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きみが死なない、その朝まで  作者: 夜行(やこう)
第三章

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3-4『循環』

坂道をのぼり、鉤爪をかけながら崖をよじ登る。登り切ったところで王国の方角を眺めた。ひろびろとした世界のどこにも道らしいものはなく、ルカは自分のすべてだと思っていた居場所から引き離されたように感じた。姉であり、母であり、父になろうとした自分は、今は勇者として在るのだ。


(……魔王を殺すために)


―――魔王の首級を獲れ


そう言われた時、ルカの瞼の裏に黒い鎧に身を包んだ男の姿が浮かんだ。体は煌びやかな広間にあったが、心だけが風吹きすさぶ夜の中に飛んだ。

身を焙るような熱い風にルカの細い体は吹き飛ばされそうになる。だが夜深き城壁に佇んでいた男は、威ある顔のまま決して弄ばれることはなかった。


この男が魔王だという直感が走った。いかにもその体から強靭な意志が感じられ、留まっていれば命がないと、そういう印象を瞬時に抱いた。

男はゆっくり振り返る。ルカは片足を引いた。だが動いたのはそれだけで、緊張した体は石畳の上に縫いつけられている。長い銀髪が真横に流れ、猛々しい鎧を覆う外套もはためいている。


男の口元が薄く開いた。

「————」

風が耳を塞ぐ。

何か聴く前にルカの目は迂路もめぐらずに玉座に戻った。


このときルカは余韻がもたらした不思議な後味に戸惑っていた。何故男の姿をみたのかもわからず、だが記憶の中につながりがあるような、言い知れぬ気持ちになっていた。


「魔王……」


呟けば呟くだけ、心のどこかがわだかまる。自分が自分でなくなるような気がしていた。



なるべく一歩を小さく、躊躇うような道は避けて遠回りをしていると、森が途切れて急に展望が開けた。草木はなく、あるのは崩落間際の崖と、側面にへばりついてのぼる道だ。自分がこれほど高い場所にいるとは思わず、ルカは崖の下を覗き込んだ。一歩踏み外せば雲海の中だ。


朽ちかけた細道を摺り足ですべるように進む。渡り切ると、今度は一面の苔が瑞々しい光沢で出迎える。思わず足を止めてしまうほどに美しかった。

森林、溪谷、滝、湖沼、湿地、火山原。魔族領はどこも美しいところばかりだった。ルカは極めて正しく、それでいて不適任な感想をもった。しゃがみこんで、包草の細かな脈までも眺めたかったが、ほのかに触れることも躊躇われた。自分が居ては、たちまち粉になって、すべてが台無しになってしまう気がした。しばらく前に佇んで、あとはもう振り返らなかった。


一つ山を越え、また次を越える。

魔王城を捉えたのはそれから十日後のことだ。


人間の天敵———魔族の根城は、三方を峻険な山に囲まれた要害の地に築かれている。眼下に視線を滑らせれば、黒い森の際に堅牢な幕壁が横たわっている。壁は二重で、内側には市街地らしき複数の屋根が並び、中央に無骨な石造りの城が聳えている。そこに魔王がいる。尖塔の頂上で黒い旗が揺らめいて、物を言わずに息を詰めるルカを見詰めている。


「……魔王を……」


その先を言うことができなかった。言うべかざることを言おうとして留まった。


――殺さなくてはならない。

自分の声が問いかけてくる。


(しなくてはならない)


城を一望する岩の上で、ルカは真上を向いた。大きく息を吸い、吐く。

湿った空気が全身を包んでいる。じきに雨が降る、そう思った矢先水滴が額の上で弾けた。灰色の空はみるみる暗くなり、目を閉じて待つと大きな雫が瞼の上に落ちた。涙のように滑り落ちたそれは王国でも、ここでも、何も変わらなかった。



-



下山したその足で森を抜け、正門そばの岩陰に身を寄せる。

両脇に丸い側防塔をもつ正門は門番が複数人立っており、ルカの二倍はあろうかという大柄な者たちが集っている。たまに言葉を交わす隙はあっても、常に正面に注意が向いている。彼らの腕はルカの太腿よりも太く、正面から当たることは明らかに無謀だった。

ルカは正門から視線を外して、壁の端まで目で追った。左右に伸びる幕壁は、断崖に沿って大きく弧を描き、先までは見通せない。上部は廊下になっているようで、灯の反射が辺りを橙色に染めていた。巡回の兵が松明を掲げて移動しているのだ。


正門から離れ、幕壁に沿って西側へ回る。

西側は足元が緩く、踏み込む場所を選ばないと沈んでしまうような沼地だった。沼の空気は重く、腐った草と泥が混ざった息苦しい匂いだった。やがて満ちてきた紫色の臭気を身を低くして避けながら、荷の中から鉤爪を取り出し、片方を右手に、もう片方を左手に巻きつける。

正門周辺の壁は切り出した石を丁寧に積んであったが、沼の辺りは継ぎ目が荒く、手をかけられる出っ張りが数えるだけで十以上あったのだ。


縄の端を腰に結んで、上端を見上げた。高いが、登れない高さではない。






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