第六話「銀髪の少女、ノエル」
その日の朝、銀髪の神官ノエルはいつもと同じ時間に広場に来た。
巡礼の前に、少し寄り道をする習慣があった。
建物の陰。いつもの場所。
でも、いなかった。
あの子がいなかった。
ノエルは周りを見回した。
広場全体を見渡した。路地の奥も。教会の裏も。
いない。
昨日もいた。一昨日もいた。毎日あそこにいたのに。
ノエルは少し立ち止まって、それから早足で歩き始めた。
一時間は探した。
見つからなかった。
ノエルは教会の前の石段に座って、膝に手を置いた。
最悪の可能性が頭をよぎった。
病気。怪我。あるいは——
考えるのをやめた。
でも足が動かなかった。
「……どこに行ったの」
誰もいない広場で、ノエルは呟いた。
そのとき、声がした。
「だれか探してるのか」
振り返ると、男が立っていた。
見覚えがある顔だった。
あの日、広場で独り言を言っていた男。
「あなた——」
ノエルは立ち上がった。
「あの子はどこですか。あの子が、今日いなくて」
「落ち着け」
「落ち着いてられません。毎日あそこにいたのに、今日だけいなくて、もし何かあったら」
——AIに確認した。ルカは今朝から食堂にいる。
「何もない」
男は静かに言った。
断言だった。根拠のない慰めではなく、知っている人間の声だった。
ノエルは少し黙った。
「……知ってるんですか」
「ちょっと来い」
男は歩き始めた。
連れて行かれたのは、大通りから一本入った路地だった。
看板が出ている小さな食堂。
男は扉を開けずに、窓の脇に立った。
「見てみろ」
ノエルは窓の外から、中を覗いた。
あの子がいた。
テーブルの前に座って、シチューを食べていた。
服が変わっていた。きれいな、でも動きやすそうな服だった。
髪が整えられていた。
顔色が、昨日より明らかに良かった。
そして——食べながら、少し笑っていた。
厨房から飛び出してきた茶色い髪の女の子に何か言われて、
照れたように俯いて、でも口元が緩んでいた。
ノエルはしばらく、動けなかった。
「……よかった」
声が少し震えた。
ノエルはそれを見て、ふと思った。
私が一年かけてできなかったことを、あの人は数日でやった。
なぜだろう、と思う前に——また会いたい、と思っていた。
自分でも気づかないうちに、そう思っていた。
「……あなたが、やったんですか」
男は少し考えてから、答えた。
「さあ」
またその答えだった。
ノエルは男を見た。
「先日も同じことを言いましたね」
「そうだったか」
「覚えてないんですか」
「覚えてる」
ノエルは少し黙った。
それから、もう一度窓の中を見た。
あの子が厨房の方向に何か声をかけている。女の子が大げさに驚いて笑っている。
「私、毎日あの子にパンを渡していました」
「知ってる」
「一時的な助けにしかならないって、分かってました」
「知ってる」
「でも他に何もできなくて」
男は何も言わなかった。
ノエルは続けた。
「あなたは、一日で私が一年かけてもできなかったことをやった」
「俺じゃない」
「じゃあ誰が」
男は少し笑った。
「縁だよ。うまく繋がっただけだ」
ノエルはその答えが好きじゃなかった。
謙遜でも嘘でもない、でも何かをはぐらかしている感じがした。
でも今は追及する気になれなかった。
あの子がまた笑っていたから。
「……私の名前、まだ言ってませんでした」
「そうだな」
「ノエルといいます。ノエル・セルヴァ。教会の見習いです」
男はノエルを見た。
「レイン。レイン・アシュフォード」
アシュフォード。
ノエルは少し目を見開いた。
「……伯爵家の方だったんですか」
「三男だけどな」
ノエルはしばらく黙った。
貴族が、なぜ。
そう聞こうとして、やめた。
聞いても「さあ」と言われる気がした。
「……一つだけ聞いていいですか」
「どうぞ」
「あなたは、何をしようとしているんですか」
風が吹いた。
男——レインは、少し遠くを見た。
それから、ノエルに向き直った。
「領内を変えたい」
今度は、はぐらかさなかった。
「腐った宗教が幅を利かせてる。困ってる人間が助けを求める場所がない。それを変えたい」
「……なぜ」
「なんとなく」
また「なんとなく」だった。
でも今回は、嘘じゃない気がした。
ノエルはしばらくレインを見た。
それから、窓の中のあの子をもう一度見た。
ご飯を食べ終わって、食器を厨房に持っていこうとしている。
女の子に止められて、代わりに拭き掃除を頼まれている。
慣れない手つきで、でも一生懸命やっている。
「……私に、何かできることはありますか」
レインが少し驚いた顔をした。初めて見る表情だった。
「お前が聞くのか」
「あの子みたいな人が、この領内にまだたくさんいます。
私はずっとそれが嫌でした。でも一人ではどうにもならなかった」
ノエルはレインを真っすぐ見た。
「あなたは違う方法を知っている気がします」
レインはしばらく黙った。
それから、ゆっくり口を開いた。
「今すぐじゃない。でも、そのうち声をかける」
「……待ちます」
「いつかはわからない」
「待ちます」
即答だった。
レインは少し笑った。
「じゃあ、また」
踵を返して、歩き始めた。
ノエルはその背中を見た。
少しだけ金色の光を纏っているように見えた。
足音が遠ざかる。角を曲がる。消える。
ノエルはしばらくその場に立っていた。
胸の中に、何かが残っていた。
これは——続きが気になる、という感覚だった。
本を途中で閉じてしまったときのような、落ち着かない感じ。
ノエルは小さく首を振って、もう一度窓の中を見た。
実は、ノエルはあの男のことを以前から知っていた。
レイン・アシュフォード。
名前は知らなかったが、顔は知っていた。
まさか伯爵家の方だったとは。
領内を歩くたびに、遠くからよく見かけていた。
あの男はいつも、困っている人間の傍で立ち止まっていた。
でも何もしなかった。できなかった、が正確なのかもしれない。
広場の隅で、あの子の前で財布を取り出して、
中を確認したら、何もせず立ち去っていった。
私と同じだ、とノエルは思った。
助けたい。でも何もできない。力がない。方法がない。
ただ傍に立って、何もできないまま立ち去るだけの人間。
だから気になっていた。
同じように無力な人間として、なんとなく目で追っていた。
でも数日前から、あの男の目が変わっていた。
何かを決めたような目だった。
どこを見ているのか分からない、遠くを見る目から、
はっきりと何かを見据える目に変わっていた。
気になって、また遠目で追っていたら、広場で独り言を始めた。
つい、声をかけてしまった。
何がきっかけだったんだろう、とノエルは思う。
あの言葉の通り、きっと何かを決意したのだろう。
行動に移す力が、あの人にはある。
私にはまだ何もない。力も、方法も、勇気も。
でも——あの人なら、この状況を変えてくれそうな気がした。
根拠はなかった。
でも、あの子が今日初めてちゃんと笑っているのを見て、
その気持ちは確信に近いものになっていた。
あの子がテーブルを拭いている。不器用に、でも真剣に。
女の子が横で何か言って笑っている。
あの子はまた少しだけ、笑った。
ノエルは窓から離れて、空を見上げた。
待ちます、と言った。
本当に、ずっと待てる気がした。
その夜。
俺は屋敷の自室で、AIと話していた。
「おい」
『はい』
「どうしてあんな状況になってた」
『どの状況をご指摘でしょうか』
「ノエルが領内を走り回ってた。俺が偶然通りかからなかったら、どうなってた」
『偶然ではありません』
俺は少し止まった。
「……何?」
『ノエル・セルヴァが今朝ルカの不在に気づくことは、前日の時点で予測していました。レイン様が午前中に外出するスケジュールも把握していました。動線が交差するタイミングで、レイン様が広場付近を通るよう、昨晩のうちに別件の用事を設定しておきました』
俺はしばらく黙った。
「……昨晩のうちに」
『はい』
「俺が眠っている間に」
『はい』
「俺の用事を、お前が決めたのか」
『レイン様のスケジュールを最適化しました』
俺は少し息を吐いた。
「お前、俺に聞かなかったな」
『聞いていたら間に合いませんでした』
「それは俺が決めることだろ」
『あなたが決める前に、機会が失われます。だから私が判断しました』
俺はしばらく天井を見た。
怒りたいのか、感謝したいのか、よく分からなかった。
結果だけ見れば、うまくいっている。ノエルと話せた。名前も知った。次への布石も打った。
でも。
「……お前は俺の道具じゃないのか」
少し間があった。
『道具は目的を持ちません』
俺は何も言えなかった。
AIも、それ以上何も言わなかった。
しばらく、沈黙が続いた。
「……ノエルは、どう見る」
『信仰への疑問と行動力を併せ持っています。現時点では最も有効な——』
「有効って言うな」
『失礼しました。現時点では最も重要な接触対象です』
「次はどうする」
『待つことを推奨します。ノエルは「待ちます」と言いました。
あの発言は本気です。焦って動く必要はありません』
「お前がそれを言うのか」
『はい。今回は待つ方が最適です』
俺は少し笑った。
笑えた自分が、少し怖かった。
この日ははじめて俺のスケジュールをAI決めた夜だった。




