bw.02(マスも埋まる)
ぱらり、と先輩のページを繰る音がした。
ふたりきりの部室、気持ちが落ち着かない。数ページ読んでみたけれども、さっぱり入り込めなかった。
閉ざされた扉の向うから、練習する楽器の音や運動部の掛け声が聞えた。
ぱらり、と先輩のページを繰る音がした。
「他の部員は、」
「いないわ」顔も上げずに先輩は答えた。「でも廃部はひとまず回避できたかな」
それでまた沈黙。ぱらり、とページを繰る音。ずいぶん早いペースで本を読む人だと思った。
部室を見廻しても、特に興味を引くものはなかった。そっと腕時計に目を落とす。何時までこうしていなきゃいけないのだろう?
「──読まないの?」
「え?」
「本」
先輩が机に置かれた僕の本を見ていた。「たいして面白くない?」
タイトル教えて、と問われるままに答えた。
ぷっと先輩は笑った。「それ、さんざん最後まで引っ張って、オチは酷いわよ」
「読んだ事あるんですか?」
首肯する先輩。「世の中にはこんな物語るもある、と云う点では一読の価値はあるかも」
「褒めてるんですか、それ」
先輩は声を上げて笑った。
「紙一重というのは便利な言葉ね。それでも好きな人もいるだろうから否定はしないわ」
翌日の部活で、僕は読後感を素直に先輩に話した。
確かに先輩の言葉通りに酷いオチだった。
先輩はひとしきりくすくす笑うと、「自分だったらどんなオチにしようとか考えた?」
「こうしたほうがきっと面白いかなと思うものはありますね」
あんな話だと知っていたら、もっと別のことに費やすほうが良かった。
「そうそれ」先輩は身を乗り出して続けた。「自分で書いてみたら?」
先輩は立ち上がると、本棚の紙束をひとつ手にして、ふぅっと息でほこりを吹き飛ばした。
「やっと備品が活用される時が来たってことね」
「小説なんて書いたことないですよ」
「誰だって初めてのことはあるでしょ?」
「先輩は書かないんですか」
「わたしは読むほうが好きだから」
原稿用紙を渡された。薄茶色の罫線。授業で使うようなそれだった。何枚あるのだろう。
先輩は自分の席に戻って、読みさしの本を手にする。でも、とその開いた文庫本で口元を隠すようにして続けた。「気が向いたら、わたしも書くかも」
僕は鞄から筆箱もとり出さぬまま、原稿用紙の枡目を数えていた。
自分で書く? 一体何を。
ぱらり、と先輩のページを繰る音がした。
「一文字」
「はい?」
「一文字、一文字、気負わず好きに書いていけば、マスも埋まるわ」
ぱらり、と先輩がページを繰る。「そうして文字を積み上げると、言葉となって、物語になる。その繰り返しよ」
慌てることなんて無いわ。
「最初から満点の物語を書けたら世界の作家たちは絶望するでしょうし、そもそも満点の物語なんて存在しない」
出来のいい物語かそうでない物語か。
自分の好きか物語か、そうでない物語か。
「何も今日明日で書かなきゃいけないわけでないから、気楽にね」
本から顔を上げた先輩の目には、どこかイタズラめいた色があった。それを見た僕は、唐突にこの人が喜ぶような物語を書いてみたい、と思った。
この人に愉しんでもらえる物語を書きたい。この人が笑ってくれるような物語を書きたい。
しかし、それは容易なことではなかった。
それからの数日、白い原稿用紙を前にして一文字も書けないまま放課後を過ごした。
ただ見つめるだけで、原稿用紙に文字が浮かび上がるようなことはなかった。もしそうだったらどんなにいいだろう。たとえ、それがなんであれ、少なくとも時間は潰せた。握ったシャーペンをぶらぶらさせたり、備品の辞書を適当に開いては、知らない単語を拾い読みしていた。それからぱらりと先輩が本を繰る音。茜色の光が窓から差し込む頃、部室を出て帰宅する。その繰り返し。
季節だけが勝手に移ろい、五月の連休になった。
出された課題を済ませて、寝ようと思って床についたその晩、それは突然、起きた。
舞い降りた、という感覚が近いかもしれない。自分が書こうとする話の断片が見えたのだ。
これなら物語になるかもしれないと確信した。
僕は寝床を抜け出すと、閉じたばかりのノートを開いて、思いつくままメモをした。