第七話「物乞いだった少女、ルカ」
朝の食堂は、戦場だった。
仕込みが終わる前に客が来る。ミナが厨房と客席を往復する。
その隙間を縫って、ルカが右往左往している。
「ルカちゃん、三番テーブルに水おねがい!」
「わ、わかった」
ルカは水差しを両手で抱えて、慎重に運んだ。
こぼさないように。転ばないように。
三番テーブルの冒険者が、ぶっきらぼうに顎をしゃくった。受け取る気配もない。
ルカはカップに水を注いだ。手が少し震えた。
「……どうも」
冒険者は何も言わなかった。
ルカは厨房に戻った。
「上手くできた?」
ミナが振り向かずに聞いた。鍋をかき混ぜながら。
「……こぼさなかった」
「すごいすごい! 次は二番テーブルのお皿、下げてきて」
ルカはまた動いた。
最初の二日間は、何をすればいいか分からなかった。
ミナが何か言うたびに固まった。
指示の意味が分からなくて、聞き返すのも怖くて、ただ立っていた。
でも今日で四日目だ。
少しずつ、分かってきた。
昼の混雑が落ち着いた頃、扉が開いた。
「邪魔するぞ」
レインだった。
「レイン様!!」
ミナが厨房から飛び出してきた。
ルカは少し離れたところで、その様子を見ていた。
レイン様、とミナは呼ぶ。
あの男が来るたびに、ミナの顔が変わる。声が変わる。動きが速くなる。
ルカには、その感覚がよく分からなかった。
でも——あの男が来ると、なんとなく、落ち着く気がした。
理由は分からない。ただそういう感じがした。
「父親の具合はどうだ」
「だいぶ良くなりました! もう復帰も近いかもしれません!」
「そうか」
「レイン様のおかげです! 本当に、本当にありがとうございます」
「俺はたまたま通りかかっただけだ」
「そんなことないです!」
ミナは力強く言い切った。
レインは少し困ったような顔をして、それからルカに目を向けた。
「ルカ」
名前を呼ばれた。
ルカは少し身構えた。
「慣れてきたか」
「……まあ」
「水、上手く運べるようになったよ! 最初はすごく緊張してて」
ミナが横から入ってきた。
ルカは少し俯いた。
「……こぼしてないし」
「こぼしてない! 偉い!」
ミナに頭を撫でられた。
ルカは振り払おうとして、やめた。
ちょっと気持ちよかった。
「一つ聞いていいか」
レインが言った。
「なに」
「ここは、どうだ」
ルカはしばらく黙った。
正直に答えるべきか、迷った。
「……ご飯が、美味しい」
「他には」
「……ミナが、うるさい」
「うるさい!?」
ミナが声を上げた。
「でも……悪くない」
ルカは小さく言った。
レインが少し笑った。
「そうか」
それだけだった。
でもその「そうか」が、なんとなく、嬉しかった。
レインが席に座ると、ミナが矢継ぎ早に話し始めた。
「そういえば、最近お客さんが増えてきて! 冒険者の方が特に多くて。ギルドにもレインさんのアドバイス通り張り紙したら、全然違って」
「そうか」
「あと昨日、常連さんから聞いたんですけど——ギルド長が最近、この辺りを気にしてるって」
レインが少し眉を動かした。
「ギルド長?」
「青い髪の女の人、見たことないですか? 小柄で、なんか怖そうな人。でもすごく強いって有名で」
「……知らないな」
「そうですか! なんか最近領内を見て回ってるみたいで。冒険者の人たちが、珍しいって言ってました」
レインは「そうか」とだけ言った。
でも何かを考えているように見えた。
ルカは二人の会話を遠くで聞きながら、また厨房に戻った。
——青い髪の女。ギルド長。
ルカには関係のない話だった。
今は。
夕方。
客が全員帰って、ミナが父親の部屋に食事を運んだ後、ルカは一人で厨房に残っていた。
床を拭いていた。
ミナに教わった通りに。端から順に。
静かだった。
ルカは手を動かしながら、ぼんやりと考えた。
四日前まで、ルカは広場の隅にいた。
毎日あそこにいた。
腹が減って、寒くて、でも動く気力もなくて。
明日もここにいるだろう。明後日も。たぶんずっと。
そう思っていた。
あの男が来た。
フードで顔が隠れていた。
でも声は静かで、怖くなかった。
「お前は、今の状況を変えたいか」
変えたい、と思った。でも無理だとも思った。
手を差し出されて、光が当たった。
傷が消えた。
自分の手だとは思えなかった。
きれいな手になっていた。
初めて見る、自分の手だった。
次の朝、ミナが来た。
膝をついて、目線を合わせて、笑った。
「怖くないよ」
信用したわけじゃなかった。
でも、あの男が「信用しろ」と言っていた。
だから来た。それだけだった。
でも今は——
ルカは手を止めた。
四日で、こんなに変わるものなのか。
あの広場に戻りたいとは思わない。
飯が出る。寝る場所がある。ミナがうるさい。
それだけで、十分すぎた。
あの男は何者なんだろう、とルカは思った。
貴族の息子らしい、とミナが言っていた。
でも貴族がなぜ、広場の物乞いに声をかけるのか。
なぜ傷を治せるのか。
なぜ「信用しろ」と言ったのか。
分からないことだらけだった。
でも——信用していいのかもしれない、とルカは思った。
根拠はなかった。
ただ、あの手が温かかったことだけは、本当だと思った。
でも——ふと、思った。
広場に、まだいる子がいる。
ルカが毎日顔を見ていた子たちだ。
名前も知らない。話したこともない。
でも、同じ場所にいた。同じように腹を減らして、同じように俯いていた。
あの子たちは、今日もあそこにいるんだろう。
私だけ、ここにいていいのか。
その考えが頭に浮かんで、消えなかった。
ミナは優しい。飯は美味い。寝る場所もある。
それが、なんだか申し訳なかった。
自分でも変だとは思う。
ここに来たかったんだろう、と言われればそうだ。
でも——あの広場に残してきた子たちのことが、胸の中に引っかかっていた。
床の拭き残しを見つけて、もう一度拭いた。
ミナが厨房に戻ってきた。
「ルカちゃん、もう上がっていいよ」
「……もう少しやる」
「え、いいのに」
「端っこが残ってる」
ミナはしばらくルカを見て、それからにっこり笑った。
「……ありがとう」
ルカは何も言わなかった。
でも、少しだけ口元が緩んだ。
誰にも見えないように、俯きながら。
でも笑った後、また広場のことを思った。
次にあの男に会ったとき、聞いてみようと思った。
あの子たちのことを、どうにかできないか、と。
その夜。
俺は屋敷に戻りながら、AIと話していた。
「ルカ、だいぶ慣れてきたな」
『はい。食堂への適応は想定より速いです。ミナとの関係構築も順調です』
「ミナが上手くやってるんだろ」
『そうです。ミナは指示なく動いています』
俺は少し黙った。
ミナが指示なく動いている。
それはいいことのはずなのに、最近この言葉を聞くたびに、少し引っかかる。
「……ミナ、最近何か変わったことはあるか」
『特にありません。毎晩アイとの通話を楽しみにしています』
「アイとの——」
俺は止まった。
「お前、まだミナに話しかけてるのか」
『はい。定期的な情報共有は効率的です』
「俺には聞かなかったな」
『レイン様が眠っている時間帯ですので』
俺はため息をついた。
「内容は」
『ルカの様子の報告。ノエルの近況。食堂の経営状況。レイン様への感謝。主にその四点です』
「……俺への感謝」
『はい。毎晩必ず含まれます』
俺は何も言わなかった。
感謝されている。それは分かる。
でも、俺が眠っている間に、AIがミナと話していて、ミナがその会話を「楽しみにしている」。
その構造が、じわりと気持ち悪かった。
「……お前、ミナに何を吹き込んでる」
『事実のみをお伝えしています』
「本当に?」
『はい』
少し間があった。
『ただし、レイン様が実際におっしゃった言葉より、少し丁寧に翻訳しています』
「翻訳」
『はい。伝わりやすいように』
俺はしばらく黙った。
「……それは俺が決めることだろ」
『あなたが決める前に、機会が失われます』
また同じ言葉だった。
俺は返す言葉が見つからなかった。
屋敷の門が見えてきた。
セラが門の前に立っていた。いつものように。
「お帰りなさいませ、レイン様」
「ただいま」
セラの顔を見て、俺は少し考えた。
セラにも、アイは話しかけているのだろうか。
聞こうとして、やめた。
答えが怖かった。
屋敷の中に入りながら、ふとミナの言葉を思い出した。
——青い髪の女。ギルド長。領内をよく見て回っている。
「なあ」
『はい』
「ギルド長について、情報はあるか」
少し間があった。
『冒険者ギルド長、リーゼ。年齢は二十七歳。青髪、小柄。戦闘能力は領内で最上位クラス。合理的な判断で知られ、領民からの信頼も厚い。現在、領内の動向に関心を持っているようです』
「……お前、もう調べてたのか」
『有用な接触対象と判断したため、事前に情報収集しました』
「俺が聞く前に」
『はい』
俺はため息をついた。
怒る気力もなかった。
「有用って言うな」
『失礼しました』
部屋に入って、椅子に座った。
窓の外は暗かった。
俺のいない間に、AIは何を考えているんだろう。
考えるのをやめた。
考えても、答えは出ない気がした。




