4.1
4.
ある日の夕方、うちの息子が大型の野良犬を拾ってきた。
それは野良犬にしては、あまりにも美しく、純白で、そしてとびきり危険に見えた。
窓辺でようやく空が白み始めた外の風景を椅子に座りながら眺めている妻を見る。とうとうこの時が来てしまったのか。熱せられた鉄の様な怒りと憎しみ、反対に指の関節を一つ一つ切り落とされていくかの様な体の芯まで凍えるような恐怖。またしてもこの不条理な世界は私たちに代償を払わせようとしているのだろうか。
あれから一晩がたった。
息子が言うには、彼女は旅人で、水浴び中に衣服を盗まれ途方に暮れていたので手助けをしたということだった。彼女にはトマスの服を渡したらしい。彼の妻であるカレンの服では間に合わなかったのだろうか、その旅人は女性にも関わらず少なくとも一般男性ほどの背丈があるようだった。
一晩中苛んだ憎悪や恐怖を抑え込み、努めて冷静な思考になるよう、深く息を吸ってしばし瞑想を行った。頭の中の雑念が一つ一つ消えて行って、空になるような感覚を得る。これは私の父から常に正しい判断をできるよう、教えてもらった方法だった。強すぎる感情が冷静な判断を阻害することは、身を染みて理解していた。
一晩旅人には村の入り口近くの森で野宿してもらうことにした。もちろん監視付きでだ。彼女の言い分をそのまま信じるお人好しは、まだ幼い子供二人を除いてこの村には一人もいないだろう。
昨日、真面目な顔で自称旅人について説明し、子牛の命を助けられるかもしれないと旅人からもらったという何やら怪しげな包みを持って語っていた息子を思い出す。エレナはともかくロビンは年の割には賢く、もう少し冷静な判断が出来る子だと思っていたが、やはり親の贔屓目で買いかぶりすぎだったのか。若干の落胆はあるものの、二人がこうして無事家まで帰ってこれたことは、僥倖以外の何ものでもなかった。まあ、村を襲ったあの悲劇を知らない二人であれば昨晩の行動は無理もないことだったのかもしれない。
──家が焼ける煙に混じった、肉が焼けるような臭いとすえた男のものの臭い。娘が殺され、自らも凌辱されて生きる気力を失った、何も映していない、死んだ魚の様な妻の瞳。煙と熱と自らの慟哭によって焼かれた、燃えるような喉の痛み──
余計なことをして過去の忌まわしい記憶がフラッシュバックしてしまった。胃から酸が上がってくるのを感じる。むかむかとする胸元とせりあがってくる胃酸を抑えながら、何か助けを求めるように窓辺の妻を見る。美しく整った横顔は能面のように無表情で目には相変わらずこちらの世界のことは何一つ映していなかった。苦しさから目を閉じると、瞼の裏に在りし日の故郷の姿が浮かぶ。なだらかな平原を埋め尽くす辺り一面の黄金色の小麦畑、質素だけど丁寧に積み上げられた煉瓦造りの家々と教会、豊かな自然と暖かな木漏れ日。それらは全て炎に焼かれ消えていった。もう二度とあの永遠の愛を誓い合った静かな森の大樹と、満開のサギュリティアの花の様な彼女の笑顔は帰ってはこない。
血のつながっていない息子の、妻の面影を残した聡明そうな目元と瞳の色を思い出す。抵抗した腹いせとして激しく加えられた暴力によって失ってしまった瞳の色とは裏腹に、醜い欲望によって落とされた胤が、日を追うごとに妻の腹をどんどん膨らませていく様を見て、私は最初絶望的な気分になっていた。しかし、赤子が生まれてきて、その産声を聞き、それから無表情ながらも額に玉のような汗をかいて懸命に赤子を産み落とし、こんな状態になっても生き延びてくれた妻の顔を見て、私はこの子を命に代えても守り、できる限りの愛を持って育てることを神に誓った。
視界がクリアになり、吐き気が収まっていくのを感じる。何度も辿ったルートだった。抜け殻になった妻とその忘れ形見である息子の存在が私を生かしていた。
木を張り合わせただけの粗末な扉を開けて外に出る。小さな村だった。少し高い斜面に位置する私の家からは他とそれほど高度の違いが無いのにも関わらず村全体が見渡せた。比較的なだらかな、山と山の間の少し開けた谷間を縫うようにして建てられた村は牧歌的な風景とは裏腹にやや大仰な、太い丸太を埋め込んで並べた塀で取り囲まれていた。また村の出入り口にある門にも、立ち並ぶ粗末な家々には不釣り合いな、立派な木で出来た櫓が建てられていて、その歪さが却って過去の傷跡をかさぶたのように浮き上がらせていた。帝国の無慈悲な略奪によって土地を追われ、再びの襲撃を恐れる我々にとってこれらの建築は気休めながらも精神の安定を図る上で重要な役割を負っていた。
水を汲みに行くために桶を持って、村の中心にある井戸に向かう。井戸に向かう道すがら、高い熱量で造られた塀や櫓と違って、いかにも急ごしらえといった出で立ちで立ち並ぶ家々を眺める。質の悪い土と未熟な知識でつくられた煉瓦で積み上げられた家はいかにも貧乏くさく、そろそろ夏になろうかという季節であるのに関わらず、寒々しい雰囲気を醸し出していた。そろそろこの場所に落ち着いて十数年経つのにも関わらず、私を含めて誰もここを第二の故郷とは思えないでいた。
睡眠不足と過去の記憶によって消耗した体を引きずってようやく井戸に辿り着き、投げ捨てるようにして鶴瓶を落とした。とにかく喉を潤し、顔を洗いたかった。滑車を引き、水を汲み上げる。しかし、汲み上げる途中で手に力が入らず縄が手から滑り落ちてしまう。
「おっと、危ねえ。──おいおいしっかりしてくれよ。この村の存亡はお前に掛かってるんだぜ」
最悪の結果に悪態をつく前にそれを引き留めたのは、小麦色に日焼けした逞しい右腕だった。
「ああ、トマス……すまない」
「ああ、はいはい、おはようさん。相変わらず辛気臭え顔してんな」
「そりゃあ、お前のように能天気にはなれないよ。……おはよう」
といつものように軽口をたたきながら、この、私より背も体格も一回りは大きい小麦色の男と朝の挨拶を交わす。緊迫したこんな日なのにいつものように挨拶を交わせるところを見ると、やはり図体以外の器も私より一回り大きいようだった。
引き上げた桶から自らの桶へと水を移し、水を掬って喉を潤し、顔を洗った。陰鬱に沈みきった心がほんの少し浮上するのを感じる。この成果は水で体が満たされたのからなのか、それともこの男がもたらしたものなのか。どちらとも言えなかったが、彼のこのやり方で何度も私の心が救われてきているのは事実だった。
少し調子を取り戻したところで、本題に入ることにした。井戸端で鉢合わせたのは偶然だったが、元から彼とは話し合わなければならないことがあった。
「昨日渡した薬、どうだ、何か分かったことがあるか」
彼はこんな形をしているが、薬師の家系だった。正確には祭事に使う薬草類を取り扱う役職で薬師とは違うのだが、彼の祖父、父ともにあらゆる薬草の知識を収集しており、時には医者の真似事のようなことも行っていた。しかし、先の襲撃でそのほとんどの知識を失い、ただ一人生き残った彼も家業の適性が無く、また彼の性向もそれ向きではなかったため、知識の継承はほとんどされていなかった。
「ああ──まあ──正直に言うと何も分からなかった」
とトマスは目を伏せ言いにくそうにその事実を伝えた。まあ予想通りだった。彼は性分から勉学やその類のことが苦手でよく父親の講義を抜け出してカレンの家の農作業を手伝ったり、私を連れ出して村の外へ冒険に出かけたりしていた。彼がそのことを死ぬほど後悔していることを私は知っている。
「まあ仕方がない。薬の正体が何であれ、禁域の森を単独で抜けてきている時点で尋常ならざる身分であることは間違いない」
そしてその正体は十中八九帝国の魔術師だろう。魔術師とはその名の通り、不可思議で強大な魔術を扱う者たちのことである。その魔術は千の軍勢を薙ぎ払い、時にその怒りは空から雷を降らせ大地をも砕くともいわれている。彼らはその神のごとき力を使って大帝国を築き約千年にも渡ってこの大陸の大部分を支配していた。
「やっぱそうか、ついにこの時が来たかって感じだな」
トマスは努めて明るくしようとしてはいたが、この考えうる限り最悪の事態に流石に声の響きは沈鬱としていた。