bw.06(起きるのは大嫌い)
「制服以外の姿、初めてなもので」
とっさに口をついて出た言葉と、微笑。先輩も口元を緩めた。
「Tシャツ姿も初めてだわ」
僕は再び、ベッドにもたれるようにして床に座った。その後ろで先輩がごそごそと動く。
「携帯持ってたんだね」
「余り使いませんけど」
「じゃぁ仲間だ」
先輩は身を乗り出してきて、自分の二つ折りの携帯を見せてきた。「番号、交換しよ」
僕はポケットから携帯を取り出す。
「赤外線だっけ?」
「そっちから送ってください」
僕はボタンを操作して、受信状態にした。
「あれ、どうするんだったかな」
「いいですよ、こっちから送りますね」
僕は再びボタンを操作して送信状態にした。
「ごめん」
分らないや。
先輩は僕に携帯を渡してきた。僕は操作して、受信状態にする。それから携帯同士を合わせて、自分の番号とメールアドレスを先輩の携帯に送った。
「これで大丈夫です」
「ありがとう。じゃぁこっちからワン切りするわ」
ブルッと震えた後に、未登録の番号からの通知があったことを液晶が教えてくれた。
ぱたん、と先輩が携帯を閉じた音がした。
鈍くなった雨音と雷鳴のする暗がりの部屋の中、しばらく僕らはそうしたままだった。
ふと、先輩が口を開いた。
「わたし、眠るのは好き」
特に、本を読みながらうっとりとしたまどろみに身をゆだねる瞬間が。
「でも起きるのは大嫌い」
先輩の息遣いを間近で感じた。
「もし、惨めな気持ちで起きないですむのなら、それよりしあわせなことってないと思う」
僕は、黙ったままそれを訊いていた。
やがて雷鳴は更に遠くなり、雨音もだいぶ静かになって来た。
充分だ。
部屋の中はすっかり暗くなり、僕は湿ったYシャツを片手に、雨宿りのお礼を伝え帰宅した。
家に着く頃には、すっかり雨は上がっていた。濡れた靴と靴下がずっと不快だった。
※
試験が終わり、答案用紙がぼちぼちと返される中で部活動は再開した。
相変わらずブラスバンド部の不協和音が響く部室棟の一角、文芸部の部室。僕はひとりで、新しい物語を書いていた。
先輩は来ていない。
三年は一年と時間割りが異なるだろうと思っていたが、さすがに一週間もするとおかしいと思い始めた。何も書かれていない本を並べていた先輩の部屋。一人暮らし。何かあったとしても、誰にも知られないままだ。いや、同じクラスの人が先に気付くだろう、担任に連絡があったかもしれない、体調を崩したとか。逆に、無断欠席なら担任から連絡がいっている筈だ。そして何かあったのなら、文芸部にも一報があってもいいんじゃないか? 先輩は部長なのだから──いや、先輩は部長だったのか?
三年と自己紹介した先輩。部長とは云っていなかった。そして、一度も先輩の友人の話や、クラスのことを訊いたことがないことに思い当たった。
待て、と僕は自分に云い訊かせた。全てはあの白い本の所為だ。
あれは本当だったのかと、日を追って現実感が、まるで手にした砂が指の隙間からこぼれ落ちるようかのように感じていた。
何も印刷されていない本が売られている筈がない。
そうだろう? 出版社と印刷会社、本屋と何人もの人の手を渡っているんだ。途中で気付かない筈がない。一ページだけならまだしも、全部が印刷されていないなんて。
全てはあの白い本の所為だ。
僕は物事を複雑に捉えている。ただの見間違いだ。
あの日は嵐で、雷が酷く、それに初めて先輩の家に行ったのだ。
濡れた制服が不快で、部屋も暗かった。屋根は雨粒が跳ね返るものすごい音がして、バスルームで先輩が着替えをしていた。
色んな事がありすぎて、混乱か、さもなければ勘違いをしていた。そう考えるのが論理的だ。現実は単純なものなのだ。複雑にするのは決まって当人の意思だ。そう思いたいから、どんどん物事を煩雑に考えるようになるだけだ。
物事はいつだって単純だ。
だが、一方で、僕はその前提こそがおかしいと感じていた。
あの本棚にあった全ての本が見間違いではなく、本当に白い紙を綴ったものばかりであったら?
そちらの方が理にかなっている、とは思えない。しかし、見間違いを証明することはできない。そしてなにより、僕自身が体験したことなのだ。自分の目で見たことを信じられなくなったら、今あるこの世界の全てを疑わなければならない。
待て。待つんだ。単純に考えるんだ。先輩に指摘されたように、物語同様、自身を冗長にしてどうする。
難しく考えるな。単純に考えろ。
僕は携帯を取り出し、ワン切りを貰った番号に電話をかけた。借りている万年筆を握りながらダイヤル音を訊いていた。録音された音声に、圏外であるか電源が切られているかを教えられた。
電話が繋がらないことが、ぼんやりとした不安となって胸の中で広がるのを感じた。
圏外か、電源が切られているか。
僕はこの二択を前者だと感じた。直感だ。そしてそれは、翌日、確信に変わる。