第142話 何もなかった
羊の群れが全て、へび座とからす座の堕ち星を閉じ込めた水柱の中に飛び込んでいった。
だがもし2体の堕ち星が人間に戻った場合、このままだと窒息する可能性がある。
そう考えて俺は水魔術の発動を止める。
視界の端で周りを見ると、全員がすぐに戦闘が再開できるように構えている。
そして数秒後。
上から降り注ぐ水が止んで水柱が無くなった。
そこには……。
誰もいなかった。
何もなかった。
堕ち星がそこに居たことを示す物は、何もなかった。
俺が生成した水がなければ、今の戦闘すらなかったかと錯覚してしまうかもしれないぐらいに。
同時に、地下貯水空間が静まり返る。
微かに響く水の音が、いつもより大きく聞こえる。
その静寂を、志郎の「いや……どうなってんだよこれ!?」という叫び声が打ち破った。
続いて隣にいる由衣の「え、本当に誰もいないの?」という声が響く。
いや、俺だってこれは流石に想定外だ。
何が起きているのか確認するために、俺は足を踏み出す。
その瞬間、全身の力が抜けた。
俺はそのまま地面に膝をつく。
そして、重力に抗えず前に倒れる。
同時に星鎧も光が消えるように消滅した。
地脈との繋がりも切れたのを感じる。
時間切れか、俺自身の限界か。
どちらかはわからないが、もう一歩も動けない。
だが、幸い五感は機能している。
そして地面は湿ってはいるが、水はもうほとんど無い。
とりあえず俺は仰向けになりながら耳を澄ます。
どうやら隣にいる由衣も星鎧が消滅したらしい。
そして他のメンバーが心配して駆け寄ってくるのが聞こえる。
俺は声を振り絞って指示を出す。
「来るなら日和だけでいい。他3人は逃げたかどうか、周りを探してみてくれ」
聞こえる会話や足音からして、俺の言葉を受けて各自行動に移ったようだ。
とりあえず、深く息を吐く。
1番最初に話しかけてきたのはやはり由衣だった。
「まー君……大丈夫?」
「そのうち動けるようになる。……由衣こそ大丈夫なのか」
「私は……ちょっと休みたいかなぁ……」
その言葉の後、由衣が「あはは……」と笑うような声が聞こえた。
……笑うところではないと思うが。
そう考えながらコンクリートの天井を見上げる。
すると由衣の「ひーちゃんもお疲れ〜」という声が聞こえてきた
「お疲れ……大丈夫?」
「うん。もう少ししたら動けるようになると思う〜……ひーちゃんこそ大丈夫?」
「大丈夫。みんなのお陰で」
他愛のない幼馴染2人の会話。
空いていた由衣と日和との距離も元に戻ったようで安心感を覚える。
だが結局、2人とも戦いに巻き込んでしまった。
俺はその事実に後ろめたさを感じていた。
そこに新たに3つの声が増えた。
「だ〜れもいねぇし、何にもなかったぞ……プレートも落ちてないし」
「だけど、どこかに逃げた感じもない。そもそもあの水柱から抜け出したら気が付きそうだしな」
「でも地面に穴が空いてるわけもないし。本当に消えたって感じ」
志郎、佑希、鈴保が戻ってきた。
俺は身体を動かし、3人を視界に収める。
今回はまだ星鎧を消滅させていない。
その報告を聞いた俺は「そうか」と返事をする。
そして起き上がり、しゃがんだ態勢で力を振り絞って言葉を紡ぐ。
「我、星を繋ぎ作られた座の力を分け与えられし者也。故に我、神遺を宿すもの也。
その神遺の下に命ずる。この世に蔓延る澱みを用いて、人に害を与える者よ。その居場所を曝け出せ」
定義づけを含んだ詠唱で潜在感知能力を底上げする。
感覚が鋭くなり、気配を感じる範囲が現在の数倍以上に広がっていくのを感じる。
しかし、強い澱みの気配は感じれなかった。
……星力切れの状態なので、どこまで感知範囲に入っているかわからないが。
だが、この付近にいないのは間違いなさそうだ。
その安堵もつかの間だった。
「まー君……?今、力……使ったよね?」という、由衣の少し低い声が飛んできた。
「……使ったが?」
「何で使ったの!!!???」
由衣がものすごい勢いで怒っている。ふらふらのくせに立ち上がって。
……いや、何で俺は怒られてるんだ?
そう思いながらも俺は言葉を返す。
「堕ち星が逃げていた場合、まだ近くにいるかもしれないだろ。その場合、不意打ちをしてくる可能性がある。この状況でされたら困るだろ。
それに、これが使えるのは俺だけだ」
「それは……!!!そうかもしれないけど……」
由衣は俺の言葉に反論ができないらしく、口籠った。
そしてそのまま、ふらふらと倒れそうになる。
……何で無理して立ったんだよ!?
支えに行きたいが、まだ回復してないのか。残念ながら立ち上がれない。
しかし、由衣の身体は倒れる前に止まった。
「何やってるの……」という声と共に。
「……ありがと。ひーちゃん」
星鎧を消滅させていない日和が由衣を支えた。
そして日和は「それで。どうだったの?」と聞いてきた。
「いや、何も感じなかった。
隠れて油断するのを待ってる……ということはないだろう」
俺のその言葉でまだ星鎧を消滅させていない4人が元の姿に戻った。安心したような会話と一緒に。
堕ち星達は消滅したのか、死んだのか、それとも逃げたのか。
どうなったかはわからない。
わかっているのは、戦闘が終了したということだけだ。
そして佑希が「じゃあ、とりあえずここから出ないとな」と口を開いた。
すると志郎が「だな!腹減ったし!」と続く。
その言葉を鈴保が「じゃなくて」と返した。
「雨風強くなる前に出ないと、ここに水が入ってくる………真聡は動けるの?」
鈴保の言葉に、俺は「無理だ。先に帰ってろ」と返す。
すると5人全員が顔を見合わせた後、ため息をついた。
……俺は何か間違ったことを言ったか?
そう考えていると鈴保が再び口を開いた。
「じゃあ私と日和で由衣を、真聡は男子2人、頼める?」
「そうだな。真聡の方が重症そうだからな」
「だな。ほら肩貸すぞ〜それなら歩けるか〜?」
そう言いながら佑希と志郎が俺の左右から俺を支えて立たせようとする。
支えられたら歩けないことはないが、手を煩わせたくない。
そう考えてる間にも俺の身体は両側から支えられ、強制的に立たされた。
……志郎は何で手慣れてるんだよ。
俺は諦め半分だが「置いていけ。面倒だろ」と言って抵抗を試みる。
すると志郎は「あのなぁ……」と返してきた。
「言っただろ?『全員で脱出する』って。
だから戦闘が終わったからといって、真聡だけを置いていくなんて出来ないんだよ。
……というか、真聡は俺達の何が不満なんだよ」
余計なことを言ったかもしれない。
藪をつついて蛇を出すとはこのことか。
……いや、もう蛇はでなくて良い。勘弁してくれ。
こいつらは、お人好し過ぎる。
いや、それ自体は悪いことではない。
だけどそれが、俺には辛かった。
俺は逃げるように「……不満はない」と口を開く。
「ただ、落ち着いて今の状況について考えたかっただけだ。
だが、全員で帰るんだろ。ほら、行くぞ」
そして俺は志郎と佑希の肩から両腕を下ろして歩き出す。
が、やはり力が入らず前に倒れそうになる。
そんな俺を志郎が騒がしい慌てた声で「だから!無理すんなって!俺達を頼れって!」と言いながら支えてきた。
今回は十分すぎるほど全員の力を借りた。
全員かなり疲労しているはずだ。
だからこれ以上は手を借りたくないのだが……。
まだ普通に歩けるほど回復していないのも事実だ。
……仕方ない。手を借りるか。
そう思いながら「……じゃあ悪いが肩を借りるぞ」と呟く。
「おう!」
「じゃあここから出よ~!……出口どっちだっけ?」
「こっち。由衣も本調子じゃないんだから無茶しない」
「はぁ~い」
そんな会話の後、俺達は地上へ繋がる職員用通路に向けて歩き出す。
こうして、地下貯水路での戦いは幕を下ろした。
多くの謎を残して。