4.5
程なくしてドアが開かれた。いつも通りのギグスじいさんだった。
「ああ……何ともなかったか……」
事を起こした張本人ながらも、やはり責任を感じていたのだろうか、トマスが心底安堵したようにそういった。
「何ともないことあるめえよ。あんた、来てんだろ例の奴が。わしは逃げんぞ。もう子を置いて自分だけ逃げるのはこりごりだ」
歳と恐らくこの非常事態の疲れからか、翁の声はしわがれていた。しかし、注意深く観察したところで異変といえばそれくらいで、今のところ特には変わった様子はなさそうだった。
「……いや今回はそのことじゃないんだ。昨日こいつがここに来ただろ?」
何ともない風を装って、私は親指の先で隣の男を指しながら尋ねた。
「ああ、来たな。どうだ、お前さん何とかなりそうか。頼むよ、病気はわしでも何ともならん……まったく、生まれてくる子がすぐにいなくなるのは、いつになってもかなわん」
「そんなことより、じいさんは本当に何ともないか?」
私が取り乱してしまったせいかトマスは、過剰に罪の意識を感じてしまっているようだった。
「おめえ、そんな事とはなんだ!このやぶ医者め、あのかわいそうな子牛よりわしの方が病気に見えるってえのか。」
「いや……そういうわけじゃないが……」
「じゃあ、なんだっていうんだ。お前の親父も大抵やぶだったがな──」
「なあ、ギグスじいさん、少し牛の様子を見させてもらっていいか。今日は牛たちを使うかもしれん。それにトマスも昨日診た子牛が気になるようだからな」
どうやらじいさんも本当に体に異常はなさそうだったし、正直なところこんなところで無駄話をしている時間の余裕などなかったため、わきから口をはさんで単刀直入に目的を告げる。
「ああ、そういうことかい……そういうことなら使ってくれてもいいがあまり酷使させんでやってくれな。──お前さんもあの子を頼むぞ」
「ありがとうじいさん」
「……ああ」
そういって私を見るじいさんの目は、いつものような頑なな意思を感じさせつつも、少し諦めのような色が見て取れた。
子牛を託されたトマスも、その信頼をもうすでに裏切ってしまっているため、あまり歯切れのいい返事を出来ていなった。
「よしわしも行くから待っとれ。鍵をとってくる」
「いや、先に鍵だけ渡してくれ──まだ朝食の途中だろ?」
私はこの扉が開いたとき、じいさんの肩越しに食べかけのパンがテーブルの上に置いてあるのを発見していた。
「ああ、そうか。すまんな、じゃあ先に行っといてくれ」
じいさんはそういって一旦家に引っ込むと、鍵を持ってきて私に手渡した。
「ああ、わかった。でも朝食は急がず食ってくれ──ゆっくり食事が出来るのは今だけかもしれんからな」
私が神妙な顔でそう告げると、彼は短くうんと言って扉を閉めた。
建付けの悪いドアがぎいぎい音を鳴らせながら閉じる。
私たちはそれを見届けると、無言で門の隣にある守衛用の出入り口に向かった。
それはほぼ、ギグスじいさん専用の出入り口だった。人一人通れるくらいの小さな扉で、老体には少々骨が折れるだろう大きな門を開けずとも、いつでも家畜小屋の様子を見に行けるように設置されたものだった。
私は一歩前に出て鍵を開ける。
鍵は主に子供たちが勝手に村の外に行かないように拵えられたものだったが、結局この村は子供にはあの二人しか恵まれなかったので、ほとんど不要のものだったが、じいさんは律儀に毎回仕事をこなしていた。
私は扉をくぐり、塀の外に出て周りを見渡す。
収穫には程遠い青々とした麦穂が、決して広大とは言えないなだらかな傾斜の丘に横たわり、未だ山の陰に潜む朝の光をひっそりと待ちわびていた。
続いて扉をくぐってきたトマスが、扉をしっかりと閉じたのちに口を開く。
「やっぱ俺、あのじいさん苦手だわ……」
「その割には随分と心配してたみたいだが」
「まあ、そりゃあそうだろうがよ。じいさんは俺の親父と仲が良かったから小さいころから世話になってたし、何よりこっちは子牛のことでいろいろと負い目があるんだ。薬のこともそうだし、病気になった子牛を何も出来ずに見殺しにするしかなったこともそうだ──」
「……そうか、だがあまり薬のことを悟られるようなことはするなよ。もし万が一このことが明るみになれば、ギグスじいさんより前に俺自身がお前を処断しなければならん」
「ああ、分かったよ。だからお前もこれ以上俺を脅すのはやめてくれ。このままじゃいずれぼろが出る」
彼は先ほど娘を守るためなら何を犠牲にしてもかまわないといったが、彼の言う通り何かを犠牲にしたからといって、何かを助けられるわけではない。何もかも失うことも、どちらも失わずに済むこともある。
何もかも割り切って強い意志を持つことが正しいのか、割り切れず掬えるべきものを見逃さぬように生きるのが正しいのか、私自身も惑いの中にいることを彼の表情から自覚せざるを得なかった。
私はトマスに返事ともつかない気の抜けたああ、という返事をしたのち厩舎に向かった。そろそろ歩を進めなければじいさんが朝食を食べ終わってしまうかもしれなかった。
厩舎は木造の平屋でお世辞にも立派とは言えない代物だった。資材や労働力の不足から掘っ立て小屋のような風貌になってしまった厩舎は、ギグスじいさんの頑張りで、何とか厩舎としての体裁は保っていたが、冬は雪の重みで軋み、雨の日は雨漏りが絶ず、干し草も乾かないような状態では、劣化はさすがにいかんともしがたく、朽ちていくに任せる、そんな状況であった。
まあ、最もそれは牛たちの暮らす厩舎のみならず、人が暮らす塀の中の建物であっても同じではあったのだが。
「──開けるぞ」
厩舎の両開きの扉は、一本閂がおろされているのみで、他に鍵などは掛けられてはいなかった。私たちが想定している侵入者は牛などには興味はないだろう。
私の問いに後ろで頷くような気配を感じた。私は閂が外された扉を手のひらで押し開けていく。
またか、と思わず私は心の中で嘆息した。たちの悪いびっくり箱を永遠に開けさせられているかのようだ。箱の中身が怖い。もう結果は決まっているはずなのに、得体のしれないものが後出しで結果を左右しているような気がして、私はその得体のしれないものに、知らぬうちに祈りを捧げていた。