4.2
「ああ、もし本当に魔術師であるならば、分の悪い賭けにはなるが、有志を募り、戦える者を集め、魔術師を足止めし、南のスナイ山脈にそれ以外の村人を避難させる」
私は出来るだけ感情を表に出さずに、その作戦とも言えぬ絶望的な策を淡々と述べた。
帝国に追われ、エルフの庇護の元辿り着いたこの地は険しい山脈に囲われた鳥かごのような場所だった。この檻は入り口が守られている限り安全であったが、その守りが無くなれば我々は袋の鼠である。女子供が混じる集団がスナイ山脈その他が連なる険しく高い山々を越え無事生存できる可能性はほぼ無いに等しかったし、そもそもこの非力な戦力で強大な力を持つだろう魔術師をどれほど足止めできるか分からなかったが、我々にはそれに縋る以外に他に方法はなかった。
「昨日も言ったがお前はここに残らず他の村人たちと一緒に逃げるんだ。印の事もあるが、この先村のみんなや息子を託せるのはお前しかいない」
私は昨日と同じ言葉を繰り返した。今目の前にいる男はその時頑として首を縦に振らなかった。
私の言葉を受けたトマスはおもむろに背を向け、腕を組んだ。背を向けた彼がどんな顔をしているのかはなんとなく分かる気がした。
一拍置いた後彼が口を開く。
「いや、先なんて無い。お前だってわかるだろ、なぜ俺らがこの十二年間安全に暮らせたと思う?禁域の森と険しい山々のおかげだろう?帝国ですら手を出せなかったものにエレナやロビンが耐えられるわけないだろ」
トマスの意見は変わらなかった。背を向けた彼の表情は見えない。
「だったらどうしろというんだ、帝国に降伏しろっていうのか?それともあの魔術師に力を合わせて立ち向かえというのか?」
昨晩から続く帝国への怒りと焦燥感からくる苛立ちが、またしても身の内を焦がす。抑えていたつもりだったが、耳に帰ってきた私の声からは苛立ちが隠しきれていなかった。
「落ち着けイオ、たとえ何百と訓練された兵士がいたとしても奴らに勝てるわけないだろ──まずはあの魔術師と交渉するんだ。奴らの目的はたぶんの俺の背中にある印だ。もうすでに禁域の森が攻略されている可能性はあるが、それならわざわざ危険を冒してこんな辺鄙な場所に来る必要が無い」
私の精神は限界に達していた。
「お前はエルフを裏切って帝国に肩入れしろというのか……?帝国が我々の村に──アイリスに何をしたか憶えていないのか!今度だって奴らは必ず全てを奪っていく。たとえ奴らの犬に成り下がって生き残っても、待っているのは死よりも過酷な未来だけだ!」
脳裏にあの何も映していない無感情の瞳が思い浮かぶ。
「ああ、たぶんそうなるだろうな。でもお前だって分かってるだろ?さっきの計画じゃほとんど自殺行為だ。山は過酷で生き残れたとしても数人だろうし、足止めに向かった者たちも戦闘になれば奴らは容赦はしないだろう……少なくともこの計画の立案者であり、村の指導者でもあるお前は」トマスはこちらを振り向いて一瞥した「必ず殺される──捕まって拷問を受けた後にな」
覚悟は出来ていたはずなのに改めてその事実を他人の口から聞かされると、足が竦み上がるような恐怖を覚える。
記憶にある、焼かれた村に放置された死体の顔に自分の物が重なる。それは恐怖と苦痛によって歪んでいた。
「──そうだ俺は殺される」死体の顔がだんだん変化して別の物になる。それは愛する息子のものだった。「でも俺は逃げるわけにはいかない。この命を捨てることなどたやすい」
「だから落ち着けイオ──」トマスはこちらに近づいてきて私の肩に手を置き両眼を覗き込んだ「お前一つとその他数人の命で村が助かるわけないだろ──」
彼の両眼が私を捕え、心を揺さぶる。
「──お前が死にたがってるのはわかる」私は目を伏せた「償いのつもりだろ。俺だってアイリスがあんなんになっても、自分たちがのうのうと暮らしていける事に罪の意識を感じる。カレンだってそうだ」
カレンの名を出したときトマスは本当に悲しそうな顔をしていた。
「だけどな、俺は生きていて欲しい。アイリスだってそのアイリスが繋いだ命だって、俺は生きていて、生まれてきて良かったと思っている。ロビンが生まれてきたときお前がそう言ったんだろ?生きていることに無限の可能性と価値がある。たとえこの先辛いことだらけだろうと、生きていて欲しいと思っちまうんだ」
トマスは今にも泣きそうな顔になっていた。この時私ははっとした。この男にもエレナという娘がいる。もし帝国に降伏することがあれば、女の子であるエレナは、殺されることが無くても、碌な未来は待っていないだろう。将来娘から、どうしてあの時殺してくれなかったのか、と詰られるかもしれない。それでもこの男は生きて欲しいと願ったのだ。そして──
「──お前自身はどうなる。交渉材料はお前だ。もし交渉が上手くいってもお前は家族の元へは帰れないかもしれない。命の保証だって無い」
トマスの顔はもう血の気が引いて蒼白になっていた。私も同じ顔をしているだろう。
「俺は──大丈夫だ。奴らの技術力なら印の継承が血縁内でしか行えないことが事実であるとすぐ理解するだろう。俺は死なない──ああ、分かってる。たぶん死ぬより恐ろしいことが待ってる──でも、俺は死ぬわけにはいかない。それに、お前だってそうだろ?生きていて欲しいと思う人がいる。そのためなら何を犠牲にしたって構わない」
そう青白い顔で語る男の顔をまじまじと見つめながら、私も息子の妻の面影を残す顔だちを思い出す。私も生きていて欲しいと思った……何を犠牲にしても
力を抜くと、何かを吐き出すようなはあ、という長い溜息が出た。自分の肩を掴んでいたトマスの腕をどかす。
「トマス、お前の言いたいことはわかった。確かにその方が生存率は高い。だがお前も知っての通り帝国軍は残虐非道極まりない集団だ。問答無用で皆殺しに合う可能性もある。なんせ我々は魔術師に一度歯向かったことのある連中だ。奴らは歯向かった者には慈悲もなく、その土地が更地になるまで焼き尽くすと聞く。だから何はともあれ時間稼ぎだ。どちらにしても最悪の事態に備えて準備をしておく必要がある」
「ああ、それでいい──ふん、ようやくまともに話が出来るようになった」
トマスはそういって、私から離れた。
「ああ、すまなかった──とはいえ、結局やることは変わらん」
そうなのだ。帝国への憎しみで視野が狭くなっていたが、力で抑えるだけが時間稼ぎではない。いざとなれば、交渉で嘘偽りを並べて遅延を図ったり、地べたを這いずって魔術師の靴を舐めて命乞いをしたりして、時間を稼ぐことは可能である。
「まずは相手の要望通り狩猟小屋に連れて行こう。ここから狩猟小屋までそれなりに距離がある。交渉が決裂したときに備えて、その間に等間隔に人を配置して狩猟小屋から狼煙で合図を送れるようにする。それと当然だがお前にも狩猟小屋には来てもらう。交渉にはお前が必要だ。お前には交渉材料としての役割の他に窓際に立って外への合図役としてついてきてもらう」
「あい、わかったよ。ここまで自分が必要とされてるのに気が進まないのは初めてだ」
トマスはそういって、片手をあげながら私の指示に同意した。




