2.三日前
※ 一部、誤字修正しました。
「とりあえず落ち着きましょう、ストークス様。このお茶、とても美味しいです」
そう言ってハリエットは紅茶を飲んで見せるとにこりと笑った。原因が国王陛下だと分かった時点でハリエットに選択肢は無い。協力して、乗り越えるしかないのだ。
「ありがとうございますメイウェザー嬢…………ご迷惑を、おかけします…」
まだ何ひとつ詳細は聞けていないのだがそこはもう十年以上も共に王家に尽くしてきた者同士、それとなくハリエットが協力を承諾したことは伝わったのだろう。
ハリエットは今年で三十歳になった。十八歳の時から王妃殿下に仕えているのでもう十二年になる。対するダレルは現在三十代半ばで国王陛下に仕えて二十年以上と聞いている。
ハリエットが王妃殿下の輿入れと共に王妃殿下の侍女になった時にはすでにダレルは国王陛下の後ろに控えていた。あの頃から少し年を取りはしたが、穏やかな緑の瞳とブルネットの髪はなにひとつ変わっていない。
ハリエットが現王妃であるセシリアと出会ったのは学園、ということになっている。だが、本当の出会いは当時まだ王太子だった現国王陛下の婚約者を決めるためのお茶会だった。
お茶会の席ではなく、お茶会の会場となった庭園から少し離れた池のほとりで、だったのだが。
当時、ハリエットは七歳のやんちゃ盛りだった。伯爵令嬢とはいえメイウェザーは学者の家…といえば聞こえは良いが、各地を巡り研究対象を追い掛けて回り、時には荒事もこなす探検家のような家系だ。
ハリエットも五歳の時には護身術を学び始め、学習も『自らが人生を掛けるに値するものを探す』ことを目的としたものであり、一般的な令嬢とはかけ離れた生活を送っていた。
そんな風変わりな令嬢が世間一般の正しい令嬢令息と楽しくお茶会などできるはずもなく。無理やり着せられたフリル多めののドレスも動きにくく、ふてくされてこっそりとお茶会会場を離れ王宮の庭へ紛れ込んだのだった。
がさごそと垣根を越え、道ならぬ道を行き、どう歩いたのだったか。気が付けばハリエットは大きな池に出ていた。今見るとそこまで大きなものでは無いのだが、七歳のハリエットには途方もなく広く深く恐ろしいものに見えたのを覚えている。
そして、そんな恐ろし気な場所に、美しいドレスを着た妖精が蹲っていたのだ。ハリエットは驚愕した。妖精が傷ついて池のほとりで倒れてしまったのかと思ったのだ。
ハリエットが「大丈夫!?」と言って駆け寄ると、妖精は「あ」と顔を上げた。その顔のあまりの愛らしさにハリエットは頭を殴られたような気分になった。胸はどきどきするし、顔は熱いし、目がちかちかした。
「あーあ…」
妖精が悲しそうな顔をするのでその視線の先を追うと、黄緑色の小さな蛙がぴょんぴょんと跳ねて妖精の足元から離れていくところだった。その蛙は五度跳ねるとぴたりと止まり、首元をぷくぷくと膨らませたり縮めたりしながらじっとハリエットの方を見た。ハリエットを警戒しているように見えた。
「かえる…?」
「そう、蛙」
「かえる…」
妖精がじっと蛙を見つめるのをハリエットはじっと見ていた。妖精の目はとても優しくて、あの蛙は実は王子様で、魔法で蛙になったのかしら?なんて子供らしいことを考えた。当時のハリエットはまだとても純粋だったのだ。
「蛙は嫌い?」
妖精が、突然ハリエットに聞いた。ハリエットが目をまん丸にして妖精を見ると、妖精が少し寂しそうに小首をかしげて微笑んだ。
「嫌い?」
どうして妖精がそんなに悲しそうなのかハリエットには分からなかったが、素直に答えた。
「あのね、分からないわ!」
「分からない?」
「うん、分からない!私は嫌いになれるほどかえるを知らないもの。知りもしないのに嫌いだなんて、言えないわ!」
メイウェザーの人間は知らないものをさも知っているように判断することを嫌う。もちろん生理的に受け付けないものは仕方がないが、そうでないものは嫌うならとことん調べてから嫌う。
調べても、知っても、それでもどうしても嫌いならそれは本当に嫌いなものなのだ。知りもしないのに嫌いだと目を背けて知る機会を失うのは、研究者肌のメイウェザーには耐えられないことだった。
ハリエットは蛙を見ても生理的な嫌悪は抱かない。しかし、蛙について調べたこともないので好きなのか嫌いなのかも判断ができない。だから素直に「分からない」と答えたのだ。
「そう、分からない…。知らないのに、嫌いだなんて言えない…。そう、そうなのね…」
妖精が蛙を見ながら呟いた。妖精は蛙が嫌いなのだろうか?
「嫌いなの?かえる」
ハリエットが聞くと、妖精がゆっくりとハリエットを振り向いた。
「いいえ、大好きよ」
微笑んだ妖精があまりにも綺麗で、嬉しそうで、ハリエットもとても嬉しくなった。
「あなたは好きなのね!とっても素敵!!好きなものが増えるのはとても幸せなことだって、お父様も言ってたわ!!」
ハリエットは嬉しくて、その場でぴょんぴょんと跳ねた。ハリエットの高い位置で二つに結んだ真っ赤な髪が一緒にぴょんぴょんと楽しそうに跳ねた。驚いた蛙は、やはりぴょんぴょんと茂みの奥へ消えてしまった。
蛙が消えてしまった茂みをじっと見つめ、しばらくすると妖精はゆっくりと立ちあがった。ハリエットはその時、やっと妖精の背中に羽が生えていないことに気が付いた。羽だと思ったのは背で結んでいた薄い青のオーガンジーのリボンだった。
「私もそう思うわ。嫌いよりも好きな方が…好きになれる方が、ずっと幸せね」
ゆっくりと妖精がハリエットの方へ歩いてきた。近くで見た妖精はハリエットよりつやつやの林檎ひとつ分背が大きかった。
「あなた、名前は?」
妖精は乱れてしまったハリエットの髪をそっと撫でて直すと微笑んだ。
「ハリエット!」
撫でられたのが嬉しくてハリエットはまた飛び跳ねそうになったが、せっかく直してもらった髪がまた乱れるといけないのでぐっと我慢した。
「ハリエット、私はセシリアよ。………覚えていてね。そしていつか分かったら、あなたの答えを教えてちょうだい」
そう言って妖精改めセシリアはとても優しく微笑んだ。ハリエットの頭をまたそっと撫でると、「またね」と言ってセシリアは去っていった。
ハリエットはセシリアがいなくなった後もその場でぼんやりと突っ立っていた。まるで妖精のいたずらにあったような、目を開けたまま夢を見ていたような、不思議な気分だった。そうして慌てた父や騎士が探しに来るまでハリエットはひとり、池のほとりに立ち尽くしたのだ。
その後、ハリエットは蛙について調べた。本を読み、様々な蛙を観察し、一族の両生類の研究者にも話を聞いた。調べて、調べて、調べて…そしてハリエットは、蛙が嫌いではない、と結論付けた。生涯の研究対象にするほどには好きになれなかったけれど。
そうして初めてセシリアに会ったあのお茶会から八年後、十五歳で学園へ入学したハリエットは蛙の妖精、セシリアと再会した。公爵令嬢であったセシリアは相変わらず美しく優しく儚げで、そして、王太子殿下の婚約者となっていた。
入学式の後、新入生歓迎パーティーの席でセシリアは迷わずハリエットのところへやって来てこう言った。
「あなたの答えを教えてくれる?」
セシリアはハリエットを覚えていてくれたのだ。ハリエットは嬉しさに飛び跳ねそうになる自分を押さえつけ、満面の笑みで研究成果をセシリアに報告した。セシリアは楽しそうにハリエットの話を聞き、時に頷いたり質問をしたりした。
気が付けばハリエットはパーティー会場の一角にあるテーブル席に案内されていた。当時すでにセシリアに侍っていた現在の先輩侍女たちが飲み物や食べ物をまなじりを下げて運んでくれ、一緒になって聞いてくれた。
すでに最終学年であったセシリアと学園で共にあれた期間はたったの一年だったが、ハリエットはいつもセシリアの側に居た。
実はあの幼い茶会の日、婚約の話が出るのが嫌で茶会から逃げていたのだという。ハリエットに「知らないのに嫌うことはできない」と言われ、自分も王太子を知らないのに嫌がるのは止めようと心に決めたのだとセシリアは言った。
「今はあの時、ちゃんと向き合おうって決めてよかったと思っているわ」
そう言って目のふちを赤く染めてはにかむセシリアは本当に美しくて、それでいて力強くしなやかで柔らかくて。ハリエットはますますセシリアが大好きになったのだ。
「卒業したら追いかけていらっしゃい」
そう笑って、セシリアと先輩方は卒業していった。ハリエットはこの一年で…いや、すでにあの七歳のお茶会で決めていたのかもしれない。ハリエットにとってセシリアこそが『人生を掛けるに値するもの』であると。
二年後、ハリエットは学園を卒業した。それとほぼ同時にセシリアが王家に輿入れし、もちろんハリエットも侍女としてそれに着いて行った。そうして、今に至るのだ。
続きは明日、投稿いたします。
良い夜をお過ごしくださいませ。