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bw.05(嵐の晩)


   ※


 そして、嵐の晩のことになる。

 期末試験の為の、部活動の休止期間となる最後の日だった。

 次に先輩とこの部室で会うのは一週間の後──期末試験が終わってからになる。

 雲行きが妖しく、遠くの空がゴロゴロと唸っていた。校門を出た少ししたところ、先輩と分かれるその刹那、ものすごい勢いで雨が降ってきた。鞄の中から折畳み傘を出すわずかな合間にずぶ濡れになった。雨を受ける傘が、ベコベコとへこんだ。

「これはひどいわね」

 薄紫色の折畳み傘を差した先輩が云った。「わたしの家、直ぐ近くだから」先輩は僕を促した。「これだけの土砂降りなら、案外早く止むと思うわ」

 雨粒がアスファルトの上を跳ねる。既に幾つか水たまりが出来ている。

 小走りで、僕は先輩の後を追った。

 学校まで三分。それが僕の印象だった。先輩の家は、言葉通り直ぐ近くの二階建てのアパートだった。その二階の奥、角の部屋。

「男子は寮があるからいいわね」

 ワンルームの家。先輩が一人暮らしであるのを初めて知った。

 玄関を通され、バスタオルとハンガーを渡された。そして先輩は着替えをもってバスルームに入った。

 僕は濡れそぼったYシャツを脱いでハンガーに架け、部屋を見廻してカーテンレールに吊るした。下に着ていたTシャツもすっかり濡れている。髪をタオルで拭きながら、改めて先輩の部屋を見た。雨が屋根を打つ音。雨どいを伝う水の音。バスルームで、先輩が着替えている音がした。

 ベッドの奥に、ずらりと文庫本が並んでいた。腰くらいの高さの本棚一面が、一分の隙間もなく文庫本で占拠されていた。布団は綺麗に整えられていたけれど、枕元にはしおりの飛び出た文庫本が一冊あった。そのベッドの反対の壁際に本棚とくっついた机。教科書と参考書、ノートが綺麗に並んでいる。机の上には、紙の束がゆったりと半分で曲げられ置いてあった。透けて見える罫線。原稿用紙だ。気が向いたのだろう、先輩も何かを書き始めたのかも知れない。先輩は孤独と折り合いをつけられたのだろうか。それとも──。

 僕はちょっとその紙束を開いて、そこに書いて在るであろう物語を読んで見たい誘惑に駆られた。しかし、それはしなかった。僕だって、書きかけのものを誰かに見られたくはない。

 僕は頭にタオルを被ったまま、再びベッドの奥の本棚に目を向けた。出版社ごとに異なる背表紙が並んでいて、何となく不調和を感じた。同じ文庫本でも背の高さが若干違う。そして、どれもまるで新品のように綺麗だ。

 窓の外でフラッシュが焚かれたかと思ったひと呼吸の後、ものすごい音が振ってきた。空気を震わせる雷鳴。

 光に焼かれたと思った。その一瞬、文庫本の背表紙に書かれていた文字の一切が消えて見えたからだ。

「すごいね」

 バスルームからくぐもった声が聞えた。また閃光。そして雷鳴。バシャバシャと跳ね返る水の音。

 僕はバスルームの方を向いて、何かゴソゴソとする音を訊き、少し躊躇いながらもベッドに手をつき、並ぶ本の一冊にもう一方の手を伸ばした。無作為に抜き取った一冊。表紙を眺めて、ぱらりと中ほど捲ってみた。

 窓の外が光った。

 落雷。雷鳴が空気を震わす。

 本の中は、真っ白だった。


   ※


 僕は本を両手で持って最初からページをパラパラと捲った。

 文庫本特有の、薄いクリーム色をした紙だけが綴られていた。

 印刷なし。文字なし。あるのはカバーだけ。

 断裁されていなかった本のページをカッターで切り開いていた先輩を思い出す。

 ビンゴ。

 なんという大当たりだろう。こんな本を引き当てるなんて。

 そんな本も大切に本棚に並べている先輩をちょっと面白おかしく思った。しかし、本と本の隙間にそれを戻そうと身を乗り出した時、何か奇妙な感覚にとらわれた。違和感? 抜き取った本を戻し、その隣の本を手にする。まさか、と思いながらも、もしかして、と思った。

 もしかして、だった。

 やはりその本も、何も書かれていない紙の束でしかなかった。

 二冊も? そんなバカな。印刷ミスの本にお目にかかることすらかなり珍しいことなのに。なんなら不良品と云ってもいい。ページが繋がっている本だって、先輩に初めて見せてもらったくらいだ。そんな本を引き当てる確率なんてどれくらいだ? それとも先輩はワザとそんな本を選んで買っているのか? だとしたら、どんな趣味パラノイアだ。そんな人間がいるのか?

 僕は本を戻し──そして、春に先輩と出会った時に読んでいた、あの本を見つけた。僕が、話を書くきっかけになった、あの本だ。

 僕は本を戻して、新たにその本を手にした。

 先輩は物語を知っていた。つまり、読んだことになる。

 したがって、僕がどのページを開こうともそのページが白い筈がない。

 印刷されていない紙を束ねた、カバーだけの本である筈がない。

 そして、僕は眩い雷光の下で、その本にも何も印刷されていないことを知った。

 ゴトッとバスルームで音がした。次いで扉の開く音。

「まったくひどいわね。早く止まないかしら」

 僕は慌てて本をもとの場所に戻し、ベッドに寄り掛かるよう床に座り込んで、ずっとそうして待っていた振りをした。胸の中で、バクバクと心臓が跳ねていた。

 ギシッと小さく床が鳴った。先輩は校章入りのジャージに着替えていた。裸足で僕の目の前を横切ると、ばふっとベッドに倒れ込んだ。

 ゴロゴロと雷鳴はさっきより遠くから聞えてくるようだった。

「小一時間もすれば止むかしら」

 先輩が独り言のように呟いた。僕は答えなかった。

 ごろりと寝返りを打つのが分った。「ねぇ、家に連絡したほうがいいんじゃない?」

 電話貸すよ?

「自分の携帯、持ってますから」

 僕は立ち上がって、玄関に置かせてもらった濡れた鞄から携帯電話を取り出した。自宅に電話をし、母に雨宿りをして帰宅する旨を伝えた。迎えに行こうかと云う言葉を遮って、友人宅にいると告げた。母にはそれで充分だったようだ。

 僕は携帯をポケットにしまい、部屋の中に戻った。ベッドの上に、ジャージ姿の先輩が気怠そうに横たわっていた。ぼんやりと天井を見つめる目と、壁際一面の本棚。僕はその本棚の違和感に思い当たった。ここに並べられた本には、重さがない。

 本に重さだって? 現にそこに本はある。本はあるのだが──希薄だ。

 ここに並べられた本は、全て白いに違いない。

「どうしたの?」

 先輩の目が僕を見ていた。

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