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「あなたが盗んだのよ」と断罪されたので、誓約印付きの婚約証書を監査局に預けて静かに去ります

作者: 夢見叶
掲載日:2026/01/28

「あなたが盗んだのよ」


 メリネの囁きに、彼は私を見ずに頷いた。

 公爵家の応接室。夜の灯りが揺れる中、サーリオス様は氷のような声で告げた。


「婚約は破棄だ、ユディア。公爵家の金が消えた」


 隣に立つメリネが、白い手袋のまま微笑んでいる。後見筋の令嬢。私の仕事を「手伝う」と言って、この1月ほど会計室に出入りしていた女性だ。


 驚きはあった。けれど、涙は出なかった。

 だって、分かっていたから。弁明しても、どうせ信じてもらえない。


「……承知いたしました」


 私は静かに婚約指輪を外した。


「ユディア嬢。何か言うことは」


 サーリオス様の声に、一瞬だけ揺らぎがあった気がした。けれど、私は顔を上げない。


「何も。指輪と職務印をお返しします」


 机の上に、指輪を置く。続けて、会計補佐の職務印も。


「弁明は」

「いたしません」


 メリネが小さく息を呑んだのが聞こえた。きっと、泣いて縋ると思っていたのだろう。


「では、これで」


 私は一礼して、応接室を出た。

 振り返らなかった。振り返れば、きっと何かが崩れる。


 自室に戻り、私は机の引き出しを開けた。

 婚約証書。誓約印付きの、正式な書類。


 指先で封蝋に触れる。この印には、締結時の言葉が刻まれている。そして――最終接触者の痕跡も。


 私は3日前、この証書を確認した。帳簿の照合のために。

 けれど、メリネがこの証書に触れたのは、つい昨日だ。「整理を手伝う」と言って、会計室の書類を漁っていた時に。


 嘘が残るなら、真実も残る。


 私は証書を抱えて、夜の廊下を歩き出した。

 門に向かう途中、衛兵に呼び止められた。


「お嬢様、公爵様のご命令で、夜間の外出は」

「私はもう、この家の者ではありません」


 その時、背後から低い声が響いた。


「黙って消えるな」


 サーリオス様だった。

 暗い廊下に立つ彼の表情は、読めない。


「……それは、許さない」


 許すも許さないも、もう私の番だ。

 私は黙礼だけして、門を抜けた。


 監査局。王都の外れにある、地味な建物。

 夜更けの受付は、冷たい対応だった。


「封印預託? こんな時間に?」

「規定では、緊急の場合は夜間でも受け付けると」


 受付官が眉をひそめた時、奥から別の声がした。


「私が対応します」


 現れたのは、監査局の実務官タシュカ。無表情な女性だ。


「封印預託の規定は、確かにそうなっています。こちらへ」


 タシュカは淡々と私を案内した。封印室。重い扉の奥に、封印庫がある。


「告発状と、証拠の写しを」

「はい」


 私は、告発状を提出した。横領の疑いをかけられたこと。婚約証書に残る痕跡のこと。


「これで、封印預託は成立です。公開聴聞は3日後。評議の間で行われます」


 タシュカは事務的に告げた。けれど、最後に小さく付け加えた。


「正しい手続きを踏んだのは、賢明です」


 翌朝。

 私は公爵邸に戻り、引き継ぎ作業を始めた。


 会計室で帳簿を整理していると、メリネが入ってきた。


「あら、まだいたの」


 彼女は微笑みながら、帳簿の束を手に取った。


「これ、差し替えておくわね。間違いがあったから」


 私は見た。彼女が、帳簿の一部を別のものに入れ替えるのを。

 止められない。私にはもう、この部屋の権限がない。


 けれど、封印庫には写しがある。


「ご自由に」


 私は静かに答えた。メリネの目が、一瞬だけ揺れた。


 廊下で、サーリオス様に呼び止められた。


「ユディア」


 私的な呼び方。彼がそう呼ぶのは、初めてだった。


「……すまなかった」


 謝罪。けれど、それは公の場でなければ意味がない。


「評議の間で」


 私はそれだけ答えて、背を向けた。


 監査局の資料室で、タシュカと時系列を整理した。


「ここの記録が欠けています」

「封印庫に保管されているはずです。確認を」


 タシュカは淡々と仕事をこなした。私情ではなく、職務として。それが、今は心強かった。


 3日目の夕方。

 街の役所前で、私は足止めを食らった。


「申し訳ありません、本日の手続きは」

「延期? なぜ」


 書記の態度が、妙によそよそしい。買収。メリネの手が、ここまで回っている。


 焦りが胸を刺した。けれど、私は深呼吸した。


 監査局に戻ると、タシュカが待っていた。


「延期申請は却下されました」


 彼女は淡々と告げた。


「封印預託された案件は、当事者の申請では延期できません。規定です」


 封印庫の効力。逃げ道を、最初から塞いでおいて正解だった。


 聴聞前日。

 公爵邸の庭で、私物の整理をしていた時だった。


 突然、腕を引かれた。


「こっちだ」


 サーリオス様が、私を茂みの影に引き込んだ。


「何を」

「静かに。……付けられている」


 彼の体が、私と周囲の間に壁を作っていた。

 人目と、何かの危険から、私を遮るように。


「なぜ、そこまで」

「……俺にも分からん」


 彼の声は、低く、苦しげだった。


 評議の間。

 王宮の奥にある、荘厳な部屋。


 私は控室で、タシュカと最終確認をしていた。


「婚約証書の起動準備は完了しています」

「ありがとうございます」


 淡々と。淡々と終わらせる。それだけだ。


 扉が開き、聴聞が始まった。


 メリネは、見事な涙芝居を披露していた。


「私、信じていたのに……ユディア様が、まさかそんなことを」


 白いハンカチで目元を押さえ、震える声で訴える。


 傍聴席のサーリオス様の表情が、一瞬だけ揺れた。

 また、彼女を信じるのだろうか。


 胸が痛んだ。けれど、それは今さらだ。


 監査官長が、重々しく告げた。


「封印預託の記録を確認した。告発者ユディアに、発言を許可する」


 私は立ち上がった。


「婚約証書の、誓約印を起動します」


 証書を掲げる。魔法刻印が、淡い光を放った。


 最終接触者の痕跡。

 メリネ・ヴァルトシュタイン。昨日、午後3時。


 会場がざわめいた。


「これは、証書の改ざんを試みた痕跡です。そして」


 私は続けた。


「締結時の言葉を、再生します」


 誓約印が、過去の声を響かせた。


『この婚約は、両家の繁栄と、互いの誠実を誓って結ばれる』


 サーリオス様の声。そして、私の声。

 誓約の言葉。誠実を誓った、あの日の記録。


「帳簿の照合記録と、封印庫に預けた写しを照合すれば、どちらが嘘をついているか明らかになります」


 メリネの顔から、血の気が引いていった。


「そ、それは偽造よ! ユディアが細工したに決まって」

「封印預託は、提出時に監査局が原本確認を行います」


 タシュカが、事務的に補足した。


「改ざんの余地はありません」


 監査官長が、書類を確認した。


「帳簿の差し替えは、預託された写しとの照合で確認できた。メリネ・ヴァルトシュタイン。横領および証拠偽造の容疑で、取り調べを命じる」


 メリネが崩れ落ちた。


「そんな……サーリオス様、お助けを」


 彼女は傍聴席に手を伸ばした。けれど、サーリオス様は動かなかった。


「公爵家の庇護は、取り消す」


 冷たい声だった。


「後見の責任は、俺が取る。だが、お前を守る理由はもうない」


 メリネが連行されていく。

 静かな幕切れだった。


 監査官長が、私に向き直った。


「ユディア嬢。無罪を宣告する。名誉の回復と、損害の賠償を受ける権利がある」


「ありがとうございます」


 私は一礼した。


「では、これで」


 婚約は破棄のまま。それでいい。

 私は踵を返した。


「待て」


 サーリオス様の声が、背中を刺した。


「ユディア」


 私的な呼び方。彼が評議の間で、その名を呼ぶ。


「……話がある」


 私は振り返らなかった。


「お話しすることは、もう」

「俺の話だ。聞け」


 強い声。けれど、命令ではなかった。懇願に近い響き。


 私は、ゆっくりと振り返った。


 サーリオス様が、一歩前に出た。


「婚約を戻せとは言わない。謝罪で済むとも思っていない」


 彼の目が、まっすぐに私を見ていた。


「だから、これだけは受け取れ」


 彼は、懐から書類を取り出した。公爵家の印が押された、正式な文書。


「君の自由身分と、監査官補佐としての職権を保障する。公爵権限で」


 会場がざわめいた。

 自由身分の保障。それは、誰にも縛られない権利。公爵家の庇護でも、束縛でもなく。


「選べ、ユディア」


 彼の声が、低く響いた。


「俺は縛らない。君が望むなら、二度と会わなくていい。……けれど」


 彼の表情が、初めて揺らいだ。


「君が望むなら、対等な立場で、もう一度」


 求婚ではなかった。

 縛る言葉でも、奪う言葉でもなかった。


 選ぶ権利を、渡された。


「……なぜ」


 私の声が、かすれた。


「なぜ、そこまで」


 サーリオス様は、小さく息を吐いた。


「泣いて縋らなかったからだ」


 彼の目が、どこか苦しげに細められた。


「あの夜。お前が指輪を返した時、俺は初めて気づいた。お前を失う恐怖に」


 独占欲ではなく。支配欲でもなく。

 初めて見せた、彼の弱さだった。


「けれど、縛る権利は俺にはない。だから」


 彼は、書類を差し出した。


「これが、俺にできる全部だ」


 私は、その書類を受け取った。

 自由身分の保障。職権の保障。

 

 縛らない、という約束。


「……考えさせてください」


 私は、そう答えた。


 サーリオス様の目が、一瞬だけ揺れた。けれど、彼は頷いた。


「ああ。待つ」


 回廊を歩きながら、私は書類を胸に抱えていた。


 対等な立場。選ぶ権利。

 捨てられたはずの私が、手にしたもの。


 振り返ると、評議の間の入り口に、彼がまだ立っていた。

 追いかけては来ない。約束通りに。


 私は、小さく笑った。


「……ずるい人」


 泣いて縋らなかったから、と彼は言った。

 けれど、私が泣かなかったのは、諦めていたからだ。


 それでも。

 彼が差し出したのは、謝罪でも求婚でもなく、私の自由だった。


 だから。


「少しだけ、考えます」


 独り言は、春の風に溶けて消えた。


 けれど、足は自然と、彼のいる方へ向いていた。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


「縛らない愛」をテーマに、婚約破棄からの再出発を描きました。

ユディアが手にしたのは、復縁でも謝罪でもなく「選ぶ権利」。

対等な関係から始まる恋は、きっと強いはず。


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