5.前日
それからの二日間、ハリエットとダレルはすれ違えばそれとなく視線を合わせ、小さく微笑み合い、視察先から恋文を送り合っても疑われぬようささやかな『関り』を演出した。今までそんな素振りも無かったのに何を今更という気がしないでもないが、何もしないよりは良い。むしろ、思いが通じ合って直後の視察でお互いが気になって仕方がない…そう思ってもらえれば都合が良いとすら思った。
とはいえ、現在は王妃殿下が国王陛下を公務以外では避けている状態のため、ハリエットとダレルが顔を合わせる機会は中々作れなかった。ハリエットもダレルもありがたいことにお互いの主人からの信頼も厚く、あまりお側から離れることが無かったからだ。
「ハリエット」
出立を明日に控え、王妃殿下付きの侍女総出で荷物の確認や日程の確認を終え、今日も経理部へのお使いを終えて明日に備えて帰宅の途に就こうと回廊を歩いていると、またもハリエットは呼び止められた。たった二日前のことなのに不思議とずいぶん前に感じられたのは、この数日があまりにも濃かったせいだろう。
「お疲れ様です、ダレル」
数匹の猫をかぶったままハリエットが微笑むと、ダレルも穏やかに微笑みハリエットの横に並んだ。
「明日からですね」
歩こう、とダレルが視線で促す。ハリエットも頷きゆっくりと歩き出す。どうも送ってくれるつもりのようだ。
「はい…準備だけですでに疲れました」
ハリエットがほんの少しだけ猫をはがして拗ねたように言うと、ダレルが小さく声を上げて笑った。
「はは、自分の準備もありますし視察は関わる部署も人員も多いですからね…本当にお疲れ様です、ハリエット。明日からが本番ですが………どうか無理は、しないでくださいね」
心配そうに眉尻を下げてハリエットを見たダレルにハリエットはにっこりと笑って見せた。
「大丈夫です!丈夫なのだけが取り柄なので!!寝たらすぐ治ります!!」
ハリエットがぐっとこぶしを握って見せるとダレルが「頼もしいですね」ととても優しい目で笑った。細められる緑の瞳をハリエットは好ましいと思う。穏やかで目立ちはしない…けれどまるで大樹を見るような、そんな安心感があるのだ。
「ダレルも忙しそうですね。やはり…アレでしょうか?」
アレ。ポーリーンとアンソニーの王命での婚姻による余波の鎮静化。今回も王弟殿下がうまく立ち回ったおかげで国王陛下への風当たりはだいぶ弱まったと聞いている。その分、王弟殿下の悪評がまたも増えたようだが。
「そうですね、それもありますが…そこはいつも王弟殿下がご助力くださいますから。本当に…国王執務室と宰相室の面々は正直なところ王弟殿下に頭が上がらないのですよ」
ダレルが苦く微笑んだ。自分の悪評などひとつやふたつ増えても同じだといつも豪快に笑う王弟殿下は、当たり前のように今回も全てを被った。兄王を唆し御璽を押させたのは自分であると公に発表したのだ。心の優しい陛下が弟の我がままを仕方なく飲んだ体で押し切った。
ポーリーンにもそのように告げて頭を下げたというが、こちらはさすがに当事者でもあるため王妃殿下とアンソニー本人からある程度の真実が告げられた。
「あの方も、本当に陛下と妃殿下を大切に思っていらっしゃいますから…」
ハリエットも、王弟殿下を思うと複雑な気持ちになる。自分たち王族に仕える者も自らの主を大切に思っているし、その気持ちは誰にも負けないという自負もある。だが、ハリエットから見ても王弟殿下の献身は度を越している。そしてそんな王弟殿下を支える非常に個性の強い面々もまた、強い思いを持って王弟殿下に仕えているように見える。
今回の件においては王弟殿下に泥を被せた立場になってしまったアンソニーも本来であればもっとうまく立ち回ることができるし、彼自身が王弟殿下が悪く言われることを良しとしない。だが、一年前に婚約を結んだ際もそうだったが彼はどうもポーリーンが絡むと調子が狂うらしい。
王弟殿下のポーリーンと第二騎士団に関する失態は簡単に許せるようなものではないが、それを差し引いても今回の王弟殿下の悪評は間違いなく自分の暴走の結果であり失敗であると、アンソニーも責任を感じているようだった。
ポーリーンが寮から子爵邸へ移ってこないこともあるが、今のアンソニーは自主謹慎中の王弟殿下の側から離れようとしないのだとベンジャミンが困っていた。
「いつか、あの方を真実理解してくださる方が現れると良いのですが…」
あと半年もすれば王子殿下が立太子する。そうなれば王弟殿下も晴れて自由の身だ。王弟という立場から現在も縁談は多いが、さて、どれだけの者が王弟殿下を色眼鏡で見ずその本質に気づけるのだろう。
色眼鏡を掛けずとも少々困った方であるのもまた事実なのだが…。
その後も他愛ない話をしながら回廊を歩いていく。途中、幾人かとすれ違ったが目礼をして通り過ぎる。自分たちはどのように見えただろうか、明日からのしばしの別れを惜しんでいるように見えただろうか。
そうこうしているうちに王妃宮の入り口の前に着いた。ここより先、警護の騎士と特別の許可があるものを除き、王族とその同伴者以外の男性は立ち入りができない。今のダレルは国王陛下と一緒ではないのでこれ以上先には進めない。
どちらからともなく立ち止まる。何とも気まずいままにそのまま立ち去ることもできず、二人俯いたままで向き合っていた。
「ハリエット」
静かにダレルが言った。ハリエットが見上げると、ダレルが淡く微笑んだ。
「あんな頼みごとをした僕が言うことではありませんが……どうか、無理をしないで…気を付けて」
そう言うとハリエットの右手を取り、そっと両手で包み込んだ。ポケットから出した何かがハリエットの手に乗せられる。
「手紙を書きます」
手を握ったままダレルが言った。ハリエットもまたダレルを見つめて言った。
「私も、必ず」
自分たちは共犯者だ。明日からはこの国のために偽りの恋文を送り合う、偽りの恋人同士。ハリエットが笑みを深めると、ダレルもまた笑みを深めて頷いた。
そうして「では、また」と頷いて去って行くダレルの後ろ姿に「はい、また…」と小さく呟いたハリエットの声は届いたのか、ハリエットには分からなかった。
しばらくダレルの背を見送り王妃宮にいただいている部屋に戻ると、ハリエットは握りしめていた右手を開いてみた。そこにあったのは、小さな缶と緑のリボンで缶に括りつけられた四つ折りのメモ。
メモに書いてあったのは共犯者への壮行でも念押しでもなく、たったひと言。
『疲れたら食べてください』
ハリエットの手のひらに乗る大きさの小さな缶を開けてみると、その中には最近流行り始めたバタースコッチが五粒入っていた。先日、王弟殿下が王妃殿下の茶会に手土産で持ってきたものをハリエットも一粒いただいたが、甘く濃厚でとても幸せな味がしたのを覚えている。
ハリエットは早速一粒口に入れた。バターの香りが鼻を抜け、口の中に濃厚な甘さが広がる。クリームのように濃厚に溶けていく飴は、王妃殿下にいただいたものよりも更に甘く、とろけるような幸せな味がした。
ハリエットは缶の蓋を締め、自分の手荷物を開けるとレターセットを確認した。そうして一緒にバタースコッチの缶を入れるとふっと微笑み大切そうにそっと鞄を締めた。