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きみが死なない、その朝まで  作者: 夜行(やこう)
第三章

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3-5『循環』

問題は音だ。

鉤爪を挿し込む時に生じる擦過音を、頂上に至るまで数十回繰り返さなければならない。爪を一度で正確に穿ち、登攀に要する時間を短くする必要もあった。両手を塞がれるため、どうしても無防備になってしまうのだ。ひとまず空を突いて角度を確かめる。持ち手を修正して、一手目を振り上げる。石の隙間にかかった音は沼地に響いた。だが、見張りは遠ざかるばかりで戻ってはこない。よし、と頷いて壁に足をかける。が、爪の掛かりが浅く、すぐに抜けてしまった。


灯はまだ戻る気配はない。肩の力を抜いて二手目を突き刺す。今度は深く刺さった。縄を引いて具合を確かめてから、足の裏で石の出っ張りを探り、体重を足指だけに委ねる。三手目は最初より上に引っ掛けた。鎧が壁に当たらないように体を少し外に傾けながら、鉤爪を掛け、足場を探し、抜き、また掛ける。石壁が頬にあたり、ざらりとした砂礫に皮膚が擦れた。鎧を脱げばよかったと後悔しつつ、あとはもう無心で登り続けた。


最上部に爪を掛け、勢いをつけて手で掴みなおす。手放した鉤爪が頭部の真横で揺れ、ルカは腕の力だけで城壁の上に頭を出した。壁の一部は外に突き出しており、足をかける場所がなかったのだ。おそらく自分のように登攀して忍び込もうとする敵を排除するためだろうと、城の堅牢な造りにうなりつつ、ルカはとうとう壁を登り切った。その堅固さゆえに上部通路に置かれた見張りの数は少ないようだ。小走りに通路を横切り、陰から陰に入る。休みたくなる気持ちを押しのけて建物の多い区画を抜ける。階段に足を掛けたとき、ルカは聴きたくないものを聴いた。子供の声だ。


石畳を駆けていく忙しない足音、そして明日の予定を話し合う幼い声が続いた。

彼らはとても元気で、ほとんど絶叫だった。笑い声が連鎖し「また明日!」と二手に分かれていったが、ルカは大きく目を見開いて涙をこらえることしかできなかった。


吸い込まれそうなほど美しい青空を見上げたとき、新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込むとき、蹄を鳴らして駆け抜ける馬をみたとき、一面の苔の輝きに目を細め、瀑布の飛沫をあびるとき、ルカは叫びだしてしまいたかった。

この世にはこんなに美しい瞬間にあふれている。美しいものを美しいと感じたままに胸にしまっていたかった。その無垢さがいま罰せられている。


善くも()しくもルカは考えないようにしていた。すさまじい貧困と殺戮のなかに放置されても、希望と絶望は互いに中身の見えない箱に選別していた。だからここまで来てもなお、課せられた使命から目を背けていられた。


「…………離れなきゃ」


と、呟くも顔をあげて気づいてしまう。壁の中はやさしい空気に満ちていた。

木々の香り、あたたかなともし火、手作りの家具、看板の丸い書き文字、食事の匂い。どこも生活の匂いで溢れている。美しかった。


にじむ視界に在りし日の姿が映し出された。橙に染まる庭をはるかに見る、窓辺で微笑む母と、膝に抱き着く小さな子供。


(———あれは、私だ)


ここ数か月感じることのなかった営みの温度に胸が締めつけられていた。


「だれか、いるの」


すぐそばで響いた子供の声に、ルカは青白い顔をしたまま反対方向に駆けだした。絶対に振り返らなかった。足音を隠すこともできず、この旅路で初めて慎重さを欠いている。


生ぬるくはためく旗が、不快な音を鳴らしている。まるで笑われているようで、ルカの心を射った。問いかけは今は聞きたくない、そう強く念じる。


(魔王はもっと上……、上だ)


急いて、つんのめりながら階段を駆け上る。玉座の間でみたあの幻は、もうすぐ再現されようとしている。湿った風が体にぶつかる度に答えが出ているようだった。ルカは長い階段を一つ、また一つと、手を使いながら登った。


城の最上階には風が吹き荒れていた。山の冷えを含む風を押しつけるように、暗雲が蓋をしている。屋上からは城下も空も、ルカが踏破した山の稜線さえも見通せる。見張りの姿はない、たった一人佇む男以外には。

黒い鎧に外套、銀色の髪が流れ、耳の上からねじれた角が生えている。この突風でも泰然と彼方をみている。あの幻と同じ光景だった。ならば、男は振り返って何か言うはずだ。


だが、ルカは渦中に自ら飛び込むことを選んだ。剣を抜き、脇目もふらず駆けた。魔王の外套が翻った刹那を見計らい、鎧の継ぎ目に剣先をねじ込む。


「……ッ、何故抜かない!」


剣を払い、怒りのまま外套を掴む。逆手に持ちかえた剣の柄頭で背面を叩いてから飛びすさった。金属がぶつかる鈍い音に男はようやく振り返る。侮蔑が浮かんでいるかと思いきや、男は驚愕していた。まるで深淵の領域から女が突然現れ、ただ混乱しているという風情だ。

雨のしたたりが乗る鎧に、しかめっ面のルカが閃く。


「お前は私を待っていたんだろう! 私はお前の首を獲りにきたのだ!」


剣を構えなおすと、男は自分にとって初耳の言葉たちを前から知っていたかのように受け流した。






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