bw.01(書くか読むか)
本の虫
何にもまして確かなことは、僕自身が正気であるとを理解していると云うことだ。
放課後の部室。一緒に過ごした時間。嵐の晩のこと。そして本棚。
あの夏の始まりを告げる日に、ベッドに寝そべって気怠そうに話していた先輩。
全ては僕が体験したことだ。
※
高校に入学して、まだこれと云った交友関係をうまく結べないでいる僕が部室棟を訪れたのは、四月も終わり間近の頃だった。
中学時代には、挨拶程度の仲だった横山と同じクラスになったことで、僕らはひとまず親しいクラスメイトとなった。大方のクラスメイトも似たようなものだろうが、五月の連休が過ぎる頃には、その様相も変わるだろう。そもそも、僕自身、余り社交的な人格でないことを自覚している。なにしろ入学式に文庫本持参で、これからの一年間を、同じクラスで過ごす仲間たちへ挨拶もロクにせず、紙の上の文字を追っていたくらいなのだから。さりとて、ひとりきりで一年を過ごすつもりもなく、人並みに何かしらのコミュニティに属していたいという気持ちはあった。
それはそうだろう?
ひとりは気楽でも、ひとりで過ごす一年なんて、余りにも無知蒙昧でしかない。
横山を得たのは第一段階だ。何なら唾をつけたと云ってもいい。そこから芋づる式に気の合ったもの同士のコミュニティがおのずと形成され、もしかしたら、また横山とは中学時代と変わらず、ただの挨拶をする程度の仲に戻ることだって在り得る。向うだってきっと承知している。ただ、誰も知らない部屋に放り込まれた二人は、見知った顔にお互いすがっただけなのだから。そして他のクラスとの関わりもそれなりに重要であることも承知している。
横のつながり、そして縦のつながりには、部活に在籍するのが手っ取り早い。中旬くらいには一通り見て、どこかしらの部活に籍を置いておくつもりだった。けれども僕は、なんだかそれが億劫で、ただひたすら無意味に、延ばし延ばしにしていた。
校舎脇にある部室棟は、二階建てのプレハブで、一階は運動部、二階は文化部と云った感じで割り振られているらしい。
ハナから運動部には興味の無かった僕は、階段を上って二階に出た。
そこで、足が止まった。
廊下には既にたくさんの生徒の姿があり、中学のそれとは違う活気で満ちていた。
出遅れた、と思った。
一年の入部勧誘期間は、もう時期外れだったのだ。
さっさと行動していれば良かったと悔やんでも後の祭りだ。もう、新入生も部活において自分の居場所ができ上がっており、今更ノコノコと現れた──なんならズレた──男子生徒はカヤの外だ。入部を希望したところで、気持ちよく受け入れてもらえるかどうか。
廊下を行き来する生徒たち。ブラスバンド部の好き勝手に鳴らすラッパの音が聞こえる。たぶんトランペットだ。それに追従するかのようにホルンだのユーホニュームだのがめいめいに練習を始めたのだから、部室棟は不協和音で溢れた。
日を改めよう、とまたぞろ怠けの虫が耳元で囁いている。
「ちょっとごめんね」
すっと、一人の女子生徒が横を通り抜け、直ぐそばの部屋のノブを廻した。
「もしかして入部希望者?」
大人びた声音に、三年生だと思った。振り返って僕を見た彼女へ何か答えようとしている合間に、その女子生徒は続けた。「大歓迎よ」
「今日はちょっと見学してるだけなので、」
「そう?」
そのとき、彼女の肩に掛かっていた髪が濃紺のブレザーの上をはらりと滑った。
「いつでもお待ちしてるわ」
ぱたん、と彼女は扉の中へ姿を消した。
扉のプレートには「文芸部」と書かれていた。
翌日、僕はその部屋の扉をノックした。
※
殺風景な部屋だった。教室の半分くらいの大きさ。二つ並べた折り畳み式の長机とパイプ椅子。壁際にあるスチールの本棚は殆ど空だ。
窓際にひとり、昨日の女子生徒がいた。
「入部希望?」
「とりあえず見学をと」
読みさしの文庫本にしおりを挟みながら「他に興味あるところあるの?」
「いえ、」
「じゃ、今日から文芸部員ね」
そういって女子生徒は立ち上がると、僕の前に立つ。
「三年のシノザキ」
よろしく、と差し出された手を自然と僕は握り返していた。細くて、小さな手だった。
「文芸部ってどんな活動をしているんですか」
「どんな活動をしていると思う?」
「……本を読んだり?」
「半分、当たりってところかな。書くか読むかの二択」
先輩は席に戻ると、本を開きながら続けた。「書くなら原稿用紙使っていいから」
壁際の本棚に向けられた視線。そこにビニールに包まれた紙の束が積んであった。薄汚れた感じから、だいぶ誰も触れていないようだった。
「備品よ。国語、類語、英和、和英。辞書もあるから安心して。でもワープロとかパソコンを使いたいなら諦めて。ううん、せっかくなら手書きも悪くないわ。何もコンピュータ室の使用許可を取るほどでもないでしょうし。読む方なら、図書館から借りてくるかどうにかで持参してね」
ギッとパイプ椅子を鳴らし、先輩は再び読書に戻った。
早まったか、と後悔したが、僕は手近な椅子に座っていた。他に行く宛ても無ければ、殺風景なこの部屋、この部室から出ていくことも憚れた。だから昼休みに読んでた文庫本を鞄から取り出し、一緒になって読むことにした。