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第1話 時間停止の災厄



 薄曇りの空から斜めに差し込む朝日が、工房の埃っぽい空気を淡く照らしていた。俺――アレンは古びた木製の作業台に向かい、細かな歯車と格闘している。ここ、辺境の都市リーンベルクにある小さな工房《スミス&ルナ》は鍛冶屋でありながら、魔道具の修理や改造も請け負う変わり種だ。俺はそこの見習い職人として、師匠であるスミス老人と共に日々腕を磨いている。


「よし……これでどうだ?」


 俺は虫眼鏡代わりの単眼ゴーグルを額から下ろし、片目に装着して手元を覗き込んだ。時計塔の親方から預かった懐中時計の歯車が噛み合わなくなっていたのだが、今しがた新しい歯車と交換し終えたところだ。金属製のピンセットでそっと最後のネジを締め、蓋を閉じて巻き鍵を回す。しばらく耳を澄ますと、カチ、カチ、と規則正しい鼓動のような音が戻ってきた。


「直った!……っと」


 思わず声に出してしまい、俺は周囲を見回した。工房の奥では、師匠のスミス老人が何やら大きな機械の解体作業に没頭している。昨日帝都から持ち込まれた蒸気機関装置の一部らしく、床には歯車や配管が散らばっている。額に汗をにじませながらも、その瞳はまるで少年のように輝いていた。

 その隣では、師匠の妻であるルナ婆さんが魔術書を片手に魔法のランプを調整中だ。ランプの水晶玉が明滅するたび、ルナ婆さんは小さく呪文を唱えて慎重に魔力を注ぎ込んでいる。ふたりともこちらには気づいていないようだった。


 リーンベルクは辺境とはいえ交易の町だ。帝国本土から届けられる工業製品や機械文明の影響も受けつつ、古くからの魔法文化も色濃く残る、不思議な混ざり合いの土地である。例えば、馬車と蒸気仕掛けの自動車が同じ通りを行き交い、魔法仕掛けの照明とガス灯が並んで街を照らす、といった具合に技術と魔法が共存しているのだ。スミス&ルナ工房が機械いじりと魔法いじりの両方を請け負うのも、この町では珍しくない。俺が幼い頃から憧れて弟子入りしたのも、そういう「魔法と技術の融合」に惹かれたからだ。


 もっとも――俺自身が「融合」の象徴みたいな存在なのかもしれない、と密かに思うことがある。左目に埋め込まれた紫水晶の義眼と、左手の甲に浮かぶ奇妙な紋様。どちらも、十年前に偶然拾った“石”がもたらしたものだ。


 十年前。俺がまだ七歳だった頃、町の外れの森で偶然見つけた拳大の透明な結晶石。それを持ち帰った俺は、好奇心でハンマーを振り下ろしてみた。頑丈そうに見えたその石は脆く砕け散り、眩い閃光と共に紫色の粉塵となって宙に舞ったのだ。


 そのとき弾け飛んだ破片が左眼を直撃し、俺は目を失った。だが不思議なことに痛みはなく、しばらくして目を覚ますと、砕け散ったはずの紫水晶がまるで意思を持つかのように眼窩に収まっていた。そして左手の甲には、見覚えのない円環のような文様が刻まれていたのだ。


 慌てて駆けつけた両親や医者にも原因は分からず、結局その義眼は取り出せないまま俺の一部となった。初めの頃は視界がぶれたり奇妙な模様が見えたりして苦労したが、今では右目と遜色ない視力を発揮している。むしろ、時折この義眼で信じられないものが見えることを除けば……。


「アレン、どうだい調子は?」


 不意に背後から師匠の声がして、俺ははっと我に返った。作業台に広げた懐中時計を見ると、もう修理は終わっていたのだった。俺はゴーグルをはずしながら振り返る。


「はい、師匠。時計は無事直りましたよ」

「おお、そうかそうか。親方さんも安心するじゃろう。さすがわしの弟子じゃな!」


 白く長い髭をゆらし、スミス老人が満足げにうなずく。師匠は元々帝国の都の技術者だったそうで、機械や時計には一家言ある。その彼に認めてもらえたのが何より嬉しくて、俺は照れくささを覚えながら微笑んだ。


「修理が終わったんなら、悪いが届けてきてくれんかの。その時計、今日の昼過ぎには使うて言っとったしな」

「あ、はい!分かりました」


 時計塔の親方――町の中央広場にある大時計の管理者だ――は頑固者で有名だが、期限を守れば文句は言われないはずだ。俺は懐中時計を革袋に収めると、作業台を片付けてからエプロンを外した。


「行ってきます!」

「気をつけてな、坊主」

「よろしくね、アレン」


 師匠夫婦に見送られ、俺は工房の扉を押し開けて外へ出た。


 リーンベルクの朝はひんやりとして心地よい。石畳の路地裏から表通りに出ると、すでに露店が並び始め、パン屋からは香ばしい匂いが漂っている。俺は袋の中の時計を大事に抱えながら、中央広場へと足早に向かった。


 途中、行き交う人々に混じって顔見知りが何人か手を振ってくる。俺も挨拶を返しつつ歩いていると、不意に背中越しに声をかけられた。


「おはよう、アレン! 今日も元気そうだね」

「あ、おはようございます、セラさん!」


 人懐っこい声の主はセラさん――中央広場で花屋を営む女性だ。二十歳を少し過ぎたくらいの姉御肌で、俺もなにかと可愛がってもらっている。今朝も市場で仕入れたばかりなのか、両手に花束を抱えていた。


「その荷物は何だい? ああ、時計塔の親方さんとこのかい?」

「はい、修理した懐中時計を届けに行くところです」

「そうかい。相変わらず働き者だねぇ。そうだ、あとで余った花を工房に持っていくよ。ルナ婆様に渡しておくれ」


 セラさんはにこやかに笑い、俺の返事を待たずに去っていった。華やかな花束と一緒に、明るい香りが通りに残る。


 その後も軽く知り合いと言葉を交わしながら、俺は町の中心にある広場へとやってきた。リーンベルクの中央広場はそれほど広くはないが、中央にそびえる時計塔がこの町のランドマークになっている。時計塔のてっぺんには巨大な文字盤があり、一日に二回、美しい鐘の音色を辺りに響かせる。


 広場では露天商たちが店を広げ始め、野菜や果物、手工芸品などが並び始めていた。朝陽を浴びて活気づく様子に、俺の気分も自然と弾む。今日もいつもと同じ、平和な一日になりそうだ――そんな予感すら抱きながら、俺は時計塔の入り口を目指した。


 しかし。


 その「いつも通り」は、唐突に崩れ去ることになる。


 時計塔の親方に修理品を渡し、簡単な点検の説明を終えて工房に戻ろうとした矢先だった。


 広場に足を踏み出した瞬間、奇妙な違和感が全身を駆け抜けた。まるで時間の流れが一瞬だけ途切れたような、感覚の空白。頭がくらりとして、思わず視界を覆うように片手を上げる。


「……え?」


 思わず声が漏れた。しかし自分の声がやけに遠く、小さく聞こえる。耳鳴りのような高い音がキーンと鳴り、立っていられなくなって俺は膝をついた。


 視界が紫色に染まる。左目の義眼が熱を帯び、脈打っているのが分かった。その鼓動に呼応するように、左手の甲の紋様がじんじんと痛んだ。


 何が起こっている? 息を詰め、周囲を見回そうとするが、頭がぼんやりして思うように体が動かない。必死で目を見開いても、景色がかすんでうまく捉えられない。


 ――ザンッ!


 鈍い衝撃音がどこか遠くで響いた気がした。俺はその音に反応してかろうじて顔を上げる。ぼやけた視界に、広場の真ん中で何か異様なものが立っているのが映った。


 人……か? だが、それは異形の存在だった。黒い霧のようなものが人型を成してそこに立っている。輪郭が揺らめき、所々が透けて背景が見える。


 人々はどうした? 周囲には朝の市場のはずなのに、物音ひとつなく、誰一人声を上げない。いや、それどころか――誰も動いていない……?


 朦朧とする意識の中で、俺は必死に周囲を見回した。すると、市場の露店の主人が商品を手に取ったまま固まっている。買い物客が足を止め、まるで時間が止まったかのように静止していた。宙を舞っていた鳩は空に貼り付けられたように動かず、吹いていたはずの風さえ止んでいる。


「なん……だよ、これ……」


 かろうじて言葉を絞り出すが、自分の声さえ掠れて消えた。頭の中で警鐘が鳴り響く。まずい、このままじゃ……。


 黒い霧の人型がこちらを向いた……気がした。顔などないはずなのに、確かに俺を見ている気配がある。何か尋常でない敵意のようなものが空気を伝わって押し寄せてきた。黒い影は音もなくこちらに滑るように近づいてくる。輪郭がぐにゃりと歪み、腕とも翼ともつかない黒い霧がゆらりと伸びてきた。


 体がすくむ。指先ひとつ動かせない。まるで悪夢だ――。


(誰か……助けてくれ――!)


 心の中で叫んだその瞬間、世界がぱりんと硝子が割れるような音を立てた。


 視界の紫がかった靄が晴れていく。代わりに、明瞭な光景が戻ってきた。立ち上る砂埃、凍りついた人々、噴水の水滴さえ糸のように宙で止まり、そして黒い霧の化け物。そのすべてを俺の左目は鮮明に捉えていた。


 体が動く……! 先ほどまで金縛りに遭ったように動かなかった手足が、ゆっくりと言うことを聞き始める。完全ではないが、膝立ちになって身構えることができた。


 目の前には依然として黒い霧の人影。大きさは成人男性ほどだろうか。形こそ人のようだが、その存在には明らかに生気がなく、不気味に漂っている。


 俺は恐怖に震える心を必死で抑え、何とか頭を働かせようとした。魔物か何かなのか? しかし聞いたことがない。少なくともこの辺境に、こんな化け物が出たなんて話は――。


 ふと、化け物の向こうに老人が立っているのが見えた。いつの間に現れたのか、長い灰色の髪と髭を持つ痩身の老人だ。薄汚れたローブをまとい、手には古びた木の杖を握っている。その姿はまるで……そう、絵本に出てくる魔法使いのようだった。


 老人はゆっくりと杖を振り上げた。途端に杖の先が眩く輝き、青白い稲妻のような光がほとばしる。そして――。


「そこまでじゃ」


 静かながらもよく通る声が広場に響いた。老人のひと言と同時に、稲妻の光が黒い霧の化け物を貫いた。


 シュバァッ!という風切り音がし、次の瞬間、黒い霧はかき消されるように消滅した。嘘のようにあっさりと。まるで初めから何もなかったかのように、広場の中央には朝日だけが差し込んでいる。


 呆然とその様子を見つめていた俺だったが、やがて膝から力が抜け、その場にへたり込んだ。緊張の糸が切れ、全身から嫌な汗が吹き出す。胸が激しく上下し、呼吸を整えるのに精一杯だった。


 すると、靴音も軽やかに老人がこちらに歩み寄ってくるのが見えた。杖を杖代わりに(紛らわしいが本当に杖なのだから仕方ない)、カツ、カツ、と石畳を叩いている。


 やがて俺の目前まで来ると、老人はふうと一息ついて杖を立てた。間近で見ると、かなりの高齢であることが分かる。顔中に深い皺が刻まれ、瞳は琥珀のような色をしていた。しかしその瞳は驚くほど澄んでおり、知性と優しさが漂っている。


「助かった……のか?」


 俺は喉の奥からかすれる声を絞り出した。立ち上がろうとするが膝に力が入らない。情けないが、倒れ込んだまま老人を見上げる格好になる。


「うむ、もう大丈夫じゃよ」

「お、老人……今のは、一体……?」

「ふむ、お主、普通の人間ではないようじゃな」


 老人は俺の問いかけには答えず、代わりに意味深な笑みを浮かべた。そして杖の先でちょいちょいと俺を指し示す。


「左の眼と手……それ、お主のじゃろう?」

「え……?」


 俺はぎょっとして自分の左目に触れた。義眼はいつも通り、眼窩に収まっている。外見こそ普通の瞳に見えるようだが、触れればわずかに硬い感触がある。今はその表面がじんわりと温かかった。左手の甲を見ると、袖の間から覗いた紋様がうっすらと発光している。


 老人はこちらの様子を興味深げに見つめている。その瞳は静かな湖のように落ち着いていたが、どこか探るような鋭さも感じられた。


「あ、あの……あなたは?」


 状況が飲み込めないまま、俺はなんとかそう尋ねた。突然現れ怪物を一瞬で消し去ったこの老人は何者なのか。魔法使い? それとも幻覚か何かなのか?


「わしはただのしがない老人じゃよ。あえて名乗るほどのもんでもないが……そうじゃな、この町ではそうじゃ、『ベルド』とでも呼んでおいてくれんか」


 ベルド……。聞いたことのない名だ。旅の人か、それとも。


「ベルドさん……今の黒い霧の怪物は何だったんです? それに、皆は……」

「落ち着きなされ、坊主」


 俺の混乱を察したのか、ベルドと名乗った老人はゆっくりと頷いた。周囲を見ると、未だに広場中の人々は静止したままだ。まるで時間だけが止まっているような光景に、背筋に寒気が走る。


「この異常はすぐに収まるじゃろう。ほれ、よう見てみい」


 ベルドさん――いや、ベルド老人はそう言って杖を軽く振った。すると、俺の左目が再び紫色の輝きを取り戻し、視界がぐにゃりと歪んだ。


 目を閉じて開けると――周囲が動き出していた。買い物客が歩き出し、露店の商人が客に話しかける声が戻ってくる。まるで何事もなかったかのように、日常の喧騒が広場に蘇った。

 すぐ隣では、先ほど野菜を手に固まっていた露店商人が、首をかしげながらも客に野菜を手渡している。客の方も一瞬きょとんとして空を見回したが、すぐに笑って財布を取り出していた。みな何事もなかったかのように日常へ戻っていく。


 俺は呆然と立ち尽くし、自分の両手を見下ろした。ついさっきまで膝をついて倒れ込んでいたはずなのに、今は普通に立っている。服についた埃もなく、汗も引いていた。左手の甲の痕も痛みはなく、義眼も静かに脈動を止めている。


「今のは……夢……?」

「いいや、現実じゃよ。ただし、お主以外の人間には認識できん現実じゃった」


 ぽつりと漏らした俺の呟きに答える声がして、隣にベルド老人が立っているのに気づく。彼はひとり満足げに頷きながら、辺りの様子を眺めていた。周囲の人々は老人の存在に全く気づいていないようだ。


「お、俺以外には認識できない……?」

「ふむ、そうじゃ。この広場でほんの少しの間、時間が止まっておった。そしてお主だけが、その“時間停止”の狭間で意識を保っておったのじゃよ」

「時間……停止……?」


 自分の口から出た言葉を、俺はただ鸚鵡返しに繰り返した。信じられるはずもない。だが周囲の人々の様子、そして何より自分自身が体験した恐怖が、それを否応なく現実だと告げていた。


「あの黒い霧の怪物は……一体?」

「あれは**「歪み」**じゃな。時間停止に紛れて現れた、因果の外に生まれし影の一つじゃろう」


 因果の外……。なんだ、それは。老人は独り言のようにそう呟くと、静かに杖を下ろした。


「さて、ここでは何じゃ。場所を変えるとしようかいの」

「え?」


 ベルド老人が再び杖をひょいと振ると、目の前の光景がふっと掠れた。次に瞬きをしたとき、俺たちはなぜか広場の片隅、噴水の裏手に移動していた。


 周囲を見回し、俺は思わず声を上げる。「い、今の……転移魔法……ですか?」

「そんな大層なもんじゃないよ。風の精霊にちょいと頼んで、我々の姿を人の目から隠しただけじゃて」


 にこりと笑う老人に、俺はあんぐりと口を開けた。隠しただけ、とは言うがいつの間にか場所が変わっている。やはり只者ではない……。


「さて坊主。お主は名を何という?」

「あ、アレンです。アレン・フィールと言います」

「ふむ、アレンか。良い名じゃ」


 老人――ベルドは嬉しそうに相槌を打つと、石畳の縁に腰を下ろした。杖を脇に立てかけ、改めてこちらを見上げる。その視線に促されるように、俺も隣に腰を下ろした。


 噴水の水音が静かに耳に届く。広場の喧騒から少し離れたこの場所は、不思議と時間がゆったり流れているように感じられた。先ほどの出来事が嘘のように穏やかで、俺は現実感を取り戻しつつあった。


「ベルドさん、俺……何が何だかさっぱりで……」

「うむ、そうじゃろう。若い衆には荷が重い話じゃ。じゃが、お主には知る権利がある」


 ベルドは静かに笑みを収めると、真剣な眼差しをこちらに向けてきた。その瞳には先ほどまでの穏やかさとは違う、鋭い光が宿っている。


「まず、礼を言わねばな。お主があの歪みに飲まれずに耐えてくれたおかげで、わしも処理に専念できた」

「い、いや……俺は何もできずに突っ立っていただけで……助けてくれてありがとうございます」

「おや、礼を言うのはわしの方じゃよ? くく……まあいい。しかし驚いたぞい。まさか完全停止した時の中で動ける人間がおるとはのう」

「完全停止……やはり、本当に時間が……?」


 自分で言っていても馬鹿げている。だが、ベルド老人は真面目に頷いた。


「そうじゃ。ほんの刹那とはいえ、この町の中心で時が止まった。正確には、この広場一帯の因果律が一時的に凍結したのじゃな」

「因果律の凍結……」


 聞きなれない言葉が次々と出てくる。老人は構わず続けた。


「本来、時が止まればその間の出来事は全て凍結し、何人たりとも認識も行動もできぬ。しかしお主は違った。歪みの出現で時が歪んだ際も、意識を保ち、さらには膝立ちとはいえ動いておった」

「左目が……熱くて、それでなんとか……」

「そうじゃろうな。お主の左目……ただの義眼ではあるまい? のう、正直に申してみい」

「……はい。あれは、拾った石が……」


 俺は悩んだ末に、正直に十年前の出来事を話すことにした。幼い頃、森で偶然手に入れた水晶を砕いてしまい、その破片が今の義眼と紋様になったこと。誰にも原因は分からず、以来ずっとこのままだということ。


 ベルド老人は黙って頷きながら、じっと話を聞いていた。


「……というわけで、俺にもよく分からないんです。ただ、この義眼でときどき不思議なものが見えることがあるくらいで」

「なるほどな。やはりそういうことか……」


 老人は納得したようにひとつ頷いた。


「お主、その石をどこで拾ったと言ったかの?」

「町外れの北の森です。大昔の遺跡があって、子供の頃は遊び場にしていました」

「ふむ、北の森の遺跡……もしや**〈双月の祠〉**ではあるまいな?」

「ご存知なんですか!? はい、確かそんな名前でした。古い石碑にそう刻まれていて……」

「案の定、そういう縁か。なるほど、繋がっておるのお……」


 ベルド老人は自分の顎髭をさすりながら、何度もうなずいている。


 双月の祠。確かそんな名だったと思う。森の中の小さな石造りの祠で、誰も管理していない廃墟だった。幼い頃、仲間内での冒険ごっこの絶好の場所で、俺はそこであの水晶を見つけたのだ。月の模様が彫られた台座にはめ込まれていた、綺麗な紫の石……。


「アレンよ、世の中にはの、“全知”と”全能”の二つの大きな(ことわり)がある」

「全知と……全能……?」

「そうじゃ。全知――すなわち森羅万象の構造と因果律を知り、あらゆる事象を法則に従わせようとする理。もう一つが全能――すなわち意志と祈りの力で奇跡を起こし、自在に世界を作り変えようとする理じゃ」


 ベルド老人の語り口は穏やかだが、その声は不思議と耳に残った。まるで長年染み付いた信念を語っているかのように。


「この二つの理は、本来一つの世界に同時に存在してはならぬものじゃ。理屈で考えれば相反する概念じゃからな。しかし現実には、どちらもが存在し、拮抗しておる」

「相反する……」

「そうじゃ。前者は秩序と安定をもたらすが、変化や奇跡を拒む。後者は自由と可能性をもたらすが、法則や均衡を乱す。対立する二つの力……しかし、どちらが欠けても世界は成り立たんのじゃよ」


 俺は思わず疑問を口にしていた。

「でも…奇跡がそんなに何でもありなら、そんな力を持つ者が好き放題に世界を変えたりできるんじゃ…?」

「ふむ、そう思うじゃろう? じゃが奇跡の力には代償があるのじゃよ」


 ベルド老人は静かに首を振った。


「魔法――奇跡の力は因果律の網目をすり抜けて結果をもたらす。ゆえに魔法は必ず成功する。しかしそのたびに世界にはほころびが生じ、辻褄を合わせようとする歪みが生まれるのじゃ」

「歪み…さっきの黒い怪物のことですか?」

「左様。小さな魔法なら歪みも小さく済むが、大きな奇跡ともなれば甚大な綻びが生じる。酷い時には、時がねじ曲がったり、大災害が起きたり、疫病が流行ったりの…歴史上そうした例は枚挙に暇がないわい」


 俺はごくりと唾を飲んだ。まさに、先ほど自分の身に起きたことがそれなのか――そう思うと背筋が冷える。


「じゃからこそ、全知を信奉する者たちは奇跡を忌み嫌い、全能を信じる者たちは(ことわり)を疎ましく思う。二つの理の均衡を保つことは容易ではないのじゃ」


「遥か(いにしえ)、この二つの理が真っ向からぶつかった戦があった。世界の半分が消し飛ぶほどの大戦じゃ。その戦いの終わりに、生き残った者たちは誓ったのじゃよ。二度と理同士を争わせぬようにと。こうして均衡が守られてきた。わしら**〈均衡派〉**と呼ばれる影の者たちが、長い年月をかけて陰から支えてきたのじゃよ」

「均衡派……」

「うむ、難しい話をしておるな。もっと噛み砕いて申せば、全知と全能、つまりは“法則”と“奇跡”の釣り合いを取る役目を負った者たち、とでも思えばよい」


 俺は何度も心の中で繰り返した。その異質な言葉の数々――全知、全能、因果律、奇跡、均衡――が、頭の中で渦を巻いている。


 ベルド老人はそんな俺の様子を見てか、ふっと微笑んだ。


「難しいかの? 無理もない、普通は知る由もない話じゃて。じゃが、お主は……」


 老人はそこで一旦言葉を切り、俺の顔をまじまじと見つめた。まるで内心を覗き込むかのように、その琥珀の瞳が揺らめく。


「お主は少し特別じゃ。先ほども申したが、完全に停止した時の中で動けた人間など他に知らん。それもこれも、お主の左目と左手の宿命ゆえかのう」

「宿命……」

「うむ。その義眼と紋様、そしてお主があの祠で石を拾ったこと……全て偶然とは思えん。お主はもしかすると**〈調停者〉**の資質を持っておるやもしれぬからのう」


 調停者。その言葉は聞きなれないが、なぜか胸の奥に引っかかった。


「調停者……ですか?」

「まだ断定はできんがな。じゃが、均衡派には古くから予言が伝わっておるのじゃよ。いずれ理と理が再び衝突する時、“狭間に立つ眼”を持つ者が現れ、世界を調停する……とな」

「狭間に立つ眼……」


 不意に左目がじんと疼いた。俺は思わず眼帯に手を当てる。眼帯ごしに触れた義眼はひんやりとして、まるで眠っているように静かだった。


「わしは半信半疑じゃったが……こうして実際にお主と出会ってみれば、夢物語とも言えん気がしてきたわい」

「俺が……そんな、大それた……」


 とんでもない話だ、と否定しようとする。しかし現に俺は先ほど、時間停止の中で生き延びた。偶然にせよ奇跡にせよ、それが事実なら俺は確かに“狭間に立つ”経験をしたことになる。


 調停者……俺がそうだというのか? 世界の均衡が乱れるのを正すような、大層な役目を負う存在だと?


「信じられぬかもしれんがの、今世界ではな、また均衡が崩れかけておるのじゃよ」


 老人の言葉に、はっと顔を上げる。均衡が崩れる……それはつまり、さっきのような災厄がまた起こるということなのか?


「それは……今日のこの出来事のような……?」

「そうじゃ。今日の時間停止は、その前兆にすぎん。お主、帝国暦1422年の現在、世界で何が起こっておるか知っておるか?」

「1422年……いえ、特に……ニュースも旅人の噂も、平和だと聞いていますが……」

「表向きは平和じゃ。しかし裏ではきな臭い動きがある」


 ベルド老人は噴水に手をかざした。水面にさざ波が立ち、何やら光景が映し出されていく。


「これは……?」

「水鏡じゃよ。ただの噴水じゃが、今だけ未来を映し出してみせよう」


 揺れる水面に、ぼんやりと建物のようなものが映った。巨大な塔の中に設えられた機械――円形劇場のような空間に並ぶ無数の歯車と、水銀で満たされた大釜。その周囲に白衣を着た学者風の人々が群がっている。


「これは**〈全知派〉**の連中が密かに開発している“未来予測装置”じゃ。幾万もの歯車仕掛けに精密な法則魔法陣を組み込み、すなわち理の力で未来を計算しようという試みよ」

「未来予測装置……未来を、計算?」

「全知の理を極めんとする者たちは、ついに因果律すら支配しようと躍起になっておる。その装置が完成すれば、未来すら思いのままに予測し制御できるやもしれんからのう」


 俺は言葉を失った。未来を予測し、制御する? そんなことが本当に可能なのか? だが、均衡派だというベルド老人の語ることだ。冗談では済まされない。


「そしてもう一つ……こちらは**〈全能派〉**の所業じゃが」


 水面の映像が変わる。今度は陽の光あふれる神殿のような場所に、光に包まれた赤子が浮かび上がった。その周囲で祈りを捧げる僧たち。赤子はやがてゆっくりと宙に降り立ち、無邪気に笑っている。


「こ、これは……」

「《願いの子》。生まれながらに祈りが現実となる存在。その泣き声ひとつで乾いた大地に雨が降り、笑みひとつで死者さえ蘇るという」

「そんな……まるで神様じゃないですか!」

「全能の理を極めんとする者たちは、ついに“奇跡そのもの”とも言うべき命を作り出したのじゃよ」


 背筋に冷たいものが走った。未来を制御しようとする者たちと、奇跡そのものを生み出した者たち。そんな話、信じられない。しかし目の前の映像が語るものを、否定する根拠もない。


「未来予測装置に願いの子……これらが生み出されるなど、均衡は破られつつある証拠じゃ。そして均衡が崩れればどうなるか……今日のような異常が、そこかしこで起こり始める」

「……!」


 思わず息を呑む。確かに、今日のあの時間停止も、もしかすると――。


「お主の町だけではないかもしれんぞ。突然人が消えたり、昼夜が逆転したり、記憶が入れ替わったり……このままでは世界は徐々に壊れていくじゃろうて。最悪の場合、世界は再び理と理の大戦の炎に包まれかねん。それだけは避けねばならんのじゃ」

「そ、そんな……」


 ぞっとして言葉を失う。時間停止だけでも十分恐ろしいのに、今老人が挙げたような異常事態が次々起こるなんて、想像するだけで寒気がする。戦争が再び起きるかもしれないという言葉にも、現実味が湧かなかった。


「じゃから、わしら均衡派は再び動き出した。表立っては決して知られることのない影の存在じゃが、この世界を二度と滅ぼさぬためにな」

「ベルドさん……」


 ベルド老人の横顔は、静かだが決意に満ちていた。その姿からは先ほどまでの飄々とした雰囲気は消え、長い年月を背負った戦士のような鋭さが漂っている。


「わしはこの町に“歪み”が出る気配を感じ、様子を見に来ておった。そしてお主に出会った。これも何かの縁じゃろうな」

「縁、ですか……」

「うむ。アレン、お主に頼みがある」


 俺はごくりと唾を飲んだ。胸が高鳴る。頼み……何だろう。まさか、世界の均衡を守る戦いに加われとか、そんな……。


 ベルド老人はじっと俺を見据えた。琥珀の瞳が揺らめき、その奥に炎が灯る。


「お主、しばらくこの町を離れ、都へ出てみぬか?」

「え……都、ですか?」

「左様。この先、更なる異変が起きぬとも限らん。均衡派の者たちも、各地で動いておる。都ならば情報も集まりやすいでのう」

「それって……均衡派に加われということですか?」

「さあて、どうかの。無理強いはせんよ。ただ……」


 老人は少し言い淀んでから、言葉を継いだ。


「ただ、わしはお主にこのまま埋もれていてほしくはないのじゃ。お主には資質がある。世界が揺らぎ始めている今、その資質がきっと役に立つ時が来る」


 ……資質。調停者の、ということか。俺は拳を握りしめた。頭の中では様々な思いがせめぎ合っている。突然すぎる話に戸惑い、恐怖もある。大好きな家族や師匠、そして安定した日常を手放すことへの迷いも頭をもたげた。しかし、それ以上に胸の奥で疼くものがあった。


 それは、幼い頃から抱いていた冒険への憧れ。そして世界の秘密に触れてしまった今、ここで何も知らなかった頃には戻れないという予感。


 均衡派、全知、全能、未来予測装置、願いの子、調停者――。未知の言葉がこれほど胸を騒がせるのはなぜだろう。左目の奥がじわりと熱を持つ。


「もちろん、すぐに答えを出せとは言わん。家族や師匠にも相談するがよい」

「師匠……!」


 俺ははっとなった。そうだ、スミス師匠たちは大丈夫だろうか? 時間停止の間、工房はどうなっていたのか。


「心配せんでも、あの程度の歪みでは人体に影響はない。皆一瞬立ちくらみを感じた程度で、すぐに忘れてしまうじゃろう」

「そう、ですか……よかった」


 安堵して胸を撫で下ろす。確かに、広場の人々も時間が動き出してからは何事もなかったかのように振る舞っていた。おそらく本人たちは立ち止まったことすら覚えていないのだろう。


「では、わしはそろそろ行くとしようかの」

「えっ、あ、あの……」


 ベルド老人が立ち上がり、杖を拾い上げる。俺も慌てて立ち上がった。まだ聞きたいことが山ほどある。この人が何者なのか、均衡派とは具体的に何をするのか、俺に何ができるのか――。


 しかしそれらの問いを発しようとした俺の口元に、すっと杖の先が立てられた。老人が軽く首を振る。


「今はまだ時ではないよ。答えを急ぐでない、アレン」

「……はい」

「お主がもし、自分の運命を知りたいと願うなら、北の森の祠へ行ってみるがいい」

「双月の祠に……ですか?」

「うむ。おそらく、お主の左目と左手の謎を解く鍵が眠っておる。均衡派の仲間も待っておるかもしれんのう」


 そう言って老人はにやりと笑った。俺は思わず息を呑む。


 双月の祠に行けば、何かが分かる――? そして均衡派の仲間がいるかもしれない? 胸が高鳴る。もしかすると、これから俺は信じられないような世界の真実に踏み込んでしまうのかもしれない。


 期待と不安がないまぜになった思いでいると、ベルド老人は満足げにうなずいた。


「ではさらばじゃ、若き調停者よ。また会おうぞ」


 杖が大きく一閃される。瞬きする間に、老人の姿はふっと霧散するように消えた。残されたのは、冷たい朝の空気と、俺の胸に渦巻く熱だけだった。


 しばらく茫然と立ち尽くした後、俺はゆっくりと工房へ戻る道を歩き始めた。今見聞きしたことを反芻しながら、何度も深呼吸する。


 リーンベルクの町は相変わらず平和そのものだ。露店の賑わい、人々の笑い声、遠く鐘楼の鐘の音。けれど俺の心は、もはや穏やかではいられなかった。


 ――世界の均衡が崩れ始めている。


 それが何を意味するのか、今の俺には計り知れない。けれど、確かに何かが動き出した。その嵐の予兆を、俺はこの肌で感じてしまったのだ。


 もし、本当に俺が調停者の資質とやらを持っているのなら……。


 知らぬふりをして日常に戻ることなど、できるだろうか?


 義眼の奥で、そっと紫水晶が輝いたような気がした。

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