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5.◇



「はじめまして、シェリー嬢。俺はフェリクス・ランズベリーと申します」


(知ってます)


 フェリクスから名を告げられた時、うっかりそう口にしてしまいそうになったほど、今のシェリーは気が動転していた。


 自身の知らぬ間に決められそうになっていた、婚約者とも言えぬ婚約者。

 理由も知らされぬ間に凍結された婚約話の、当事者同士。


 気まずいなんてものではない。


 フェリクスのわずかに下げられた眉を見れば、そう思っているのはシェリーだけではないことが窺える。柔らかな色彩の菫色の瞳には、戸惑いが浮かんでいた。


(まさかこんなところでフェリクス様に会うなんて……)



◇◇◇

 


 エイダと別れたあと、シェリーは店を出て平民街に向かった。


 エイダとのお茶はもともと設定していた時間よりもだいぶ前に終わってしまい、シェリーは迎えの馬車が来るまで暇になってしまったのだ。


 最初はもう一度ケーキを頼もうかとも思ったが、やはり未来の己の健康を考えやめておいた。そうしているうちにも店にはどんどん人が入って来てしまい、一人何も頼まずに座っているシェリーは居場所がなくなってしまったのだ。


 そこでシェリーは一旦店を出ることにした。


 迎えは店に来ることになっていたが、そのまま店の中で待つには少々時間が空きすぎている。貴族街を散策することも考えたが、やはり脚は馴染みの平民街へと向いてしまった。


 平民街に行くと決めたシェリーは、もう一度店内へと戻り店員に言付けを頼んだ。出来る限り約束の時間にはまたあの店に戻るつもりだったが、もしもの時のためだった。

 平民街に行くと言ったときには驚かれてしまったが、平民街はシェリーにとって物騒なところでも物珍しいところでもなかったのだ。


 シェリーの実家アーモンド家の一族は、男爵位の頃から代々この平民街に通っていた。年嵩の者の中にはシェリー、父、祖父、曾祖父まで知っている強者(つわもの)もいる。


 だがいかにもといった貴族の身なりでこの平民街を訪れる者はやはり珍しいらしく、人目を引くらしい。馬に乗った騎士が二人こちらに近づいて来るのを見た時には、ああまた注意を受けるのかぐらいに思っていた。


 平民街で貴族の女性が、しかも一人でうろついている光景はよほど騎士たちの懸案事項と重なるようで、シェリーは平民街にいる時にはよく警邏中の騎士達に声をかけられていたのだ。


 だから近づいてきた騎士二人の内の一人が明らかに見たことのある人物で、しかもそれが己の婚約者になるかもしれない相手だと気づいた時、シェリーは大層驚いた。


 しかし、その驚愕の感情はあまり顔には表れていなかっただろう。シェリーはあまり感情が顔に出ない質だった。シェリーの一族は常に笑顔を心がけているのだ。笑顔は幸せを呼び込むというのが、シェリーの祖父の口癖だった。


 何でも祖父が常に笑顔を心がけていたことから、若い時分にとある高貴な身分の男性と親しくなることが出来たらしい。笑顔がどのような効果を生んだのかまでは教えてくれなかったが、それ以来「常に笑顔」は、清貧、堅実と並びアーモンド家の家訓の一つとなっている。


「……挨拶が遅くなり申し訳ありませんでした。こちらから婚約を申し込んでおきながら勝手に話を止めるなど、本来ならばその段階で私もすぐに謝罪に行くべきだったのですが……」


 申し訳なさそうに眉を下げるフェリクスに、シェリーは慌てた。確かに相手側の勝手な行動ではあったが、目の前で自分より家格が上の人間に謝られると、少々どころではなく居た堪れない。というより胆が冷える。


「いえ、あの! こちらは特に気にしておりませんので」


 まったく気にしていなかったわけではなかったが、なんならこのまま話がお流れになっても構わないとまでシェリーは考えていた。


 一番良いのは一度フェリクスと婚約して、捨てられ、その後新しい婚約者を探すことだったが、皆悪いことを回避するために占いを頼るのだから、事前に回避できるならそれに越したことはないとも思っていた。


 だからもし、ランズベリー公爵家から婚約話の撤回があれば甘んじてそれを受けようと、シェリーと父は話し合いの末すでにそう結論を出していたのだ。


(もともとの家格が違い過ぎるもの……。縁がなかったのよ)


 そう、なかば諦めていたシェリーの耳に、信じがたい内容のフェリクスの言葉が届いた。


「今はまだ理由があって話を進めることは出来ませんが、俺自身は貴女との婚約を進めたいと思っています」


 思いもかけなかったフェリクスの言葉に、シェリーは驚いた。

 話が一時凍結となったのは、てっきりフェリクス自身がこの婚約を進める気がないのだと思っていたからだ。


 フェリクスは女性に大変受けが良い。そんなフェリクスが十人並みのシェリーと婚約など、きっと本心では嫌がっているのではないかと、シェリーは思っていたのだ。


 それがどうしたことか、シェリーの目には、この婚約にフェリクスは乗り気に見える。

 フェリクスの口元には笑みが浮かび、菫色の瞳は優しく細められている。この笑顔がシェリーに向けられているということが、信じられなかった。


「あの……でも」

「シェリー嬢」

「え、は、はい」


 変わらぬ笑顔でシェリーの名を呼ぶフェリクスに、シェリーが思わず返事をする。するとフェリクスが笑顔を深め、さらに信じられないことを言ってきた。


「もしよろしかったら今度二人でまたここへ来ませんか?」

「……ここへ、ですか?」


(平民街にということ……?)


 公爵家の人間であるフェリクスが、平民街で。

 今でさえ周囲から浮いているというのに、今度は私用でここへ来ようというのか。


「はい。ここへ。ああ、もちろん貴族街でも構いません。食事をするならあちらの方が良いでしょうしね。いかがでしょう」


 有無を言わせぬ勢いのフェリクスが、シェリーに選択を迫って来る。


 笑顔はとても優しいのに、何となくだが妙な迫力がある。

 さすが騎士様であると、シェリーは変なところで感心した。


 何の目的でフェリクスがそんなことを言うのかはわからなかったが、いくら話し合いは一旦停止しているとはいえ、仮にも未来の婚約者で格上の貴族でもあるフェリクスの誘いを断ることは、今のシェリーには状況的にも心情的にも無理である。


 シェリーのフェリクスに対する答えに、「……はい」という言葉以外の選択肢はなかった。


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