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bw.07(文字の向う)

 見知らぬ場所に迷い込んだ気分で三年の教室を廻った。文芸部のシノザキ先輩を探した。しかし、そんな人はどのクラスにも居なかった。いや、存在していなかった。怪訝そうに見る上級生から貸してもらった名簿に、先輩の名前は載っていなかった。その日の放課後、僕は部室へ向かった。

 扉を開けたら、見知らぬ生徒が数人、談笑していた。

 部屋を間違えたと、僕は謝って扉を閉めた。そこには文芸部ではない部活のプレートが架かっていた。

 僕は部室棟を見渡した。そして端からひとつずつ部室の扉のプレートを確認した。

 それは自分を納得させる為であったが、答えは既に出ていた。

 文芸部はなくなっていた。

 早くしないと。

 僕は思った。

 早くしないと──消えてしまう。

 静かに世界が狭まっている。

 早くしないと。

 僕は学校を後にして、先輩の家へと向かった。

 記憶を頼りに学校から三分。先輩の住むアパート。僕は二階へ上がって、先輩の部屋の前に立つ。呼び鈴を鳴らそうとして、表札に何も書かれていないことを知った。

 落ち着け。ここはまだ先輩の家だ。


   ※


 僕は呼び鈴を鳴らした。

 暫く待っても、返事がなく、ましてや部屋の中から物音ひとつしない。

 今度は扉をノックしてみた。同じだった。

 僕は携帯を取り出し、ダイヤルした。録音された声が流れた瞬間に切った。

 扉のノブを廻した。鍵はかかっていなかった。

「先輩?」

 返答はなかった。薄く開いた扉の隙間に身を滑らすようにして、暗い部屋へ入った。

 玄関に靴がない。

 だからどうした? 靴箱があるじゃないか。きっとそっちにしまっているんだ。

 でも、いつも履く学校指定の革靴を毎回靴箱にしまうのか?

 分っている。

 既にここに靴がない事を僕は知っている。

「いませんか?」

 靴を脱ぎ、部屋に入った。

 分かっている。

 けれども、もしかして、ひょっとして。

 僕は一縷の望みに賭けていた。

 前に来た時と同じ様に、机とベッドと本棚のある部屋。

 バスルームの中は?

 ノックしてみたが返事がないので、開けてみた。誰もいなかった。

 先輩はここにいない。

 しかし、居たと云う痕跡が残っている。

 机の上に広げられている紙が目に入った。原稿用紙。

 ひと枡目にボールペンで書かれた文字が、黒く塗りつぶされていた。

 何かを書こうとして、けれども言葉にならず消した、そんな感じだった。

 ぐるりと薄暗い部屋を見渡した。目がベッドの奥の本棚に引き寄せられる。

 僕は整えられたシーツに手を突き、身体を伸ばして一冊の本を取った。

 暫く表紙を見つめ──ページの中ほどを開いた。

 普通の本だった。

 白いページはない。

 当たり前だ。本なのだから。本なのだから、ページは活字で埋められている。それから何と無しにページを捲って、そこに線が引かれているのを見た。先輩が書き込んだものだろう。

「創造性とは既に過去のものである」

 僕は、別の本を抜き出しページを捲った。無い。別の本を手にする。無い。また別の本を取り出し、ページを捲る。あった。線が引かれているページ。

「いい道具はいい仕事を生む」

 更に本を引っ張り出し、探した。

「模倣こそ最良で最短の訓練」

 何冊も何冊も引っ張り出した本がベッドの上に積み上がった。線の引かれた本とそうでない本。その山を見て、僕は充分だと思った。だから一冊一冊、本棚に戻した。そして現れた文字の意味を思った。

 全てを片づけ終えたとき、以前感じた違和感をそこに見なかった。

 ここにあるのは、特別なものでもなく、変わったものでもない、ただの、本だ。

 たくさんの人の手を渡り、経年相応の、陽に焼けた背表紙を持つ本。

 僕は先輩の家を後にした。

 たぶん、二度とここへは来ない。いや、来ることはできない。

 嘘つき、と僕は呟いた。

 その存在を証明することは難しすぎる。他人に、その空間に、共に時間を過ごした者でない人間に、無かったことを証明するより、在ったことを証明する方がずっと難解だ。

 文芸部の三年生。

 名前のない名簿。

 文字だらけの本。

 それぞれをイチとして、足したらサンになる。

 もしかすると。

 ひょっとすると。

 難しくするな。単純に考えろ。

 僕には、先輩から借りた万年筆がある。どこからか勝手に現れたものではなく、紛れもなく先輩から貸してもらったドイツ製の万年筆だ。

 先輩はいる。そして僕は正気だ。

 証明終了。

 では、いま、先輩は何処にいる?

 難しくするな。単純に考えろ。

 イチ足すイチ足すイチは──サンだ。

 思い出したことがある。最後の部活の日。本を読む先輩は、まるで蝶が羽ばたくような感じでページを捲っていた。放課後の時間だけで四冊も五冊も読んでいた。

 そして、本を読みながら眠ることが何よりも甘美であり、目覚めの現実が惨めであると云った先輩。

 僕は、彼女は文字の向うへ行ったのだと思っている。

 彼女そのものが文字だったと思っている。

 彼女は言葉を持たなかった。

 だから原稿用紙の枡目を埋めることが出来なかった。

 僕は今もあの万年筆を使っている。そして、僕自身が正気であることを理解している。

原稿用紙の枡目をひとつひとつ文字で埋めて物語を紡いでいけば、いつの日にか彼女がまだ読んだことのない話を書けると信じている。

 僕は、先輩に逢いたかった。


  ─了─

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