12.六日目
雨が降り始めたのは午前のお茶の時間を過ぎた頃だった。今日はふたつめの目的地であるウェリングバローまで行く予定だが、酷くなるようならば途中で一度雨宿りをすることも考えなくてはいけない。
今回護衛についている騎士隊の隊長とも相談し、途中の外での休憩をひとつ飛ばしてウェリングバローの手前、次の町まで一気に移動することになった。
幸い雨脚が強くなることは無く、ぽつぽつと雨粒を感じる程度の雨のまま町へ入り休息をとることができた。
「あと少し、雨、持つでしょうか…」
馬を休める間、ハリエットたちも馬車から降りて町のカフェテラスの貴賓室を借りて休むことになったのだが、どんよりと曇る窓の外を見ながらリビーがぽつりと言った。
「ここからは二時間程度の距離だから、どしゃぶりにさえならなければ何とか着くはずよ」
たっぷりと蜂蜜を入れた温かい紅茶で暖を取りながらルースが答えた。この視察に出て以来、こうして揃ってゆっくりとお茶を飲むのは久しぶりだった。
「ウェリングバローにさえ入ってしまえば視察は室内の施設ですし問題ないですが、あまりに長く降ると帰城が遅れますのでそこだけは心配ですね」
淡々と言うルイザに、ハリエットも外を見た。時折窓に水滴がつくところを見ると、やはり薄っすらとは降っているようだ。先ほどばったりと会ったジャックとケネスに辛くは無いかと聞いたところ、土砂降りでも走るのが騎士と軍馬だから問題ない、とからりと笑われてしまった。何とも頭の下がる思いがする。
「夜まで降らないといいですね」
ハリエットの心からの言葉に、皆が神妙な面持ちで頷いた。
一時間後、馬たちの休息も終わり出る準備ができたということでハリエットたちも出発の準備をすることになった。他の侍女たちがセシリアや周囲の荷物を確認する間にハリエットはいつも通り馬車を確認した。少し泥跳ねは見えるが機能に問題はないようだ。
「出発!」
どんよりと暗く垂れ込む雲の下、馬車はゆっくりと走り出した。ここから二時間、本来であれば一度小休憩を挟むところだが休憩なしで走る。馬車を引く馬には少し厳しい道程となるが、雨に濡れながら走ることになるよりは体力の消耗も少ないだろうと急ぐことになったのだ。
天気の悪さのせいか先行きの不安からか、同乗しているセシリアとルイザの表情も硬い。疲れもあるせいか会話もあまりないままに馬車のがらがらという音が妙に響いた。あ、と、ハリエットは思いついた。
「セシリア様、ルイザ様、飴を召し上がりませんか?」
ハリエットはがさごそとポケットを探ると赤い小箱を取り出した。
「まぁ可愛い!どうしたの?」
箱を開けて見せるとセシリアの顔が明るくなった。ルイザも興味津々で覗き込んでいる。
「いただいたのです、私の髪色に似ているからって。疲れたら食べて欲しいと書いてあったのでいかがかなと!」
そう言ってハリエットが勧めると、セシリアがにやりと笑った。
「そう、書いてあったのね、あなたの髪色と一緒だって」
ふふふふふふ、と笑いながらセシリアが小さな赤い粒をひとつ摘まんだ。そうして目の高さまで持ち上げてじっと見ると「書いてあったのね」ともう一度言い楽しそうに飴を口に入れた。ルイザも「書いてあったようですね」と笑いながらひと粒食べた。
ぶわり、とハリエットの顔が熱くなった。少しでもふたりの気持ちが明るくなればと思って出した飴だったが、とんだ蛇を藪から出したらしい。
間違いなく気分が明るくなったのであろう笑顔でセシリアがとどめを刺しに来た。
「甘酸っぱいわね、ハリエット」
くくっと隣のルイザまで肩を揺らして俯いている。
「ち、違うのです!そういうのではなくて!!」
本当のことを言うわけにもいかず、ハリエットはどうしたものかと悶絶した。そんなハリエットを見てセシリアとルイザは目を見合わせ、楽しそうに頷き合った。
暗かった馬車の空気はすっかりと鳴りを潜め、楽しい気分に吹き飛ばされたように、空もそれ以上泣き出すことなく予定通り午後のお茶を過ぎた頃にはウェリングバローへ入ることができた。
ウェリングバローは城塞都市だ。この国がまだ小国の集まりだったころの名残であり今でも十分に城塞として機能する堅牢な都市の中は、その重厚な外見とは裏腹に大変活気に満ちている。陸と海を結ぶのにちょうど良い場所にあることで、幾重にも守られた商業都市として発展したのだ。
小さな城とも言うべき領主館を中心に東西南北に分かれており、北区が高級住宅区、港の方へ街道が伸びる西区が主に輸入品などの珍しいものを扱うマーケット、陸路へと続く東区が農産物や衣類などの必需品を扱う商業区、そして南区が一般居住区となっている。
ウェリングバローは十年前まではとある侯爵家が領主として治めていたが、色々あって現在は王家直轄地となっている。
「ようこそウェリングバローへ、王妃殿下」
そう言って優雅に腰を折ったのは、白の混じる蜜色の髪を短く整えた背の高い紳士。瞳の色は濃い紫…王家の色だ。
「おやめください義叔父様、どうぞいつも通りに。畏まられては私が恐縮してしまいますわ」
セシリアがそう言って怒ったように頬を膨らませると、紳士はぱっと破顔して腕を広げた。
「久しぶりだね、セシリア!元気だったかい?」
その腕に迷いなく飛び込むとセシリアも破顔した。お年を召してもなおも視線だけで女性を虜にしてしまいそうなこの紫眼の紳士は国王陛下の叔父、つまり先王陛下の弟君だ。セシリアから見ると義理の叔父にあたる。現在も王籍に残り、この貿易と防衛の要であるウェリングバロー城砦を領主として、ウェリングバロー大公として守っている。御年五十四歳だが、夜会に出れば今も多くのご婦人や御令嬢方から熱い視線を送られている。
「この通りですわ。義叔父様もお元気でしたか?」
「さて、どうだろう?この通りもういいおじさんだからね」
「義叔父様はいつでも素敵でいらっしゃいますわ」
「おやおや、甘えん坊は相変わらずだな」
言いながら、セシリアは頭をぐりぐりと大公殿下の胸に擦り付けているし、大公殿下もまたセシリアの頭をぐりぐりと撫でている。こうなるだろうことを見越して今日のセシリアは髪を下ろしたままにしていた。
普段は凛とひとりで立つセシリアだが、大公殿下の前ではいくつになってもまるで少女のようになる。大公殿下はセシリアがそうなれる唯一の相手だ。
セシリアは国王陛下の婚約者として、国王陛下や王弟殿下を誰よりもうまく御せる人物として、幼い頃から頼られることが多かった。大の大人たちがこぞって幼いセシリアに助けを求めたのだ。
聡いセシリアはしっかりとそれを受け止め、高位貴族令嬢として、のちの王妃として、早い段階で子供であることを止めた。
先王陛下や王太后殿下はセシリアを心配したが立場上表立って甘やかすこともできず。セシリアの両親であるティンバーレイク公爵夫妻も、心配しつつも自分たちが動けばセシリアが甘くみられるだろうことが分かっていたため静観を決め込んでいた。どれほど噛みしめた奥歯が鳴り、握りしめたこぶしに血が滲んでも、だ。
そんな中、ただひとり自由に動くことができた大人が大公殿下だった。大公殿下は徹底的にセシリアを甘やかした。周りが何と言おうとも子供扱いし、猫可愛がりし、とことん愛情を注いだ。この世でただひとり。セシリアが子供であることが許され、セシリア自身も許したたったひとつの場所が大公殿下だったのだ。
そして、そんな関係はセシリアが二児の母となった今でも変わらない。さすがに人目の多い場所では王妃セシリアを崩すことは無いが、こうして私的な空間で会えばとたんにセシリアはひとりの少女に戻るのだ。
ハリエットはそんなセシリアを何度見ても嬉しくなるし、そんな瞬間を見ることが許される場所にいる自分が誇らしくもなるのだ。
「たった二日しか居ないなど寂しいな。一ヶ月くらいここに居ればいい」
濃紫の双眸を優しく細めながら大公殿下がセシリアの頭をぽんぽんと撫でた。それを合図にするように、セシリアが抱き着いたまま少しだけ体を離した。
「私もそうしたいのは山々なのですが、フレッドの立太子の儀がありますから」
「そうか、私の又甥もついに十歳か!早いものだなぁ」
穏やかに、けれど懐かしそうに微笑んだ大公殿下がその優しい瞳のままにハリエットたちを振り向いた。
「いつもセシリアを支えてくれてありがとう。ここまで疲れただろう。セシリアは私が引き受けるから、君たちは荷解きをしたら少し休みなさい。美味しいお茶とお菓子を用意しているよ」
にっと笑って片目を閉じて見せた大公閣下は実に男前だ。大公殿下だからこそ色恋に疎いハリエットまでときめくほどに素敵だが、この動作は色男がやらなければ逆効果だなとハリエットは思った。
「お心遣いをありがとう存じます。お言葉に甘えまして私共はいったん下がらせていただきます。どうかセシリア様をよろしくお願いいたします」
ルイザがそう言って深くカーテシーをした。ハリエットたちもそれに続く。「またあとでね」と笑うセシリアにそれぞれ笑顔で頷くと退室した。
「セシリア様、嬉しそうでしたね」
「私、あんなセシリア様を初めて拝見しました!!」
「ああ、リビーは大公殿下にお会いするのが初めてだったのね」
そんな会話をしながらセシリアに用意された部屋へ入り荷物をほどいていく。たった二日の滞在ではあるが、セシリアが使うものはそれなりに多い。
「本当はもっと長期間、こちらに居られれば良いのだけれどね」
ルイザが何とも言えない顔でため息を吐いた。王宮にある限りセシリアが肩の力を抜くことはほぼ無い。レオミンスター寺院にしろ、このウェリングバローにしろ、セシリアに仕える者たちにとっても特別な場所なのだ。
「あ、ハリエット」
振り向くと、エイプリルからぽんっとひとり分のお茶とお菓子の乗ったお盆を渡された。
「はいこれ」
「へ?」
ハリエットがきょとんとしてエイプリルとお盆を何度も見比べていると、後ろから声がかかった。
「ハリエット、今のうちに手紙の返事を書いていらっしゃい。雨も降りそうだし定期連絡が早めに出発するそうよ」
ルイザがセシリアの宝飾品を確認しながら言った。「は?」と他の三人を見ると、にこにこと笑いながら頷いている。「別にここで書いても良いのよ?」と、とても良い笑顔でハリエットを振り向いたルイザに「ありがとうございます!」と言ってハリエットは隣室に駆け込んだ。