3.2
木の陰から出て振り返ると、私が持ってきた衣服に着替えた“彼”が音もなく佇んでいた。
どうやら話し込みすぎたらしい。思えば衣擦れの音が無くなってしばらくたっていた気がする。一体どこからどこまで聞かれていたのだろうか。
「どうやら私は村には入れてはもらえないようですね」
私たちの動揺を一通り見届けてから、そう確認した。
「そうですね……残念ながら」
一足早く立ち直ったロビンが歯切れ悪くそう答えた。
確かにロビンの言う通りどれだけ私たちを騙し、懐柔しようとも所詮子供の言うことである。素性の知れない旅人の命と村の存亡を天秤に掛ければ当然後者に傾くだろう。少なくともロビンのお父さんはそういう人だった。
「そうですか……実は私は旅人なのですが行く当てがないんです。こんな目にも合ってしまいましたし、そろそろ落ち着けるところがあればと思っていたのですが……」
旅人というのはたぶん嘘だったし、少々白々しく聞こえる彼の台詞は社交辞令な感もあったが、もしかしたら彼が村に残ってくれるかもしれないというほんの少しの淡い希望に私の胸は高まらずにはいられなかった。
「村に入るのは恐らく無理ですが数日でしたら、何とかなるかもしれません。ここからさほど離れていないところに今は使わていない狩猟小屋があるんです」
ロビンは先ほど私たちが木陰で話していた話題を彼に切り出した。
「なるほど、ではあなたたちの村に医者はいますか」
「えっ?──いや、いませんけど──」
「あのっもしかしてどこか体が悪いんですか?」
思わず口を出してしまった。この時私の心を支配していたのは不安だった。彼の輝かしくも、燃え尽き、すぐにでも消えてなくなってしまいそうな雰囲気に、私はなぜか焦燥感に駆り立てられていた。
「いえ、そうではありません──ごめんなさい誤解をさせてしまって」
突然口を出してきた私に彼は微笑みながらそう答えた。
「はい……」
私は一転して無性に恥ずかしくなってしまった。そのまま頷くついでに顔をさげてしまう。
彼は言葉を続けた。
「私は医者ではありませんが多少なら薬学の知識があります。それが証明されれば村のはずれに滞在することぐらいの許可は出るかもしれません」
私はロビンの顔を盗み見た。確かにそれなら何とかなるかもしれない。
私たちの村には医者はいないが、経験則上効いているだろうと思われる痛み止めの薬やそういった類の民間医療的な薬をある程度作れる薬師や、子供を取り上げる産婆はいた。しかしながら閉鎖したこの村では知識や材料、人出も不足していて限界があり、そのため病気にかかった老人や子供は助からず、重篤な症状となってしまったり、最悪命を落としてしまうこともままあった。最近でも生まれたばかりの赤ん坊が母親の名前も呼ぶことなくその儚い命を天へと還してしまったばかりで、ただでさえ少人数な私たちの村ではこれらの問題は喫緊の課題となっていた。
──だけど
「なるほど、それなら何とかなるかもしれません。でもそれをどうやって証明するんでしょう。こう言っては何ですが見ず知らずの旅人からもらった怪しい薬を飲む人はいませんよ。それに幸いなことにうちの村では今は病気に罹っている人はいないはずです」
ロビンが複雑そうな顔でそういった。
確かに病気に罹っている人がいないのは幸運なことだ。せっかくの提案だったが薬の効果を証明するために病気を望むのは言語道断であり、たとえそれがこの先多くの人の命を救う方法だったとしても人の行いとして何か決定的な間違いがある気がした。
「では家畜……例えば子牛なんかが風邪に掛かってたりしないでしょうか」
「ああ、そういえば農場の子牛がまた駄目になりそうで困ってるって言ってた気がする……」
ロビンが独りごちりながら何か思い出す様に目線を上に向けた。
私たちの村では牛を貴重な労働力として重宝していたが、この過酷な世界で産み落とされるのを神も哀れんだのだろうか、やはり人間と同じく子牛の命は儚いものだった。
「私は人の方を良く診てましたが、人と共にある家畜、例えば牛や馬なんかもこの長い旅の中診てきました。なので少しは役に立てるかもしれません。ここに少量ですがその為の薬もあります。」
彼は医者ではないと言っていたがこの口ぶりからはなかなか経験があるようだった。それにどこから取り出したのやら、手に柔らかい葉と蔓でくるんだちょうど薬が入っていそうな清潔な包みを持っていた。
「そ、そうですか……本当にその薬で何とかなるならいいですけど……」
ロビンは正直半信半疑のようだった。私も牛の風邪薬など初耳だし、さっきまで着る服もなかったのにそんな用途が限られるような薬を持っていることも謎だった。
一旦は受け入れる覚悟であったロビンもここにきて迷いを抱いているようだった。薬についてもそうだが何よりこの村にとっては訪問者が有能であればあるほど警戒を強めなくてはいけない事情があった。薬について悩んでいる振りをして旅人の正体を見破ろうと目を眇めてちらちらと盗み見ている。
私にしても確かにこの旅人からは異様な気配と底が知れない薄気味悪さのようなものを感じていた。そして彼を受け入れてしまったら、何か良くないことが起こってしまいそうな直観も働いていた。しかし私は思い出す、間近でみた彼の躰、手足、顔、そして無表情だけど精巧で美しくどこか儚げにもみえる表情──
「その薬、効くかわかりませんけど、助けられるかもしれない命があるのならやってみた方がいいと思います……それに……それに私はあなたに村に残って欲しい……!と思っています……あの、その……行く宛てが無いのなら」
前半は建前で後半は本心だった。本心はあまり言うつもりがなかったけど、口をついて出てしまっていた。私はあまり隠し事をするのが得意ではなかった。
隣を見てみるとロビンが驚いたような焦ったような表情をしていた。
普段私は自分の意見を言うことが滅多にない。特にこういった会議の様な場では、いつもロビンの言うことに首を縦に振ってうんと頷くだけで、一言も言葉を発した記憶がなかった。
「ええ──そうですね。私も──あなたたちの様な心優しい人が居るところであれば是非とも留まりたいと思っています──」
私の唐突な発言に彼も面食らったのか、若干言葉を詰まらせながら答えを返した。そしておもむろに先ほどの薬のつつみを手のひらに乗せて眺めながらこう続けた。
「それにあなたの言う通り、この薬が効くかどうかは正直保証出来ません。なぜなら、実はこの薬は別に家畜用というわけではないからです──ごめんなさい。私の手持ちではこれしかなかったんです──でも一応理論上は効きはするはずです。風邪というのは人も家畜も自分の体の中の精霊が元気をなくして、外から入ってくる悪い精霊を追い払えずに起こってしまう病気なんです。これはその元気をなくしてしまった精霊に必要な栄養素を与えて元気になってもらうための物なんです。もちろん人と牛ではその栄養素は違いますが、人と牛は同じ哺乳類なのでまるっきり違うこともありませんし、この世界の魔力は柔軟性に富んだものなのである程度は体内で変換し、栄養素とすることができるはずです」
彼の説明は私にもわかるところとわからないところがあったけど、何はともあれ村に留まることに積極的になってくれたようなので、薬についてはあまり気にしないことにした。
それを聞いたロビンが口を開く。
「ええ、あなたの薬が効く可能性があることはなんとなくはわかりました」
そうは言っているが言葉の様子から見て、どうやらロビンも彼の説明はよく理解できなかったようだ──幼馴染の私にはなんとなくわかることだった。
「そしてあなたがなんとなく」ちらりとロビンは私の方を見た「悪い人では無いのだろうなということも」
意外なことに先ほどまであんなに怪しんでたロビンも懐柔される気になったようだった。
一拍間が開いた。
「ふふ……あなたたちはお互いをとても信頼しているんですね」
彼が完璧に整った顔を少し崩して、私たちに微笑みかけながらそういった。私はその言葉に少し気恥ずかしくなりながら、顔を俯け、控えめに頷いた。
事実──ロビンが私のことをどう思っているかはともかく──私はロビンのことを全面的に信頼していた。もちろんロビンの言うことは基本的に正しくて、従っていれば悪いことは起こらないだろうなあという下心はあるものの、ロビンにだって失敗はあるし、それで上手くいかないことだってあった。でもその失敗をただ付いて行っている私が責める筋合いもないし、その気もなかった。ただ、ロビンの選択はなんとなくいつも正しいと思うし、たとえそれが正しくなくて、自分に災害が降りかかったとしても、私にはあまり後悔はなかった。どうしてそう思うのかは私にもよくわからない。
「ええ、そうですねエレナは俺が最も信用する人です」
ロビンは恥ずかしさをおくびにも出さずにそういった。──本当にそう思っているのだろうか。先ほどは信頼しているといったのに私にはロビンの本心はわからなかった。──いや信頼しているからこそ、私にはわからなかったのかもしれない。
「なのであなたを信頼して、その薬を子牛に飲ませることを約束します。
そしてあなたのことをこの村の代表であり、私の父でもあるイオリア・レーヴェンに話し、村に滞在できるよう説得することも約束しましょう」なぜかロビンの口調は平淡で事務的だった「しかしこれがあなたの利益になるかどうかは保証できません。恐らく村にも入れないし、村のはずれにさえ滞在出来るかどうかもわかりません。それでもいいですか」
「ええ、それで結構です」自称旅人が答えた。
「ではあなたの名前を教えてください。ちなみに私の名前はロビン・レーヴェン」ロビンが私の方を向いた。
「え、えと、エレナ・マーギュリスです」私はどもりながらも自分の名を伝えることに成功した。
「──名前──名前ですか……」旅人は儚げな表情をしていた「私に──名前はありません。あなたたちがつけてくれませんか?」
やはり名前は故あって言えないのだろうか。ただでさえ怪しまれて、身の上が危ういのに偽名さえ使おうとしないのは誠意の表れとみていいのだろうか。私は答えを乞うようにロビンをみた。
「では私とエレナで仮の名前をつけましょう」
ロビンは端から見る分には動揺したり、訝しんでいる素振りは見えなかった。
「エレナ──何か案はあるか」ロビンが私の方を向いて言った。
「え、──ええと……」私は彼の躰を思い出していた。「しろ……」
「……それは人の名前につけるには失礼じゃないか」
「わぁ!!ごめんなさい!違うんです!……そんなつもりじゃ──」
確かにロビンの言う通りだった。口をついて出た言葉だったけど、これじゃあ山羊か羊の名前だ。
「ふふ……いえ、いいんです」彼は控えめながらも今日一番の笑顔を見せていた「昔、同じような意味合いの言葉で呼ばれていた時期がありました」
彼は在りし日を懐かしむようにそういった。声の調子からしてどうやら明るい記憶のようだった。
「でも、一つだけ言わせてください。私を白と呼ぶのは間違っています。私はそんなに潔白ではない」その声色には若干の頑なさがあった。「それにほら、見てください」
彼は少し屈んで自分の目元を指さした。
「灰色でしょう?これが私なんです。白の中に濁った灰色。」
彼は少し自虐的にそういった。私はその少女然とした動作にまたしても心を奪われかけたけど、その言葉の意味を考えて少し釈然としない気分になった。
「でも私、その色全然綺麗だと思うけどなあ──」
またしても口をついて言葉が出てしまった。
──しばしの空白。
「ははっ、なんか今日のエレナおかしいぞ」
ロビンがここにきてやっと少年らしい笑顔を見せた。
「まあ俺もその目綺麗だと思います。とっても」ロビンが彼の目を正面からとらえてちょっと気障っぽくいった。「だからそれにしましょう。灰色の目」
ロビンが近くにあった小枝を拾って。地面に彼の名を刻んでいく。もう日は傾き始めていた。
「──サギュリティ・ロフヤ・アイン……左から“濁った”“白”“目”──私たちの民族に古くから伝わる言葉です。今は使われていません。──このままでは発音しづらいので頭文字をとって“サロア”なんてどうでしょう」
「ええ──結構です」
“サロア”自身もその名に異存はないようだった。
「……サロア」
私は感慨深げにその名を反芻した。これが私が初めて彼の名を呼んだ瞬間であり、その名が私の一番大事なところに刻み付けられた瞬間でもあった。