとる光景が見られる。森の中は数多の道すじがあり、一度入ればやすやすと外へ逃れることはできない死の庭だ。
魔王討伐のためにやってきた一団がぞろぞろと歩いていくも仲間と切り離され、己の血に温かく抱かれることも世の習いだ。彼らは自分たちだけが森を抜けられると信じているのだろう、もしくは数百数千と同胞が森に吞まれても構わないのだろう。人間が何人土に還ろうと、王国ではいつもどこかしらで祭りがあり、歌があり、踊りがあり、宴席が道を埋めていると聞く。
俺たち魔族はあくまで自衛のために人間を惨殺せねばならなかった。互いに無疵のままで、領地を侵すことなく生きていくことは難しく、事実、人間たちは今でも魔族殲滅に熱心で、王国軍への志願者は膨らむ一方だ。
ルカは人間の女で、勇者だ。彼女は血まみれの凄惨な姿になることなく森を抜け、たえず人間を目の敵にしている門番に見つかることなく、城壁を軽々と越えた。
対峙した時、その堂々とした遣り口と全身から迸る自信に敬意を表して直剣を抜いた。たったひとりやってきた女は心の中に刻印されたものを掴んで、踏み出す一瞬を真剣に探っている。
俺には彼女がまるで子供にみえていた。角のない白木のような新鮮な顔。華奢な体、身の丈に合わない無骨な剣は魔王の命を奪う為に下賜されたのだろう。この程度の者が勇者を名乗り、宿命の中に俺の顔を描いているのかと思うと、軽蔑を感じると同時に、どこか不思議と同情がわきおこった。
はっきりと拒絶の態度をとってやることが、勇者などという無意味な因習に背を向けられない女の為になるだろう。そう思ったのだ。目の前の女がなぜ勇者になったのか、そうしたものは格別俺の心をひかなかったが、未だかつて誰も辿り着いたことのない場所に、人間とは思えない落ち着きで佇んでいる女をみることは楽しかった。実際、この時の俺は笑っていたらしいが、気づいていなかった。
「あれは?」
彼女の指した方角に黒煙の柱があった。
「誰が森を焼いているの」と、目を細めている。
「行ってみてくる」
きょろきょろと首を振ったと思えば、城壁から身を乗り出して対岸までの距離を目測し始める。
「何のために」
「助けを求めている人がいるかもしれない」
あの黒煙の下にいるのが人間か、魔族か、定かではない。獣の群れが雌雄の順位制を争っている可能性もある。彼女がなにを想定しているかはわからない。
「触れるな。外に出た者に命の補償をすることは神でさえ不可能なことだ。城の外のことはすべて戦、他人の命運に勝手に口をさしはさむな」
彼女は頷くと鋸歯の壁のうえに立ち、指笛を吹いた。旋回していた鳥獣が彼女の願いに応えて高度を下げる。
名を呼ぶ暇もなく、俺の隣はからっぽになった。絶壁に身を投じた彼女は滑空してきた鳥獣の背に乗り、すでに小さな点となっている。もうそばにいない、そのことを意識すると、全身が得も言われぬ手ごたえのない海に放り出されたような感覚に陥った。世に光を投じていた太陽は沈み、あるのは居心地のいいはずの闇だが、冷たい風に吹かれて死んでしまいそうな俺がここにいた。哀れさを通り越して、憤怒さえ覚える。なぜか俺は彼女を追おうとしているのだ。まったく哀れとしか言いようがない。
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ある夜、城の厨房から何かを煮る匂いが漏れていた。香草と肉の匂いが石造りの廊下を伝って、灯りのついていない回廊の奥まで届いていた。ヴェルが通りかかると扉の隙間から光が見えた。ルカが火の前に立っていた。そばには夜着のまま丸椅子に座る子供たち。鍋を覗き込んで、指を立てて振り返る。子供たちの笑い声。木匙で中をゆっくりかき混ぜながら、花を愛でるような顔をしている。室内には軽みのようなものが先立ち、いじらしい空気だった。可笑しさをこらえようとして、はにかむ女の長い睫毛が伏せられている。顎の線に、炎の揺れが行き来して、装飾もつけない女を飾っていた。
声をかけなかった。
ただ扉の前に少し立っていた。中に入れもしなかったのだ。厨房の熱が廊下まで薄く漏れてきて、冷えた石の空気の中でそこだけ温かい。などと、などと感じている。
眠れぬ子供たちとの交わりも、彼女の料理も、そもそもどうでもいいことだ。だが何か言葉にしようとしている自分に気づき、喉の奥で止まるものを苦々しく思った。言葉はあった。言おうとすれば言えた。でも何かが邪魔をして音にはならなかった。言ってしまったら何かが終わる気がしていたのだ。
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