10.◇
「何で、こう良くないことが続くのかしら……」
ここ二週間の内にアーモンド家に立て続けに起こった出来事を思い出し、シェリーは溜息を吐いた。
目の前のカップに手を伸ばせば、お茶はすでに残り少なくなっている。そのお茶をぐいと一口で飲み干し、シェリーは侍女にお代わりを頼んだ。すると、すぐにカップに熱い透明な琥珀色の液体が注がれる。その色がフェリクスの髪の色に似ていることに気付き、シェリーの顔に笑みが浮かんだ。
アーモンド家に起きた良くない出来事。
それはシェリーがフェリクスと食事をした数日後から始まった。
ことのはじまりは、まずシェリーの母の大切にしていたブローチが失くなったことだった。
◇◇◇
「……やっぱりないわね」
母が眉を垂れ、悲しそうに呟く様子を見たシェリーは、母に近寄って声をかけた。
「どうしたの、お母様。何を探しているの?」
シェリーの母は先ほどから様々なところの床や、棚上、家具の隙間などを目を凝らしながら何かを探しているのだ。
「ああ、シェリー……。お母様がおばあ様から貰ったブローチ。あなたも見たことがあったでしょう?」
「ええ。あのカメオのブローチね」
シェリーの母が祖母――己の母親から譲り受けたと言うカメオのブローチは、愛と美の象徴たる女神の横顔が彫り込んであり、とても繊細で美しいものだった。
「そう。そのブローチが見つからないのよ」
「え? どこかで落としたの?」
シェリーがそう言えば、母がさらに悲し気に眉を垂らした。
「そう……そうね。そうかもしれないわ」
けれど肯定する母の煮え切らない態度を訝しんだシェリーは、母を更に問い詰めた。
「お母様、本当は落としたんじゃないのでは?」
シェリーに見つめられた母が少し間を置いて小さな声で答えた。
「……宝石箱の中に入れておいたはずなの」
「お母様……それって」
だがシェリーが皆まで言う前に、母は首を振った。
「いいえ、シェリー。宝石箱に入れていたというのは、多分私の勘違いだわ。きっとどこかに置き忘れたが、落としてしまったのかも知れないわね」
「でも……!」
シェリーは母があのブローチを大切にしていたのを知っている。そして母はいつかはそのブローチをシェリーにくれるのだと楽し気に話していた。だというのに、そんな大切なものを母がどこかに置き忘れるとは考えにくい。
「いいのよ、シェリー。今は見つからなくても、いつか見つかるかもしれないわ」
「お母様……」
母が使用人を疑いたくないという気持ちは理解できる。アーモンド家の使用人はほとんどの者が古株で、人柄も良い。新しく雇った者もいないではないが、それを理由に疑うことも憚られる。シェリーとて滅多なことは考えたくはない。それでも、曖昧にすることに些かの気持ち悪さを覚えないわけにはいかなかった。
(いいえ……証拠もないのに人を疑ってはいけないわ)
もしかしたら、本当に母がどこかへ置き忘れていたり、落としたりした可能性だってあるのだ。
わかってはいても、その日、少しだけ苦い気持ちがシェリーの心の中に残った。
◇◇◇
そしてシェリーの母がブローチを失くしたその数日後。
結局母のブローチは見つからぬまま、今度は馬車で出かけた父が事故にあってしまった。
「お父様!」
「あなた……!」
朝見送った時からは考えられないようなボロボロの姿で帰って来た父に、シェリーと母は駆け寄った。
家を出て、戻って来た時には父親は泥だらけだった。外出先で急に馬車の車輪が外れたそうだ。幸い父にも御者にも大きな怪我はなく、服は駄目になってしまったが二人ともかすり傷で済んだ。二日前に降った大雨で、道がぬかるんでいたことが幸いしたらしい。
「御者が言うには、前日馬車の点検をした時には、特に故障は見られなかったそうだよ。彼は長年この仕事に就いているし、仕事ぶりも真面目だ。嘘を言っているとは思えない」
しかしその御者は責任を感じて仕事を辞めるとまで言っているらしい。
「もちろん、引き留めたよ。彼が御者になってからこれまで一度も事故は起きていなかったが、不幸な事故というものは気を付けていても起こるものだ。前日に点検もしている。今回ばかりは彼のせいじゃない」
そう言って父は力なく笑った。
母に続いて、父までも。
どちらの件も日常の中に潜んでいるような出来事ではある。だが事件の起こった間隔が短すぎるのではないかと、シェリーは思っていた。
そして極めつけは、アーモンド家で働く使用人の一人が、怪我をしたことだった。
馬車の故障から三日ほど経ったある日。
その使用人が町へと買い出しに出かけた際、ガラの悪い男たちに囲まれてしまったのだそうだ。そして彼らから逃げる際、足をくじいてしまったのだという。
それは平民街での出来事だった。
その使用人は普段から平民街にも行き慣れていて、その日も馴染みの店で買い物をし、いざ帰ろうとしていたところを、運悪く普段は見かけないようなガラの悪い男たちに囲まれてしまったらしい。
しかもその日の騎士隊の平民街の警邏はすでに終わっていて、助けを求めようにも絡んできた者たちのあまりのガラの悪さに、道行く者たちにもどうにも出来なかったのだという。
使用人が逃げ惑う中、貴族街から警邏中の騎士達を呼んできてくれた人がいたらしく事なきを得たのだが、騎士達が到着したときにはすでに破落者たちの姿はなかったそうだ。
その話を父伝いで聞いたシェリーは、偶然とはいえ立て続けに起こった事件の薄気味悪さに鳥肌を立てた。
◇◇◇
(やっぱりフェリクス様に連絡を入れた方がいいのかしら……)
フェリクスは、あの日何かあればすぐに連絡をと言ってくれた。
だが今回起きたことはどれも不幸な事故ではあったが、そこに人為的なものがあるという証拠もない。妙な薄気味悪さを感じてはいたが、それはあくまでシェリーの主観である。それだけで、忙しいフェリクスに連絡することも憚られた。
(だって……盗難も、事故も、破落者に絡まれたのだって、ただの偶然だもの……)
だがこれがただの偶然ではなかったら――。
(偶然でなかったら、なんだって言うの……)
まさかシェリーとフェリクスとの仲が近づいたからではないか――。
一瞬だったがそんなことを考えてしまい、その考えを否定するためシェリーはふるふると頭を振った。
(あり得ないわ。だって占い師に言われたのは、将来婚約者に捨てられるという言葉だけだもの)
やはり、ここはフェリクスに相談したほうがいいのかと思い直したシェリーに、使用人から声がかけられた。
どうやらシェリーの友人、エイダがシェリーを訪ねて来たらしい。
「エイダが?」
使用人はエイダを応接間に通しているとシェリーに告げた。
エイダがアーモンド家を訪ねて来るのは珍しい。何か話があるのかもしれないと、シェリーは考えた。
ならばシェリーも今回の一連の出来事をフェリクスではなく友人であるエイダに相談してみてはどうだろうかと思いついた。解決策がもたらされずとも、友人に話を聞いてもらえるだけでも、きっと不安は薄れるだろうと。
少しだけ沈んでいた気持ちが浮上したシェリーは、いそいそと友人が待っているだろう応接間へと足を向けた。
応接間に入ると、そこにはお茶で喉を潤すエイダの姿があった。優雅な仕草で白磁のカップを口元に運び、こくん、と小さく喉を動かしている光景が見惚れるほどに美しい。
カップから唇を離したエイダが扉を背にして佇むシェリーに気付き、微笑んだ。
「ご機嫌よう、シェリー」




