bw.03(製本ミス)
※
「遂に執筆開始?」
連休明け、部室に後からやって来た先輩が云った。本棚の辞書を片手に、僕は数行しか埋まっていない原稿用紙を慌てて隠した。
「書き上がるまで覗き見はしませんよっと」
先輩はいつもの窓辺の定位置に腰を降ろすと鞄から本を取り出した。「でも書き上がったら読ませてね」
僕は曖昧に頷いた。
実際に原稿用紙を前にすると、思いついた話を文字にするということがとても困難であることを知ったからだ。
頭に浮かぶ映像が思い通りに文字にならないのにもどかしさを感じた。
思い浮かんだ文章を書きたくても、手がその速度に追いつかない。
ぱらり、と先輩のページを繰る音がした。
ぱらり、と。
心なしか、僕には休み前よりそのページを繰る間隔が短くなったように思った。
この人は、一週間で何冊の本を読んでいるのだろう。
いままで、いったい何冊の本を読んだのだろう。
家中、本だらけなのだろうか。壁一面本だらけの家。図書館のような書架があって、作家ごとに並べているのだろうか。それともジャンルごとだろうか。本棚に入りきらない本は、床にピラミッドのように積んであるのだろうか。家でもこんな感じに本を読んでいるのだろうか。寝そべったりして読むこともあるのだろうか。そして、積み上げた本をひっくり返したり──。
「お、」先輩が声を上げた。「見て、製本ミス」
先輩が掲げて見せた本は、角が折り曲がっていて、ページが袋とじのようになっていた。
「あるんですね、そういうの」
「当たったことない?」
「どちらかと云えばはずれだと思いますけど」
「インクが薄い、裏写りしている、斜めに印刷されている。希少だと思うけどね」
先輩は鞄の中から細身のカッターナイフを取り出し、そのページを切り開いた。「折れたまま製本して断裁しちゃったんだ」
「交換しないんですか?」
「何を?」
「その本」
「読めないわけじゃないし。わたしにはあたりなの。はずれじゃなくて」
そこには、先輩なりのこだわりがあるのだろう。
ふと、これは書き始めたばかりの話の中に使えそうだとひらめいた。主人公が手にした本の大切なところで製本ミスがあって……。
「なにか楽しそうよ」
「え?」
「いい物語ができそう?」
見透かされたと思ったけれども、口から出た言葉は違った。
「先輩のお好みに合うかどうか分らないです」
それはそれで楽しみだわ、と先輩は笑った。
そうだ。「明日も部活に来る?」
僕は頷いた。
「そっか、そっか」
「なんですか、いったい」
「楽しみにしてて」
何を、と云いかけて、僕は口をつぐんだ。明日になれば、分るのだ。
※
渡されたそれは、飾り気も何もない黒い軸の万年筆だった。
「ドイツ製よ」
入学祝いで貰ったんだけど、あいにく使い道がなくて、と先輩は笑った。「これがインク」
紺色のプラスチックのフタに、やはり黒としか思えない液体がガラス瓶の中で揺れていた。
「ボールペンともサインペンとも違う、ものすごく面白い文字が書けわよ」
「はぁ、」
「いっぱしの文豪気分でしょ」
「まだ一作も書いていないのに?」
「道具だけはプロと同じものが揃えられるのよ。でも、いい道具は、それだけでとても価値がある。いい道具はいい仕事を生むわ」
使ってみて、と先輩はせき立ててきた。僕は手にしたそれのキャップを外す。銀色のペン先。本体はずいぶん軽いものだと思ったが、キャップを軸の尻にかぶせると、手の中でのバランスがしっくりとしたので驚いた。
「すごいですね、これ」
そんなことより、早く。
急かされ僕は、原稿用紙の上にペン先を置き、少し逡巡して「試し書き」としたためた。文字の色は黒でもなく青でもなく、藍や紺というのも違って見えた。あえていうなら──万年筆らしい色。
マスを埋めた文字は、確かに先輩の言葉通りに、面白いものだった。線の太さは均一でなく、力の入り具合で表情がつく。それはまるで、僕の感情そのままを紙に写しているようだった。そして何よりも、紙の上を流水のように滑るペン先に、僕はすっかり魅了された。
「これはなんと云うか──」
「なぁに?」
「色気がありますね」
先輩はくすりと笑った。「いい表現ね」
色気、色気……。先輩は小さく呟く。
「色気のある物語を期待してるわ」
先輩は窓辺の定位置に戻ってパイプ椅子に手をかけた。
「先輩、これ──」
「あげる」
「いえ、これとても高級品だと思います、そんなのいただけません」
「そう?」すとん、と腰を降ろすと、右の人さし指を顎にあてて「じゃぁ貸してあげる」
「でも、」
「いいの、使わないし。道具は使わないと駄目になるから」それから、あのイタズラめいた瞳を向けて「もし気が引けるって云うなら、いい物語を書いてね」
「それは……プレッシャーです」
あは、と先輩は笑った。「たくさん書けば、それだけいい物語に近づくと思うわ」
僕は、さっき試し書きをした原稿用紙に暫く無意味に文字を書きつけて、それからシャーペンで書いていた話の続きを万年筆で書き始めてみた。
すらすらと、流れるように原稿用紙の上に文字が並べられていく。言葉が止まらない。頭の中で思ったことがどんどん枡目を埋めていく。
これは──魔法の道具だ。