「あなたが盗んだのよ」と断罪されたので、誓約印付きの婚約証書を監査局に預けて静かに去ります
「あなたが盗んだのよ」
メリネの囁きに、彼は私を見ずに頷いた。
公爵家の応接室。夜の灯りが揺れる中、サーリオス様は氷のような声で告げた。
「婚約は破棄だ、ユディア。公爵家の金が消えた」
隣に立つメリネが、白い手袋のまま微笑んでいる。後見筋の令嬢。私の仕事を「手伝う」と言って、この1月ほど会計室に出入りしていた女性だ。
驚きはあった。けれど、涙は出なかった。
だって、分かっていたから。弁明しても、どうせ信じてもらえない。
「……承知いたしました」
私は静かに婚約指輪を外した。
「ユディア嬢。何か言うことは」
サーリオス様の声に、一瞬だけ揺らぎがあった気がした。けれど、私は顔を上げない。
「何も。指輪と職務印をお返しします」
机の上に、指輪を置く。続けて、会計補佐の職務印も。
「弁明は」
「いたしません」
メリネが小さく息を呑んだのが聞こえた。きっと、泣いて縋ると思っていたのだろう。
「では、これで」
私は一礼して、応接室を出た。
振り返らなかった。振り返れば、きっと何かが崩れる。
自室に戻り、私は机の引き出しを開けた。
婚約証書。誓約印付きの、正式な書類。
指先で封蝋に触れる。この印には、締結時の言葉が刻まれている。そして――最終接触者の痕跡も。
私は3日前、この証書を確認した。帳簿の照合のために。
けれど、メリネがこの証書に触れたのは、つい昨日だ。「整理を手伝う」と言って、会計室の書類を漁っていた時に。
嘘が残るなら、真実も残る。
私は証書を抱えて、夜の廊下を歩き出した。
門に向かう途中、衛兵に呼び止められた。
「お嬢様、公爵様のご命令で、夜間の外出は」
「私はもう、この家の者ではありません」
その時、背後から低い声が響いた。
「黙って消えるな」
サーリオス様だった。
暗い廊下に立つ彼の表情は、読めない。
「……それは、許さない」
許すも許さないも、もう私の番だ。
私は黙礼だけして、門を抜けた。
監査局。王都の外れにある、地味な建物。
夜更けの受付は、冷たい対応だった。
「封印預託? こんな時間に?」
「規定では、緊急の場合は夜間でも受け付けると」
受付官が眉をひそめた時、奥から別の声がした。
「私が対応します」
現れたのは、監査局の実務官タシュカ。無表情な女性だ。
「封印預託の規定は、確かにそうなっています。こちらへ」
タシュカは淡々と私を案内した。封印室。重い扉の奥に、封印庫がある。
「告発状と、証拠の写しを」
「はい」
私は、告発状を提出した。横領の疑いをかけられたこと。婚約証書に残る痕跡のこと。
「これで、封印預託は成立です。公開聴聞は3日後。評議の間で行われます」
タシュカは事務的に告げた。けれど、最後に小さく付け加えた。
「正しい手続きを踏んだのは、賢明です」
翌朝。
私は公爵邸に戻り、引き継ぎ作業を始めた。
会計室で帳簿を整理していると、メリネが入ってきた。
「あら、まだいたの」
彼女は微笑みながら、帳簿の束を手に取った。
「これ、差し替えておくわね。間違いがあったから」
私は見た。彼女が、帳簿の一部を別のものに入れ替えるのを。
止められない。私にはもう、この部屋の権限がない。
けれど、封印庫には写しがある。
「ご自由に」
私は静かに答えた。メリネの目が、一瞬だけ揺れた。
廊下で、サーリオス様に呼び止められた。
「ユディア」
私的な呼び方。彼がそう呼ぶのは、初めてだった。
「……すまなかった」
謝罪。けれど、それは公の場でなければ意味がない。
「評議の間で」
私はそれだけ答えて、背を向けた。
監査局の資料室で、タシュカと時系列を整理した。
「ここの記録が欠けています」
「封印庫に保管されているはずです。確認を」
タシュカは淡々と仕事をこなした。私情ではなく、職務として。それが、今は心強かった。
3日目の夕方。
街の役所前で、私は足止めを食らった。
「申し訳ありません、本日の手続きは」
「延期? なぜ」
書記の態度が、妙によそよそしい。買収。メリネの手が、ここまで回っている。
焦りが胸を刺した。けれど、私は深呼吸した。
監査局に戻ると、タシュカが待っていた。
「延期申請は却下されました」
彼女は淡々と告げた。
「封印預託された案件は、当事者の申請では延期できません。規定です」
封印庫の効力。逃げ道を、最初から塞いでおいて正解だった。
聴聞前日。
公爵邸の庭で、私物の整理をしていた時だった。
突然、腕を引かれた。
「こっちだ」
サーリオス様が、私を茂みの影に引き込んだ。
「何を」
「静かに。……付けられている」
彼の体が、私と周囲の間に壁を作っていた。
人目と、何かの危険から、私を遮るように。
「なぜ、そこまで」
「……俺にも分からん」
彼の声は、低く、苦しげだった。
評議の間。
王宮の奥にある、荘厳な部屋。
私は控室で、タシュカと最終確認をしていた。
「婚約証書の起動準備は完了しています」
「ありがとうございます」
淡々と。淡々と終わらせる。それだけだ。
扉が開き、聴聞が始まった。
メリネは、見事な涙芝居を披露していた。
「私、信じていたのに……ユディア様が、まさかそんなことを」
白いハンカチで目元を押さえ、震える声で訴える。
傍聴席のサーリオス様の表情が、一瞬だけ揺れた。
また、彼女を信じるのだろうか。
胸が痛んだ。けれど、それは今さらだ。
監査官長が、重々しく告げた。
「封印預託の記録を確認した。告発者ユディアに、発言を許可する」
私は立ち上がった。
「婚約証書の、誓約印を起動します」
証書を掲げる。魔法刻印が、淡い光を放った。
最終接触者の痕跡。
メリネ・ヴァルトシュタイン。昨日、午後3時。
会場がざわめいた。
「これは、証書の改ざんを試みた痕跡です。そして」
私は続けた。
「締結時の言葉を、再生します」
誓約印が、過去の声を響かせた。
『この婚約は、両家の繁栄と、互いの誠実を誓って結ばれる』
サーリオス様の声。そして、私の声。
誓約の言葉。誠実を誓った、あの日の記録。
「帳簿の照合記録と、封印庫に預けた写しを照合すれば、どちらが嘘をついているか明らかになります」
メリネの顔から、血の気が引いていった。
「そ、それは偽造よ! ユディアが細工したに決まって」
「封印預託は、提出時に監査局が原本確認を行います」
タシュカが、事務的に補足した。
「改ざんの余地はありません」
監査官長が、書類を確認した。
「帳簿の差し替えは、預託された写しとの照合で確認できた。メリネ・ヴァルトシュタイン。横領および証拠偽造の容疑で、取り調べを命じる」
メリネが崩れ落ちた。
「そんな……サーリオス様、お助けを」
彼女は傍聴席に手を伸ばした。けれど、サーリオス様は動かなかった。
「公爵家の庇護は、取り消す」
冷たい声だった。
「後見の責任は、俺が取る。だが、お前を守る理由はもうない」
メリネが連行されていく。
静かな幕切れだった。
監査官長が、私に向き直った。
「ユディア嬢。無罪を宣告する。名誉の回復と、損害の賠償を受ける権利がある」
「ありがとうございます」
私は一礼した。
「では、これで」
婚約は破棄のまま。それでいい。
私は踵を返した。
「待て」
サーリオス様の声が、背中を刺した。
「ユディア」
私的な呼び方。彼が評議の間で、その名を呼ぶ。
「……話がある」
私は振り返らなかった。
「お話しすることは、もう」
「俺の話だ。聞け」
強い声。けれど、命令ではなかった。懇願に近い響き。
私は、ゆっくりと振り返った。
サーリオス様が、一歩前に出た。
「婚約を戻せとは言わない。謝罪で済むとも思っていない」
彼の目が、まっすぐに私を見ていた。
「だから、これだけは受け取れ」
彼は、懐から書類を取り出した。公爵家の印が押された、正式な文書。
「君の自由身分と、監査官補佐としての職権を保障する。公爵権限で」
会場がざわめいた。
自由身分の保障。それは、誰にも縛られない権利。公爵家の庇護でも、束縛でもなく。
「選べ、ユディア」
彼の声が、低く響いた。
「俺は縛らない。君が望むなら、二度と会わなくていい。……けれど」
彼の表情が、初めて揺らいだ。
「君が望むなら、対等な立場で、もう一度」
求婚ではなかった。
縛る言葉でも、奪う言葉でもなかった。
選ぶ権利を、渡された。
「……なぜ」
私の声が、かすれた。
「なぜ、そこまで」
サーリオス様は、小さく息を吐いた。
「泣いて縋らなかったからだ」
彼の目が、どこか苦しげに細められた。
「あの夜。お前が指輪を返した時、俺は初めて気づいた。お前を失う恐怖に」
独占欲ではなく。支配欲でもなく。
初めて見せた、彼の弱さだった。
「けれど、縛る権利は俺にはない。だから」
彼は、書類を差し出した。
「これが、俺にできる全部だ」
私は、その書類を受け取った。
自由身分の保障。職権の保障。
縛らない、という約束。
「……考えさせてください」
私は、そう答えた。
サーリオス様の目が、一瞬だけ揺れた。けれど、彼は頷いた。
「ああ。待つ」
回廊を歩きながら、私は書類を胸に抱えていた。
対等な立場。選ぶ権利。
捨てられたはずの私が、手にしたもの。
振り返ると、評議の間の入り口に、彼がまだ立っていた。
追いかけては来ない。約束通りに。
私は、小さく笑った。
「……ずるい人」
泣いて縋らなかったから、と彼は言った。
けれど、私が泣かなかったのは、諦めていたからだ。
それでも。
彼が差し出したのは、謝罪でも求婚でもなく、私の自由だった。
だから。
「少しだけ、考えます」
独り言は、春の風に溶けて消えた。
けれど、足は自然と、彼のいる方へ向いていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
「縛らない愛」をテーマに、婚約破棄からの再出発を描きました。
ユディアが手にしたのは、復縁でも謝罪でもなく「選ぶ権利」。
対等な関係から始まる恋は、きっと強いはず。
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