4.◆
「平民街っていいよなあ。なんか、わくわくするって言うか」
声に僅かな興奮が滲んでいるアレックスの言葉に、フェリクスも頷いた。
騎士の職務の一つに、町の警邏がある。
今日、フェリクスは友人のアレックスとともに馬に乗って町へと警邏に来ていた。
フェリクスは馬上から平民街の一画を見渡した。
まだ幼い子どもたちが、時々道を横切りながら元気に駆けまわっている。道行く人々もそんな子どもたちには慣れたもので、ほとんどの者が笑顔でその様子を見つめている。中には「こら! 危ないぞ」などと怒っている者もいたが、子どもたちには効果がないらしい。
道の脇には様々な品物が簡素な木造のテーブルの上に籠に入れられ乗せられており、一軒の肉屋の前ではコロコロと太った犬が行儀良くお座りをして、店主からおこぼれを貰おうと涎を垂らして待っていた。
「平和だな~」
「そうだな」
町で大きな事件が起こることは滅多になく、だいたいが小競り合いだった。
町は貴族がよく使用する通りと平民が普段使用する通りに分かれている。厳密に区画が分けられているわけではない。貴族が使う店と平民の使う店とでは集まる区画が異なるので自然と道行く人々も分けられているだけだ。
それに互いの領域で生活していた方が、衝突も少なく平穏だ。貴族が平民に襲われることもないし、平民が貴族に横柄な態度を取られることもない。
棲み分けと言ってもいい。
「騎士にならなければ、きっと一生、平民街には来なかったかもしれないな……」
実際フェリクスは騎士になるまで平民街に足を踏み入れたことがなかった。はじめて入った時はなかなかに感動したものだ。貴族街は綺麗で清潔だが、平民街には貴族街にはない魅力がある。人々も素直で、後ろめたいことがある者はそそくさと去って行くが、そうでない者の大半は騎士と見れば愛想良く挨拶をしてくれる。
貴族の紳士たちは良くも悪くも騎士の職務を当然と思っているため、騎士を見ても特別に反応することはない。だが年頃の女性たちだけは平民街の女性も貴族街の女性も反応は概ね悪くない。特にフェリクスとアレックスは見目が良いので、今日みたいに二人揃っている日は女性たちからの視線が熱かった。
「そういえば……あの話どうなったんだ?」
アレックスの言うあの話とは、フェリクスの停滞している婚約の話だ。
「どうもこうもない。父を諭そうとしてもまるで聞く耳を持ちやしない。兄と毎日ぶつかっているよ。抑えておくのもそろそろ限界かも知れないな……。だが仕事の話を父にも、そして兄にもするわけにもいかないからな」
「お前んとこもそろそろ当主交代したほうがいいんじゃないか?」
「ぜひそうして欲しいね。兄もそのつもりだから、思っているよりは早いかもしれないな」
「今回の捕り物が上手くいけば、それも一層早まる」
アレックスの言葉に、フェリクスは一瞬言葉に詰まった。
「どうした?」
「……ああ。今回あの占い師を挙げることが出来れば、公爵家にとっては利益の方が大きい。だが、アーモンド家は……」
フェリクスの言葉を聞いたアレックスが、納得したように唸った。
「……ああ~、まあな。だがそれでもランズベリーは名門だ。しばらくは落ち着かないだろうが、それしきのことで土台は揺るがないだろう」
アレックスはそう言うが、フェリクスとしてはもしかしたらこの婚約話は本当になかったことにした方がアーモンド家のためなのではないかと考えていた。
だが白紙に戻すのはまだ早い。この段階で理由もなく行って良いものではない。だからフェリクスもあえて白紙ではなく、凍結にした兄の意見に従ったのだ。
いずれ白紙に戻るかもしれなくとも、それでも。
「……隊長はいつだと?」
「まだ決定的な証拠が掴めていないそうだ。相手も上手くやってるよ、まったく。……ん? あれは……」
アレックスが何かに気付いたように道の先を見たので、フェリクスも同じ方向を見る。するとそこには平民街にはめずらしい身なりの良い若い女性がいた。
艶のある柔らかそうな赤味の強い金髪に、水色のドレスを着ている。ドレスの作りは簡素だが、一見して作りはしっかりしたものだとわかった。おそらくは貴族の女性だろう。
「こんなところで若い貴族の女性とは珍しい」
アレックスの言う通りだった。
物珍しさを求めて貴族の男性が平民街を訪れる姿はよく見られるが、女性はあまり見かけない。しかも見たところ女性にお付きの者はおらず一人のようだ。貴族だろうと平民だろうと女性が一人で慣れない場所にいるのは防犯上あまりよろしくない。
フェリクスとアレックスは女性に声をかけるべく、馬をゆっくりと女性の元へ向けて歩かせた。
ある程度近づいたところで、フェリクスはこちらに気付いたその女性と目が合った。
大きな淡い、温かみのある茶色をした瞳が見開かれ、驚いた様子でこちらを見つめている。
フェリクスもアレックスも社交界では顔が知れているので、女性が二人を知っていてもおかしいことではなかった。だが何となくだが、フェリクスの方もその女性の容姿に覚えがあるのだ。
誰であったかとフェリクスが内心で首を傾げていると、フェリクスが口を開くよりも早く、アレックスがその女性に声をかけた。
「こんにちは。突然声をかけて申し訳ありません。平民街で貴族の女性を、しかも一人でいるのを見かけるのはめずらしいもので。何かお困りのことは?」
「あ、いえ。大丈夫です。……ありがとうございます。平民街には馴染みの店があるもので……」
「貴女の?」
「ええ」
貴族女性の馴染みの店が平民街にあるのは珍しい。貴族は面子を重んじるので、行きつけの店さえも高級な店を選ぶことが多い。しかもそれを堂々と口にする貴族はさらに珍しいのではないだろうか。
フェリクスはその物珍しい女性に関心を持った。
話し方といい、雰囲気といい、全体的におっとりとした印象を受ける女性だ。
先ほど出会った時からずっと淡く微笑んでおり、些か垂れた目元がさらに女性を柔和な雰囲気に見せている。
「一人で?」
「ええ。先ほどまで友人と貴族街にある店にいたのですが、友人は先に帰ったので。こちらで家の迎えを待っていたんです」
「……平民街でですか?」
フェリクスは無意識に声を低めてしまっていた。
些か不用心だと思ったからだ。
待つならばその店で待てば良いだけの話だ。貴族の女性がわざわざ一人で平民街を訪れるのは、襲ってくれと言っているようなもの。平民街には貴族街にはいないような破落者だっているのだ。フェリクスが眉を顰めれば、それを見た女性が楽しそうに笑った。
「よく来るので心配ありません。皆顔なじみです」
女性のその言葉に、女性が商品を見ていた店の女将が助太刀にとフェリクスとアレックスに声を掛けて来た。
「そうだよ、騎士様。アーモンド家の方たちは貴族にしては気安い方たちでねえ。特にお嬢さんと子爵様はよく買い物に来てくださるんだ」
「アーモンド家……」
フェリクスが聞き返すと女性は少々まごつきながらその事実を肯定した。
「……えっと、はい」
どうりで容姿に心当たりがあるわけである。
アーモンドと聞いたフェリクスとアレックスは顔を見合わせた。よもやこのようなところで件の令嬢と遭遇するとは思ってもみなかった。そして女性の素性が分ったからにはフェリクスとしても己の素性を明かさないわけにはいかない。
おそらく、すでに女性――シェリーはフェリクスの正体に気付いている。最初近づいた時に驚いていたのは、馬に驚いたからでも騎士に声をかけられたからでもない。己に近づいてきた者の一人がフェリクスであることに気付いたからだろう。
「あなたは……アーモンド子爵家のご令嬢、シェリー嬢ですか?」
「あ、はい」
シェリーが気まずそうにフェリクスを見つめている。だがそれはフェリクスも同じだった。その視線に若干バツの悪い想いを抱きながらも、フェリクスは己の名を女性に告げた。