6.◆
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「ねえ、フェリクス。あなたの婚約のことなのだけれど」
仕事に出かける直前、フェリクスは義母であるアビゲイルに突然声を掛けられた。
何も今から玄関の扉を開けるという時に話しかけなくても良いだろうにとフェリクスが思っていると、うっかりアビゲイルの後ろで公爵邸の家令が困ったような表情で佇んでいる姿を見つけてしまった。
そのため、フェリクスは仕方なしにアビゲイルの話を聞くことにしたのだが、そんなフェリクスの行動を見た家令がほっとした表情をしたのを、フェリクスは見逃さなかった。
アビゲイルに振り回される彼も大変だと、フェリクスは引退間近の家令に同情した。
◆◆◆
フェリクスの実の母が亡くなって十年。五年前に父は八歳年下のアビゲイルと結婚をした。後妻としてやってきたアビゲイルは伯爵家の生まれであるが、その美しさを盾にしてまるで女王のように振舞う女性だった。
以前から自身の父――フェリクスの祖父に劣等感を抱いていたフェリクスの父親は軽薄で無責任で享楽的な人物だったが、アビゲイルと結婚してからはさらにその性質に拍車をかけた。
以前は祖父が、そして今では公爵としての業務のほとんどを兄が担っている。それでもその権力だけは握り込んで離さないのだから、余計始末に負えない。酒に酔って帰って来て、使用人に怒鳴り散らすこともしばしば。さっさと引退してくれないかと、何度思ったことか。
そして父がそのような状態であるから、この義母も公爵邸の中で好き勝手にやっているのだ。
「義母上。申し訳ありませんがその話は帰ってから……」
「私の姪などどうかしら?」
フェリクスの言葉を遮るかのように挟み込まれたアビゲイルの言葉に、フェリクスは虚を突かれた。アーモンド家の話をされるのかと思っていたら、それを通り越して別の相手との縁談だ。どうやらアビゲイルの中ではアーモンド家との婚約話はすでになかったものとなっているらしい。
「……貴女の姪、ですか?」
「ええそうよ。あなたも知っているでしょう? 美人だし、センスも良いし、話も達者。私とも話が合うのよ」
確かにフェリクスはアビゲイルの姪を知っている。件の令嬢は何度かアビゲイルを訪ね、公爵邸に来た事があったからだ。だが挨拶をしただけで話してはいない。そしてそもそもアビゲイルと話が合うというのなら必然的に自分とは話が合わない筈だと、フェリクスは表情には出さずに内心で嘆息した。
「どうかしら?」
アビゲイルの表情には自信が溢れている。よもや己の姪との縁談をフェリクスから断られるとは、微塵も思ってはいないようだ。
彼の令嬢は見目は確かに良かったが、化粧が派手で話し方も相手を責めるような強いものだった。フェリクスの好みとはかけ離れている。フェリクスの好みはほんわりとした雰囲気の、穏やかな性格の人なのだ。
そう。シェリーのような――。
平民街で思いもかけずに出会ったシェリーに、フェリクスは好感を抱いていた。可愛らしい容貌は美人と言って差支えのないものであったし、性格も悪くなさそうだった。
平民街を女性一人でうろつくような迂闊なところはあったが、それも人というものを信じているからだろう。疑心に凝り過ぎているよりはよほど良い。
そして何よりも、フェリクスはシェリーの纏う雰囲気に惹かれていた。
はじめて会ったにもかかわらず、彼女の傍はとても居心地が良かったのだ。それこそ陽だまりの中にでもいるような、じわじわと心も身体も温められるような感覚を覚えた。
つい先日までは婚約話が立ち消えになっても仕方ないと思っていたというのに、気付いたらフェリクスはシェリーに婚約を進めたいなどと伝え、しかも次に会う約束まで取り付けていた。
シェリーと別れてすぐ、己の取った行動を顧みたフェリクスは唖然とした。そして隣にいた友人の己を見る目つきは、明らかに胡乱なものだった。
だが、今はまだ決断を下すには早い時期だ。婚約話が進んでいる相手を誘うことくらい普通だろうと、開き直ることでフェリクスは己を納得させたのだ。
それにしてもと――、フェリクスはあの時のシェリーの笑顔を思い出す。すると不思議なことに、途端にフェリクスの強張っていた顔の筋肉が緩まっていった。
「ちょっと、フェリクスってば! 聞いてるの⁉」
だがそれもアビゲイルの甲高い声を聞くまでだった。
苛立ちを隠そうともしないアビゲイルからの答えの催促に、フェリクスはにやけていた口元を瞬時に引き締めた。そして自分がシェリーに惹かれたのはこの義母とは正反対の性質だからではないかということに思い至った。
どうやらフェリクスは無意識にこの義母とは反対の性質の女性を好むようになっていたらしい。だがそう考えれば己の女性の好みにも合点がいく。
「ねえ、どうなの⁉」
さらにアビゲイルが催促して来たが、どうもこうもない。アビゲイルの持って来た話には、ひとつ、フェリクスの好み以前の問題があるのだ。
「……あなたの姪は確か、レジール侯爵家の嫡男と婚約をしていた筈では?」
フェリクスがそう言えば、アビゲイルは途端に眉根を寄せ、目を細め、そっぽを向いてふん、と鼻を鳴らした。今の言葉の何処かに、彼女の気に障る言葉があったらしい。
まさか、とフェリクスが考えていると、そのまさかだった。
「レジール侯爵家から婚約を白紙に戻したいと話があったそうよ! とんでもないわね! 失礼にも程があるわ! 一体あの子のどこが悪かったというのよ!」
一度結ばれた婚約を白紙に戻すのは、そもそものきっかけが家同士の政略に基づくものならば意外とよくあることではある。
事業の締結がなくなった。家同士の繋がりの強化が必要なくなった。そういった場合は家と当事者、双方合意の上で婚約を白紙に戻すものだ。だがそこでも一方的な決定などはあり得ないのだが――アビゲイルのこの怒りようを見るに、破棄の理由は正当なものではなかった可能性もある。
だがレジール侯爵家はそこまで考えなしではないことを、僅かながらも家同士の付き合いのあるフェリクスは知っている。となると、あるいはアビゲイルにとっては正当ではなかっただけと考えた方が無難だろう。アビゲイルは自身の意に添わぬことは、相手が悪いと嘯くような人間だからだ。
何であれ、相手がそこまでするということは相応の理由があったと考えるべきである。そうでなければ後で悪く言われるのはレジール侯爵家だ。これは後で調べておく必要があると、フェリクスは判断した。
そして、自らがとんでもないと言った行為、それを今から自分たちがアーモンド家に対し行おうとしている事実など、きっとアビゲイルは気付いてもいないのだろう。それこそこちらには正当な理由などまったくない。占い師に忠告された、ただそれだけの理由だ。
しかもその占い師はまったくの偽物、陰で犯罪を行っているような人物なのだ。
「シェリー嬢との婚約はこのまま進めます」
フェリクスがそう言えば、アビゲイルは腹立たしそうに片眉を跳ね上げた。
「あら。それは当主であるデリクが決めることよ」
名ばかりの当主だろうにと、フェリクスは内心で実の父を非難した。実際にはフェリクスの婚約話を止めることに躍起になっているのはアビゲイルなのだが、アビゲイルの行動を諫めないのだから父も同罪である。
「たかが占いで、こちらから申し込んだ縁談をなかったことに出来るとでも?」
「当たると有名な占い師だわ」
「なるほど……。ならば貴女の姪が婚約を白紙に戻されたのも、案外相手側がその占い師の忠告に従った結果なのかもしれませんね」
フェリクスの言葉にアビゲイルが瞬時に表情を引き攣らせ、親の仇かと思う程の形相でフェリクスを睨みつけてきた。
「では仕事に遅れますので、これで」
それだけ言うと、フェリクスはアビゲイルに背を向け、玄関の扉を開けた。
背後でアビゲイルが金切り声で喚いている。それを必死に宥める家令に若干申し訳ないという思いを抱きつつ、フェリクスはそのまま家を後にした。