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きみが死なない、その朝まで  作者: 夜行(やこう)
第三章

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3-7『循環』

ルカは懐かしい思い出に目を細めた。魔王の左方に映し出された場所は老いた王の幻影をかき消してくれたのだ。鼻をすすると床板にこびりついた糞尿の臭いがしてきそうなほど、微細に描写された酒場がそこにあった。ルカは笑った。一刹那の幻覚に囚われることに安堵していた。


(…………きっと今も、あの人たちは酒を飲んで、喧嘩をして、笑っているんだろうな……)


あの酒場は丸々と肥った鼠が床下に巣食っていて、客の数より鼠の方が多かった。営業していると言い張るが血だまりはあるし、吐いた痰もそのままだ。

隅には年中眠りこけている男がいて、日が沈むと酒や仕事を求めて人が集ってきた。やってくるのは体にも経歴にも傷のある男ばかりで、ルカは酒作りを教えられ、配膳係をしていた。


若い女がいればそれだけでつまみになると酒を傾けては「鼠に家賃払えって言ってこいよ」と尻をひっ叩かれる。その前の週、鼠に杯を倒された苛立ちで床下に火種を放りこんだことなど忘れている男はルカの名前や素性をニタニタとしながら尋ねてきた。名前などとうに憶えているが遊びたいだけなのだ。付き合ってやらねば腹いせに殴られることを知っている。


ルカを雇っていたのは酒場を取り仕切っていた髭面の男だ。いつも彼のことを師と仰いでいたが、とても頑固で、師などと言われると虫唾が走ると言い、暴力によって互いの道を閉ざそうとしていた。反してルカは蹴りのひとつさえ指導と捉えていたので、身寄りのない子供の相手をしてくれる善人だと思っていた。

彼の躾は独特で、ルカが平伏してうやうやしくしようものなら、目をぎょろりとむいて不機嫌になった。「かしらがお怒りになったぞぉ」と周囲が茶化す。要するに誰かにおもねる事がやるのも見るのも嫌いで、男の中でも対等であれと女を育てようとする気味があったのだ。


『人殺しはしたくありません』


また始まった、と周囲は手をひらひらと振った。生きていくために子供に人殺しを誘惑するといったことは、抵抗のない世の中だ。だがルカは今日も首を振った。


『生意気にほざくな。大金が入りゃあ、ガキどもを養っていけるだろうが』


師は仕事道具を磨いている。目線は布に包まれた剣に注がれている。


『鳥の声を今日初めて聴いたんです』

『……気色が悪いことを言いやがる』

『見たのではなくて、聴いたのです。いつも鳴き声を聴く前に殺してしまっていたので、聴いたことがなかったんです』

『また、得意の「うつくしい」か。そんなもんで腹が膨れるか? あぁ?』

『殺してしまえば二度と聴こえなくなる気がするのです』

『生きる為に鶏も鹿も殺しておいて、何を上から語ってやがる。鳴き声がてめえの為にあるとでも思ってんのか? 親なしのお前が泣き喚いても誰も助けてくれねえように、人間の始末は人間がつけなきゃなんねえんだ。てめえの出来の悪さをよそのせいにしてんじゃねえ』

『誰かを殺すくらいなら、私が死にます』

『嘘は言わねえやつだと思ってたがな』

『……嘘じゃ、』

『お前にねえのは覚悟だ』


覚悟———魔王()を殺す覚悟。たとえば、この世の悪を塗り固めた様な男がいて、枯れ木の中ほどに腰をおろし、不幸を吐き出し続けているのだとしたら。その不幸を飲み込みに行きたかった。いっそのこと、目の前の(魔王)にそうであって欲しかったのだ。


『弟と妹はお前だけが頼りだ……お前が背負わなきゃならねえ覚悟はそっちだろ』


幻は消えた。元から無かったのではない、見えなくなっただけで心の奥底に存在している。


「私は」


ルカはようやく覚悟を決めた。


「私は貴方を殺さない」


大波が立って、ばしゃんと全身荒波を浴びた気分だった。ルカは自分で言っておいて、あまりのちぐはぐさに口元をぎゅっと結んだ。この数か月を自分で覆したのだ。

魔王は眉をかすかに上げると、顔をくしゃりと緩めた。笑っている。魔王は笑っていた。


「靴の中に砂でも入ったか? そんな顔をしているぞ」


やさしい声色にとっさに何も言うことはできなかった。言葉の代わりに唇が突き出る。その不格好さに魔王はまた笑っていた。


「……殺さないというなら、お前の手を煩わせるのも迷惑だろう」


魔王は剣を抜いた。剣先はルカに向けられることなく、自身の首筋に宛がわれた。行動の迷いのなさにルカの思考は追いつかなかった。黒い鎧と衣の隙間、かすかに覗く肌に赤い筋が見えると走り出していた。






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