4.3
私は一息つくためにしゃがんで桶の水を掬い、喉を潤した。もうすでに村を囲う、険しく連なる山脈からは日が覗き、新たな朝の訪れを知らせていた。
桶に浮かぶ自らの窶れた、無精ひげの生えた顔を見つめながら思案にふける。ひとまずは方針が決まったが、一番重要な交渉の内容についてはもう一つ思索する必要があった。
魔術師という種族は私たち人間と姿は似通っているが、残虐非道で人の心を持っていないとされている。彼らが非常に少数の勢力でありながら強大な帝国を築き上げているのには、魔術という不可思議な力の存在のみならず、そういった冷酷かつ狡智に長けた性格が富と権力を呼び、それらが強固な土台となっているからだった。
実際に相対した私には分かる。姿形が似ていても、根本的な何かが彼らとは違う。彼らの纏う魔力や人を人として見ていない冷酷無情な目つきには、同じ人間に感じる温かみや、優しさの香りといったものが一切感じられなかった。
「とにかく、相手が何を考えているかをこちらもまた考える必要がある」
人とは似て非なる悪魔のような者たちの行動を予測することは、ほぼ不可能に近いことに思われたが、何もせず考えることを放棄するよりはましだった。
「なぜ彼らはこんなちっぽけな村を一瞬で吹き飛ばせる力を有しているのにそれをしないのか。なぜ訪れた彼女は全裸でそして一人で現れたのか。なぜ子供を使って謎の薬を渡してきたのか」
私はとりあえず思いついた端から疑問を並べ立てた。トマスが答える。
「確かに意味が解らんな……まあでもすぐに攻撃をしてこないのは俺たちを警戒しているからじゃないのか?今回もエルフから力を授かっているんじゃないかって」
確かに普通に考えればそうだろう。いくら険しい山脈に囲まれているとはいえ帝国の武力ならある程度の妨害は強硬策で突破してきそうなものだが、いまだにそれに至ってないのは、まだその記憶が残っているからともいえるのかもしれない。
「ではなぜその方法が全裸で子供に助けを乞うというやり方なのか。彼らの立場と性格を鑑みれば我々人間とそのような接触の仕方をするようには思えない」
魔術師はトーラス帝国という国を築き上げたとき我々下等な人間と神の恵みを受けた魔術師とを区別するための階級制度をシステムに組み込んだ。
最上位にトラスメギストス。真の魔術師にしてこの世のすべての神々の頂点に君臨する最高神の直系であるとする者たち。
その次にメギストス。神々から力を与えられ、すべての民を統括する権利と力を有する者たち。
その次にエクエス。神々から力を与えられなかったが、メギストスから下々の民を支配する権利を譲渡された者たち。その下に市民階級、奴隷と続く。
実務的な行政や外交、軍の指揮などは主にエクエスが行っており、メギストス以上の位の者が人前に現れることは滅多にないと言われていた。彼らが現れるのは帝国民に神の託宣を告げるときと敵対した者への破壊と終焉を告げるときのみである。
「じゃあ、あの時のエルフみたいに魔術師の力を何らかの方法で手下に譲渡したんじゃないか?」
村を追われたあの日、私たちはエルフから力を譲渡され辛くも一人の魔術師を撃退することに成功していた。
「いやそれは考えづらい。彼らは我々人間を支配する根拠として神々から与えられた力そのものを根拠としている。つまり我々だけに神は支配する力を与えたのだから我々が人間種他の種族を支配している現状は神の意志でもある、ということだ。事実これまでの歴史上彼らが力を譲渡し、戦争などを行わせたことは一度もない。これが建前である可能性はあるが、エルフであっても力の譲渡はかなり渋っていた。実際に何らかの制約があると考えてもいいかもしれない」
「うーん……まあそうか。そうじゃなきゃエルフが俺たちを見殺しにしたってことになっちまうからな」
トマスは少し含みのある言い方をした。
正直なところ私も同じような猜疑心は抱えていた。なぜならあの時力を譲渡され我々が村に戻る頃にはすべてが終わりを迎えていたからだ。村のあらゆるものは破壊され燃えつくされ、ほとんどの住民は虐殺され、蹂躙されていた。
「それも……考えづらい。彼らにとって我々は外の世界と接するための唯一の玄関口だ。エルフが我々を滅ぼそうとする利は無いはずだ──」
それを口にしながら私も、もう一つの可能性、つまりエルフが敵対する帝国との唯一の接点となりうる我々の村を滅ぼすことによって、禁断の森という防護壁を完全なものにしたのではないかという疑念もぬぐうことは出来ていなかった。しかし……
「たとえそうだとしても、我々は一度選んだものに縋って生きていかなければならない」
実際に現在もそのエルフの庇護の元、我々が存続していることを考えると、私はあらゆる疑念を捨て、その台詞を口にするしかなかった。私たちの立場はそれほどまでに弱弱しいものだった。
「それに、もし力を譲渡されただけの、ただの人間であるならば、村を丸々一つ制圧できる力を与えられているとは考えづらい。時間制限もあるだろう。うまく出し抜けば生き残る目はある。それよりも最悪の状況、つまり魔術師が本物である可能性をまず一番に考えるべきだろう」
「常に最悪の状況を想定する……か」
「ああ、そうだ。それが必ずしも正解となるわけではないが、その想定に費やした時間や経験が、それが現実となったとき、本来は与えられていないはずの道が救いの道となって我々に与えられるんだ。」
たとえ直視しがたい現実であっても、立ち向かわなければならない時がある。村を囲う塀も、山への逃走経路や山越えを想定した装備や備蓄食料はそれを見込んだ投資でもあった。
「それと、やはり薬の正体についてはもう一考する余地がある。もしも我々の村に致命的な損害を加えるほどのものであれば、逆に利用することによって窮地を脱することが出来るかもしれない」
狡猾な魔術師がそれくらいのことを想定せずに渡してくるとは思えなかったが、強力な力であればあるほどイレギュラーは自ずと発生してしまうものである。
「ああ、やっぱり先に話しておくべきだったな……まあ驚かず聞いてくれ。──薬はもう無い」
「は?」
私は目の前の男がおもむろに発した言葉の意味をあまり上手く理解できずにいた。
しばし口を開けたまま呆然としていたが、しかしながらその言葉の意味は二通りしかない。破棄したかそれとも
「……つまり」
「ああ、そうだ。魔術師の言う通り子牛に与えた」




