4.4
なんてことだ……
さすがに私でもこの目の前にいる旧友の裏切りは予想出来ていなかった。
胸中には様々な疑惑や感情が渦巻いていたが、しかしながら──
「あ、おい!イオ!どうした、どこに行く!」
「決まっているだろ!子牛がいる農場だ!」
気が付けば足が動いていた。
やりきれない思いが胸の内を占めていたが、こうなってしまっては一刻も早く現状を把握するより他に手はないだろう。
走りながら、追ってきたトマスにその旨を伝える。
「おい落ち着け。子牛の餌に薬を混ぜたのは昨晩だ。今から焦っても遅い」
「うるさい。どうしてお前がこんなことをしたのかは知らんが、あそこの農場には世話係のギグスじいさんもいる。人の命が掛かってるかもしれないんだ!」
「まあ、それはそうだが、それは今に始まったことじゃないし……第一、家畜に薬を一つやって村を壊滅できる毒薬なんて考えられん」
「片田舎の薬師の言うことなんて当てに出来るか。それに相手は魔術師だぞ。疫病を作り出す毒薬だって作れるかもしれないじゃないか!」
動物や人の死体などの不浄の物から悪霊が憑り付き、疫病を発生させ、それが村はおろか大きな町さえも壊滅させることは広く知られていた。魔術師ならばあるいはその悪霊と手を結ぶことも可能で無いとは言えなかった。
「まあ、それはそうかもしれないが……そんなことが出来るならそもそも俺たちに勝ち目なんて──」
後ろから聞こえてくる言い訳じみた声を聞きながら、疲労によってうまく回らない頭と足に鞭を打って走る。この後起こりうる最悪の事態にも具体的な対策が必要だったが上手く考えをまとめることは出来なかった。
「よし……ここまでは、特に、異常はないな」
私は上がってしまった息と心を落ち着かせるためにそういって立ち止まり、周りを見渡す。
私たちは言い合いをするうちに、農場がある外壁近くまでたどり着いていた。目的地である農場は、塀に遮られて姿を見ることができない。
この村の農場は塀の外に、山間であるこの土地のわずかな平地を占領するように造られていた。もちろん農場自体も塀で囲う方が安全性が高く、野生生物の妨害も受けづらいため、そうするのが理想ではあったが、少人数で常に人手不足である我々には農場を丸々塀で囲う余力は残されていなかった。
私たちは農場にある厩舎に向かう前に、村と農場を隔てる塀の内側をまず異変が無いか見渡した。私にとっては問題の厩舎より、むしろこの場所こそが憂慮すべき場所であった。
塀にはしっかりと閉じられた作物の搬入用の門があり、その隣にはギグスじいさんの暮らす、こじんまりとした木製の小屋が建てられていた。
この木製の小屋は元々は門を監視する守衛のための駐屯小屋として建設されたものだったが、変わり者のギグスじいさんは、この駐屯小屋を母屋として暮らしていた。理由は彼が愛してやまない家畜のためである。
当然のことながら家畜は、我々の生活に無くてはならない存在でありながらも、その管理にはあらゆる苦労が伴う。わかりやすいところで言えば臭いである。彼らが生活する上で発する生活臭は普通に暮らす住民にとっては耐え難いものであり、通常の生活では隔離されているべきものであった。
しかしながら、ギグスじいさんはそれを許容しなかった。もっと正確に言えば、彼は家畜と共に塀の外で暮らすと言って聞かなかった。
確かに先の襲撃では、彼と彼の家畜の居住区は村の中心地から離れていたために難を逃れたのだが、それは敵の侵入ルートとは真逆の位置に存在していたからである。もし位置関係が逆でそれらが単独で襲撃されていたらひとたまりもなかっただろう。
意見は対立したが、私としても家畜の世話を彼より上手くできる人は存在しないと思っていたし、何より彼自身の仕事に対する高い意識と、家畜への愛を無碍にはしたくなかった。
その結果生まれたが、この小麦畑に隣接する塀一帯の、倉庫および十分なスペースを有する搬入口である。
それは村の規模に対して、通常より少々大きめに作られており、村のすべての食糧および備品などは全てこのスペースを利用して保管されている。さらには大きくとったスペースのおかげで、収穫した小麦などに行う脱穀などの作業をまとめて行うことが出来るようになっており、結果的に狙った以上の成果が、良好な作業効率として表れていた。
また、それに伴って家畜小屋はギグスじいさんの要望通り、彼の暮らす予定である駐屯小屋に隣接して造られた。厩舎は、臭いなど様々な問題や効率面を考慮して、塀の外側に造られたが、駐屯小屋からは厩舎まで直通の裏口が作られており、ギグスじいさんはいつでも牛たちの様子を見に行くことが可能となっていた。
そして、当初不安視されていた臭いの問題についても──これはあとから分かったことだが──奇跡的に立地場所が村の居住区に対して風下に位置していたこともあり、さほど問題にはならなかった。
これらは非常に少数規模の我々の村だからこそ成立した事柄だったが、この村が作られて以来唯一といっていいほどの“良かった”といえる出来事だったために、これから起きるかもしれない“良くない”出来事がここから始まるかもしれないことを考えると、また憂鬱な気持ちにならざるを得なかった。
そんな気持ちを抱えながら、何か異変が無いか警戒しながら駐屯小屋に足を向ける。
幸いなことにこの一帯ではギグスじいさん以外は住んでおらず、他の村人はまだ誰もここを訪れていないようだった。
駐屯小屋の扉の前に立ち、気持ちを落ち着かせる。
ここには遠征用の装備や食糧も集められている。さらには自称旅人がやってきた方面とはちょうど反対方面に位置しているため、もし万が一の時にはここを出立の起点とする予定だった。
しかしながら、この結果次第では全ての準備が水泡に帰す──
小屋の薄っぺらい木のドアを叩く。
いつも通りの家畜の生物的な臭いがした。