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「FATE/DESTINY」

作者: *sho

ある冬の夜、春樹は小さなバーのカウンターに座っていた。灯りが薄暗いその店は、いつ来ても静かだった。目の前にはウイスキーのグラスと氷があるだけ。周りの空間は無音に近い。けれど、それがちょうど良かった。


春樹は今日も何も言わずに時間をつぶしている。目の前でカクテルを作るマスターは気を利かせて話しかけてこない。春樹がこの店を選ぶ理由は、それだけだ。


ただ、この日は少しだけ特別だった。春樹の脳裏に、消えない記憶が何度も甦る。彼が最近失った「楽しい時間」のことだ。


それは夏の終わりだった。春樹は偶然、オンラインのゲームコミュニティで一人の女性と知り合った。名前は「レイナ」。画面越しの彼女は、明るく、軽快なユーモアで彼を笑わせた。お互いの趣味や悩みを話し、夜が明けるまでゲームをしながら語り合う日々が続いた。


レイナと過ごす時間は、春樹にとって特別だった。それまで無気力だった彼に、何か小さな灯がともるような感覚があった。


しかし、ある日、彼女がこう言った。


「春樹くん、私のこと知らない方が良かったかもよ?」


冗談のように聞こえたその言葉には、どこか現実味があった。彼女の笑顔の裏に潜む、見えない何か。それに気づいたのは、その瞬間だけだった。


季節が進むにつれ、二人はゲームの中だけでなく、現実世界でも会うようになった。最初のデートは普通のカフェだったが、春樹は緊張しながらも幸せを感じた。レイナも楽しそうにしていた。


しかし、数週間後、レイナが突然連絡を断つようになった。メッセージも、電話も、どれも返事がない。春樹は困惑した。何か悪いことをしたのだろうか。考えれば考えるほど不安が募る。


やがて、共通の友人から聞かされたのは、レイナが重い病気を抱えているという事実だった。末期の病気で、治療の見込みはほとんどないという。


「知らない方が良かった」と彼女が言った理由がようやく分かった気がした。彼女のことを知ったことで、春樹は幸せになった。でも、それと同じくらい、今は苦しかった。


彼女がいなくなった後の空白が、こんなにも辛いものだとは思わなかった。毎日、あの笑顔が夢の中で浮かび、朝になるとそれが幻だと思い知らされる。その繰り返しだった。


彼女がこの世からいなくなるかもしれないという恐怖に、春樹は押しつぶされそうになっていた。


バーの中で、春樹はぼんやりとグラスを回す。

「知らなければよかったのか?」という問いが、何度も頭をよぎる。楽しいことを知ったからこそ、喪失がこんなにも苦しい。それなら、最初から何も知らずにいた方が楽だったのだろうか。


そのとき、カウンター越しのマスターがぽつりとつぶやいた。

「誰かを思い出してるみたいだね。」


春樹は少し驚きつつも、何も答えなかった。


「それだけ大切に思えた時間があったってことは、悪いことじゃないんじゃないか。」


その言葉に、春樹はしばらく黙り込んだ。そうかもしれない。いや、そうであってほしい。彼女がいた時間を無駄にしたくない。その記憶さえ失うのはもっと辛い。春樹はそう思い始めていた。


その夜、彼はいつものように夢を見た。夢の中で、レイナは笑っていた。声も仕草も、すべてが鮮明だった。夢から覚めた後も、彼女の声が耳に残っていた。


「春樹くん、ありがとね。」


それが本当に聞こえた言葉なのか、彼の記憶が作り上げたものなのか、彼には分からなかった。ただ、彼女を思い出すたび、胸が痛いのは変わらない。でも、同時にその痛みが、彼女がいた証なのだとも思えた。


冬が終わる頃、春樹は再びバーを訪れた。カウンターに座り、いつものようにウイスキーを頼む。そしてグラスを見つめながら、小さく笑った。


「知らなければよかったなんて、思わないよ。」


静かな店内に、彼の声が少しだけ響いた。


彼はその言葉を、自分に言い聞かせるように、そして、彼女に伝えるように繰り返した。


— 数年後


春樹がレイナを失ってから3年が経った。彼は変わってしまった。会社員としてそれなりに仕事をこなしていたものの、生きる意欲を失い、平日は仕事だけをこなし、週末は部屋に閉じこもり、酒に逃げる日々が続いていた。


部屋の中は散らかり放題で、机の上には空き瓶やゴミが積み上がっている。ベッドのそばには、埃をかぶったレイナとの写真があったが、春樹はその写真に目を向けることすらできなかった。


そんなある日、春樹は仕事帰りにふらりと街を歩いていた。行きつけのバーに行く気にもなれず、ただ彷徨っていると、ある路上パフォーマンスが目に入った。ギターを弾きながら歌う若い女性。透明感のある声に、春樹の足は自然と止まった。


歌詞には「失う痛みと、それでも進む力」が歌われていた。春樹は不思議な感覚に包まれた。彼女の歌が、まるで自分の気持ちを代弁しているように思えたのだ。


パフォーマンスが終わった後、春樹は女性に声をかけた。彼女の名前は**奈々(なな)**と言った。奈々は歌うことが好きで、路上でしかその情熱を表現できないという。春樹は彼女の歌に感動したことを伝え、彼女と少し話をした。


その日を境に、春樹は奈々の歌を聴くために足を運ぶようになった。部屋の中は相変わらず散らかっていたが、彼の心の中には少しずつ小さな変化が生まれていた。彼女の歌を聴いていると、レイナのことを思い出すと同時に、「まだ自分にも何かできるのではないか」という気持ちが芽生えてきたのだ。


奈々との交流を重ねるうちに、春樹は少しずつ自分の殻を破り始めた。彼は初めて、自分の気持ちを誰かに打ち明けた。


「大切な人を失ってから、何もかもがどうでもよくなってた。でも君の歌を聴いて、少しだけ前を向けた気がする。」


奈々は優しく微笑みながら言った。


「その人のこと、きっと忘れなくてもいいと思う。その痛みがあるから、あなたは強くなれるんじゃない?」


奈々との出会いが春樹を変えた。彼は少しずつ部屋を片付け始め、久しぶりにレイナとの写真に手を伸ばした。そして写真を見ながら涙を流した。彼女がいなくなったことは変わらない。でも、彼女との思い出を否定する必要はないのだと初めて気づいた。


- 数ヶ月後


春樹は新しい趣味として写真を始めた。レイナが好きだった景色や瞬間を切り取ることで、彼女と一緒に生きているような感覚を持てたのだ。奈々はそんな春樹をそっと応援し、彼の変化を喜んでいた。


奈々と春樹の関係はゆっくりと深まり、奈々は春樹にこう言った。


「あなたが過去に出会った人のおかげで、今のあなたがいる。その人も、あなたが前を向いてくれることを望んでいるんじゃないかな?」


その言葉は、春樹の胸に深く響いた。彼は初めて、過去の悲しみを抱えたままでも、新しい幸せを見つけることができるのだと感じた。



それから1年後、春樹と奈々は共に新しい生活を始めた。春樹は奈々の歌を撮影し、それを配信するという新たなプロジェクトを手伝いながら、自分の写真作品も展示するようになった。


過去の痛みは完全に消えたわけではない。それでも春樹は、今の生活に満足していた。奈々の歌声と彼の写真が交わるたび、レイナとの思い出が優しく彩られるようだった。


「知らなければよかったことなんてないんだよな。」


春樹は奈々の隣で、静かにそうつぶやいた。その言葉には、もう迷いはなかった。


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