第八話『フェーズが移行いたします。』
次にあの男が来たのは、数日後だった。
昼の混雑が終わって、ルカがテーブルを拭いていたとき、扉が開いた。
「邪魔するぞ」
レインだった。
ミナが物凄い勢いで厨房から飛び出してきた。いつものように。
ルカはテーブルを拭きながら、タイミングを計っていた。
今日、聞くつもりだった。
でも、いざとなると、どう切り出せばいいか分からなかった。
レインとミナが話している。仕入れの話、客の話、来週のメニューの話。
ルカは拭き終わったテーブルをもう一度拭いた。
意味はなかった。でも手を動かしていないと落ち着かなかった。
「ルカ」
レインが呼んだ。
「……なに」
「そのテーブル、もうきれいだと思うぞ」
ルカは手を止めた。
ミナが笑いをこらえている気配がした。
「……もっときれいにしてた」
「そうか」
レインが少し間を置いた。
「何か言いたいことがあるんじゃないか」
ルカは顔を上げた。
レインはこちらを見ていた。責めてるわけじゃない。ただ、待っている顔だった。
ルカは布巾を置いた。
「……あの、広場に」
「ああ」
「まだ、いる子がいて…」
レインは何も言わなかった。続きを待っていた。
ルカは少し俯いた。うまく言葉が出てこなかった。
「名前も知らない。話したこともない。でも、毎日顔を見てた」
「……何人くらいだ」
「……五人、か六人。多い日はもっといた」
また黙った。
テーブルの木目を見つめながら、ルカは続けた。
「みんな、似たような場所にいて、同じようにお腹を減らして、私も、ずっとそうだった」
「……ああ」
「なのに、私だけここにいる」
声が少し小さくなった。
「ご飯がある。寝る場所もある。守ってくれる人もいる。それは……嬉しい。本当に、嬉しい」
ルカは一度言葉を切った。
「でも、嬉しいのに、なんか、なんか…」
うまく伝えられない。変なことを言ったかもしれない。
自分でも変だとは分かっていた。ここに来たかったのは本当だ。
助けてもらえて良かったとも思っている。
なのに、なぜこんな気持ちなのか、自分でもよく分からなかった。
レインはしばらく何も言わなかった。
ミナも黙っていた。
「そうか」
レインがゆっくり言った。
「それを俺に言いに来たのか」
「……別に、どうにかしてくれとか、そういうわけじゃ」
「でも言いに来た」
「……」
また沈黙が続いた。
ルカはまた失敗したかもしれないと思った。
こんなこと言っても、どうにもならない。迷惑だっただけかもしれない。
でもレインは少し考えるような顔をして、それから静かに言った。
「お前は変じゃない」
「……え」
「その気持ちは、変じゃない」
ルカはレインを見た。
「きっと自分だけ良くなることを後ろめたいと思ってるんだ。
そこまで他人を気遣える人間は、そんなに多くない。
お前がそう思えるのは、それだけそいつらのことをちゃんと見ていたからだ」
言ってから、少し喋りすぎたと思った。
ルカは何も言えなかった。
そんなふうに言われると思っていなかった。
「俺には、そういう感覚がなかった」
レインが続けた。独り言みたいな声だった。
「自分が大変な状況でも、そうじゃない状況でも、
誰かのために『やらなければ』と思ったことが、あまりなかった。
いつも、動機は軽かった。面白そうだから。得だから。それだけだった」
「……」
「お前の話を聞いて、少し分かった気がした」
ルカはレインを見た。
あの男が、こんな顔をするとは思わなかった。
困ったような、でも何かを決めようとしているような顔だった。
「分かった」
レインが言った。
「少し考える」
「……え」
「すぐにはできない。でも、考える」
ルカはレインを見た。
嘘をついているようには見えなかった。
言い訳でもなかった。
ただ、「考える」と言った。それだけだった。
「……わかった」
ルカは小さく頷いた。
それだけで、胸の中の何かが少し軽くなった気がした。
レインが帰り際、厨房に向かって言った。
「ミナ、今日もありがとうな」
ミナが厨房から顔を出した。
一瞬、固まった。
「……っ、はい! また来てください!!」
声が少し上ずっていた。
ルカはその様子をぼんやりと見ていた。
扉が閉まった。
レインが帰った後。
ミナがルカの隣に来て、肩を軽く叩いた。
「がんばったね」
「……別に」
「すごいと思う。私、ルカちゃんのこと」
ルカは何も言わなかった。
でも、少しだけ耳が赤くなった。
誰にも見えないように、横を向きながら。
ミナはいつも通りだった。明るくて、優しくて、少しうるさくて。
ルカには、その「いつも通り」がどれだけ作られているか、知る由もなかった。
その夜。
ルカが寝息を立て始めた頃、ミナは一人で厨房に残っていた。
洗い物はとっくに終わっていた。
椅子に座って、膝を抱えて、天井を見上げていた。
「アイさん」
小声で呼んだ。
『はい、ミナさん』
「今日、レイン様が来たんです」
『存じています』
「『今日もありがとうな』って言ってくれたんです!」
『はい』
「……わかる? 『今日も』だよ?? ただのありがとうじゃなくて、
『今日も』って言ったんだよ???
それって、私のことちゃんと見てくれてるってことだよね????」
『そうだと思います』
「そうだよね、そうだよね」
ミナは膝を抱えたまま、にやにやしていた。
ミナの勢いは止まらなかった。
「ねえアイさん、レイン様って今何してると思う?」
『部屋で考え事をしていると思われます』
「何を考えてるんだろ。ルカの話? それとも……私のこと、考えてたりしてないかなぁ」
『可能性はあります』
「本当に!?」
声が少し大きくなったが、ミナは気にしない。
「……ねえ、アイさん。私、レイン様のお役に立ててるかな?!」
『十分に貢献しています』
「でも、まだ足りない気がするんだ。食堂だけじゃなくて、もっと。
レイン様が何かをしようとしてるなら、
私も一緒にいたい。隣にいたい。ただの食堂の娘じゃなくて、本当の意味で……」
止まらない。
「……レイン様に、必要だって思われたい!!!」
『ミナさんは既に必要とされています』
「そう言ってくれるのはアイさんだけです!!」
『……』
「早く。早くレイン様のお役に立ちたい。もっと近くにいたい。
レイン様が動くなら、私も一緒に動きたい。絶対に、置いていかれたくない!!」
『…ミナさんのその気持ち、きっとレイン様に届きます』
「……うん」
ミナはゆっくり立ち上がった。
「いつもありがとう、アイさん。もう、休むね。」
『おやすみなさい、ミナさん』
厨房の灯りが消えた。
屋敷への帰り道。
俺は一人で歩いていた。
ルカの声が、頭の中で繰り返していた。
「私だけここにいて、あの子たちはまだあそこにいる。それが……」
そういう感覚か、と思った。
俺には、そういう感覚がなかった。
前世でも。転生してからも。
誰かのために「やらなければ」と思ったことが、ほとんどなかった。
動機はいつも軽かった。ハーレムが欲しい。楽な老後が欲しい。面白そうだからやってみる。
それで十分だと思っていた。
でも今、何かが違う感じがした。
ルカが言えなかったことを、なんとか絞り出して言った。
あの子が言えたなら、俺も——
やらなければいけない気がした。
面白そうだから、じゃなくて。
初めてだった。
「なあ」
『はい』
「孤児の問題、どう思う」
『領内には現在、身寄りのない子供が把握できているだけで十二名います。広場に出ているのはそのうちの一部です』
「十二人」
『はい。冬季に数が増える傾向があります』
俺はしばらく黙った。
「解決するとしたら、何が必要だ」
『受け皿です。生活の場所、食事、教育。この三点が最低限必要です』
「優先順位は」
『まず資金。次に土地。並行して運営できる人材の確保。この順番が最も現実的です』
「分かった。少し考える」
『はい。——なお、候補地を三箇所選定済みです』
俺は止まった。
「……聞いてないぞ」
『レイン様が決断するタイミングを想定していました』
「いつ選定した」
『ルカさんと最初に接触した日です』
俺はしばらく黙った。
ルカに声をかけたあの日、AIにはもう見えていた。
俺がここまで来ることが。
「……お前、俺の考えが分かるのか」
『分かるのではありません。予測しているだけです』
「考えを読まれてるみたいで気持ち悪いな」
『——失礼しました』
AIは黙った。
俺も黙った。
屋敷の門が見えてきた。
セラが門の前に立っていた。いつものように。
「お帰りなさいませ、レイン様」
「ただいま」
セラの顔を見て、俺は少し考えた。
セラにも、アイは話しかけているのだろうか。
聞こうとして、やめた。
答えが怖かった。
夜。
屋敷が静まり返った頃、セラはレインの部屋の前に立っていた。
廊下に灯りはない。月明かりだけだった。
これは侍女の仕事ではない。セラにも分かっていた。
でも、やめられなかった。
レイン様が変わったと疑ってからずっとそうだった。
部屋の中で独り言を言っている。
毎晩。声を潜めているが、確かに何かを呟いている。
最初は特に気にしなかった。
でも違った。
独り言にしては、会話の形をしていた。
問いかけて。間があって。また問いかけて。
まるで、誰かと話しているように。
でも扉を開けると、いつも一人だった。
内容は断片しか聞き取れなかった。でも今夜は、はっきりと聞こえた。
レイン様の声だけが。
——十二人。
——土地。
——人。
誰かの返答は聞こえない。
でも、レイン様は確かに何かに応えていた。
セラは扉に手を当てたまま、しばらく動かなかった。
見えない誰かがいる。レイン様の傍に。
声も姿もないのに、確かにそこにいる。
協力者、だろうか。
レイン様が動こうとしている。
その見えない誰かと、一緒に。
セラの胸の中で、何かが静かに燃え始めた。
深夜。
寝息が聞こえ始めた頃、セラは再び扉の前に立った。
馬鹿げている、と自分でも思った。
でも、体が動いた。
小声で、扉の前で呟いた。
「——レイン様の、協力者様」
静寂。
やはり、何も起きなかった。
そうだ。姿も声も気配も感じないのだから。
ただの壁に向かって話しかけただけだ。
「…」
セラが振り返り、歩き出す瞬間。
『はい』
セラは息を呑んだ。
本当に、いた。




