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1話

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「おぎゃあぁぁぁぁぁぁ」

 強い緊張感に満ちた屋敷に、赤ん坊の泣き声が響きわたる。

 瞬間、屋敷の緊張は解け、痛みを堪えるような、或いは張り詰めたような浅い息は、緩やかな安堵のため息に変わった。

「おめでとうございます!元気な女の子でございます!」

 出産を手伝っていた侍女は我が事のように顔いっぱいに喜びを浮かべる。

 それを見て、産まれた赤子の母、ジュリエットは、出産で窶れた顔に僅かに笑みを浮かべた。

「そう、良かった……」

 ジュリエットは腕を伸ばし、白いおくるみに包まれた我が子を産婆から受け取り、抱く。

 産まれたばかりの赤子は小さく、平均よりも華奢で、生きているということが信じられないくらいだ。ただ、その重みと微かに上下している胸元が、小さき彼女の生命の証のようで、とても愛おしく思えた。

 肌は全体的に朱に染まっていて、ぷっくりとした頬が愛らしい。うっすらと頭部を覆っている毛髪は、母親に似て薄茶色だ。そして瞼はまだ開いていないので、残念ながら瞳の色を知ることは叶わない。けれど、父親に似て、碧い瞳をしていたらいいなとジュリエットはこの時秘かにそう思った。

「奥様、ご主人様をお呼びしましょうか?」

「……、……いえ、いいわ。もう、夜遅いのだし」

 ジュリエットはいつも忙しい旦那(レイノルズ)のことを考え、ついそう答えていた。本音を言えば、レイノルズに早く我が子を抱いてほしかったのだが。

「承知致しました。それでは、奥様はおやすみになられますか?」

「……少しだけ、この子と居させて。あなたたちは部屋を出ていいわ」

「はい、畏まりました。それでは、近くに居りますので何かありましたら、ベルで知らせてくださいませ」

「わかったわ」

 侍女が部屋を出ていくと、体から力が抜けていくのを感じる。

 体が怠いので身を寝かせたまま、ジュリエットは月明かりの差し込む方へと顔を向ける。二重になっている窓からは月明かりに照らされた雪が月光を淡く反射しながら、舞っているのが見える。

 ここ、辺境伯領は豪雪地帯であり、真冬の今はとりわけ、雪が吹雪いている。

 見ているだけで冷ややかではあるが、聖夜である今日は、そんな見慣れた景色も特別で神聖なものに見えた。

「……あなたにとっては、初めての雪になるわね」

 ふと、腕の中の子に目を向け、ジュリエットは目元を和らげた。小さな手に指を差し出すと、ジュリエットの声に応えるかのように、そっと手が握られた。体こそ小さいが、助産の経験が豊富な産婆によると、健康そのものであると言っていた。

「……そう言えば、名前をつけないとね」

 そう言うジュリエットの瞳には限りのない慈愛に満ちている。

「ノエル、なんてどうかしら?ありきたりすぎるかしら……?」

 そんなことを語りかけていた時だった。 

「――ジュリエットっ」

 勢いよく開けられた扉に、そしてそこから現れた人に、ジュリエットは疲れも忘れて身をベッドから浮かせる。

「……!旦那様……!?」

「遅れてしまってすまない。体調は大丈夫か?」

 仕事をしていたからなのか、均整のとれたその身をかっちりとした仕事着に身を包んでいる。慌てて部屋に向かったのか、作りものと見紛うほど整った顔には冬だというのに汗が浮かび、銀糸のような銀髪は乱れていた。

「はい、大丈夫ですわ」

 ジュリエットが頷くと、レイノルズはほっとしたように息を吐いた。そして、若干居心地が悪そうに口を開いた。

「……その、産まれたのか」

 動揺しているのか、ぎこち無いレイノルズの問いかけに、不思議とジュリエットは気持ちが落ち着き、気づけば笑みを浮かべていた。

「はい。女の子でございます」

 ジュリエットがそう言って子を抱く腕を伸ばせば、レイノルズは咄嗟に受け取り、そっと胸元に抱き寄せた。

「…………小さいな」

 そう呟いたレイノルズの碧眼は、僅かに細められているが、そこに浮かぶ感情が喜びなのか、それとも戸惑いなのか、ジュリエットには知ることができなかった。

「……名は決めたのか?」

 レイノルズが視線をジュリエットに向けたことにより2人の視線が絡まり、びくっと、体を強張らせる。

「ノエルは、どうでしょうか……?」

聖夜(ノエル)か。良い名だ」

「ありがとうございます」

 それきり会話が尽き、部屋には再び静寂が訪れる。何か言ったほうがいいだろうか、そう思った時、レイノルズが口を開いた。だが、視線はジュリエットからそらしていて、気まずそうである。

「……――実は、王家から出征のご命令があった」

 その言葉にジュリエットは、息が詰まるように感じた。

 ―――出征の命令。

 それは、戦争に赴くということに他ならない。

 最近、ジュリエットは部屋に引きこもってばかりだったが、隣国との戦況が悪化しつつあることは知っていた。

 だからだろうか、覚悟していたように、ジュリエットの口は自然と言葉を紡いでいた。

「それでは、旦那様は、屋敷を出られるのですね」

「……ああ。こんなときに屋敷を空けるのは本意ではないのだが……実は、明日には屋敷を出なければいけない」

 明日。あまりに突然のことに、ジュリエットは言葉を失いかけた。だが、妻たるもの泣き言を言うわけにはいかない。

「――どうか、わたくしたちのことは気にせず、征ってくださいませ」

 その言葉に、嘘偽りはない。辺境伯の妻で、女の自分とは比べものにもならないほどの義務が、夫レイノルズにはあると知っていたからだ。

「……すまない」

 ジュリエットは姿勢を正し、喉に力を込めて、声の震えを隠す。

「旦那様が謝ることはありませんわ。――ただ、どうかお気をつけて。わたくしは、いつだってあなた様のご無事を祈っております」

 ジュリエットの健気なその言葉に、レイノルズは一瞬瞠目したが、すぐに無表情に戻ると、凛とした態度で告げた。

「……、……ああ、ありがとう。それでは、征ってくる」

 赤子をジュリエットに預けると、レイノルズは部屋を去っていった。

 その時、ジュリエットの瞳が潤んでいたことは、ジュリエットと産まれたばかりの赤子だけの秘密だ。



 翌朝、レイノルズはジュリエットの目覚めを待つことなく旅立った。

 そして、戦況が好転し、レイノルズが帰還するという報せがジュリエットの耳に届いたのはそれからおよそ7年後のことだった。

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