4.7
彼女がもっと幼く、ようやく読み書きが出来るようになったころ。彼女は神童と呼ばれていた。そう、ロビンではなくエレナが。
今では信じられないが、エレナは当時どんな難しい論理の問題も、複雑な大人ですら間違える算術の問題も瞬時に答えを出すことが出来た。
ロビンも優秀ではあったが、エレナは次元が違っていた。恐らく彼女は元から答えを知っていたのだ。神が与えたギフト──そうとしか言えなかった。
しかし、ある時事件が起こった。
その日は安息日で、私たち家族とトマスの家族は、ともに私の家で休暇を過ごしていた。──トマスとカレンは私の妻であるアイリスの件でロビンに寂しい思いをさせないよう、出来る限り共にいようとしてくれていた──その中でエレナは唐突にこう言い始めたのである。
「どうしてロビンのお父さんはお父さんじゃないのにお父さんなの?」
端から見れば幼児特有の、意味不明な発言であるが、それは真実だった。
「ううん、ロビンのお父さんはこいつだよ。イオリア、イオリアおじちゃん」
焦ったトマスはエレナをなだめるようにそういった。だが──
「ううん違うよ。だってねロビンのお父さんはね──」
「エレナ!!」
トマスがものすごい剣幕でエレナに迫り、しかりつけるように声を張り上げた。
普段娘に対しては少々甘すぎるほど温厚な彼が、このように声を上げるのは初めてのことだったのだろう。しかし、彼は娘が言わんとしたその後の取り返しのつかない言葉と、娘の尋常ならざる力を直観的に予期し、それを無理やり止めた。
場が一瞬凍り付いた。
その場にいる誰もが、一瞬前の団欒がもう二度と帰ってこないことを理解していた。
耐え切れなくなったエレナが、ぎゃんぎゃんと声を上げて泣き出した。
取り乱して必死で娘をなだめるトマスと、複雑な顔をしながら同様に娘をあやすカレン、そんなトマスからエレナをかばうように寄り添うロビン、そしてそれを別の世界を眺めるように見る私──
絵画の一枚のようなそんな光景を見ながら、私の疑惑は確信に変わった。
彼女は全ての真実を見通しているのだと──
それからエレナは少しずつ変わっていった。
彼女は全ての真実を見通す能力を持っていたとしても、ただの一人の女の子だったのだろう。
まず、彼女は言葉を話さなくなった。
後日トマスは、悔いていた。彼はあの事件の後娘に、あのことは他の人にはしゃべらないように厳命した。
エレナはわからなかったのかもしれない。何が言っていいことか、何を言ってはいけないことか。それは全てを見通す彼女でもわからないことのようだった。
言葉を話さなくなったエレナをロビンは事あるごとついて回って助けた。
エレナもそれを受け入れているようで、見ているこちらとしては、その姿に欠けたものが元に戻る希望を抱かずにはいられなかった。
しばらくして、その希望が叶い、またエレナが口を利くようになった。
しかしながらその代償として、驚異的な演算能力や物事の真理を見通すあの底知れない雰囲気は失われていたようだった。そして、内気で滅多に自分の意見を言わない大人しい子に育っていった。
それに伴って、エレナはますますロビンに依存的になっていった。
最初はロビンがエレナについて回っていたのに、今では逆にどこに行くにもエレナがロビンについて回っていた。
それを私たちは歓迎するべきか、否かは答えは出ていなかったが、実の母であるカレンが言う通り「こっちの方が安心はする」という意見には同意だった。
「──消えてない」
しかしながらとある夜、実の父であるトマスはしかめ面でそう漏らした。やはり実の両親には分かるのだろう、カレンもそれに同意し、現在でもエレナが真実を言い当てる場面に遭遇するといっていたが、それと同時に、普通の女の子のように本当に知らないと思われることや、気の抜けたミスも多くあることから、以前より鳴りを潜めているのは間違いないようだった。しかし──
「ああ、だから俺は今回はあの娘の願いを叶えるべきだと思う。わからんがこいつを見てそう思ったよ」
木の板の隙間から漏れ出た太陽の光に反射した埃が、雪のように舞い散る牛小屋の中でトマスはそういった。彼は娘の能力と己の勘を信じるようだった。
トマスはもう一度子牛を頭を撫でた後に、また膝に食いつこうとするそれを引きはがして出口に向かった。
私にはわからなかった。
トマスは彼なりのやり方と手順、そして勘でそれを確かめ、決断を下し私に迷いを与えた。
それは破滅へと一直線に向かうこの村から娘を救うために彼が起こした謀だろう。そしてその第一段階は見事に成功していた。
──私は迷っていた。
彼はあえて、薬について多くを語らなかった。恐らく本当に未知の薬品なのだろう。
この先、この子牛がどのような結末を迎えるのかは、現状それを知り得るのはこの薬を渡してきた自称旅人のみである。
彼女は何者だろうか。
少なくとも魔術師かその手先、もしくはそれに近しい特別な力を持った存在であることには違いないだろう。そうでなければこの厳しい環境に囲まれたこの村に辿り着くことはできない──
ただひたすらに可能性だけがあった。
魔術師内部で分裂があった?そうであったとして、それは味方になり得るか?そもそもこの一連の出来事が私たちを苦しめる為だけに仕組まれた余興に過ぎないものである可能性は?やはり今からでも全てを捨てて、山に入り、新たな道を探した方が生存率が高いのでは?
私にはわからなかった。しかし決断は私が下すしかない。
「おう、じいさん……」
「──話は終わったかの」
部屋の外でトマスとギグスじいさんの声がした。どうやら時間を掛けすぎてしまったようだ。
ギグスじいさんはその後何も言わずに部屋に入ってくると、元気になった子牛に近づき、腰をかがめるとその額を愛おしそうに撫でた。
「じいさん……その……」
「トマス」
私は言い訳がましく声を上げたトマスの次の言葉を止めた。
「ふむ、元気になっておるな。さすがアサフの息子だわい」
「ああ」
トマスは絞り出すように返事をした。
「それとイオリア。他の牛たちは元気そうだったろ、お前に任せるぞ」
「ああ、任せてくれ」
じいさんはどこから話を聞いていたのだろうか。私の喉からはトマスと同じような声が出ていた。
「とりあえずわしは牛たちの飯と掃除をやるからの、一旦出て行ってくれ」
そういって、私たちは牛小屋から追い出された。
厩舎の扉の前でぽつねんと取り残された私たちは、どちらからともなく歩き出し、お互い無言のまま帰りの路についた。
両者ともその路を得も知れぬ罪の意識と、重くのしかかる責任を抱えながら歩いた。
もし、トマスとその娘の勘を信じるのであれば、訪問者は我々を破滅の未来から救う一筋の光であり、私たちはその光によって、子供たちの未来を紡ぐことが出来る。しかしそうでなければ、村は終焉を迎え、私はみすみす魔術師から逃れられる、本当に細い最後のチャンスをふいにし、あまつさえそれの手引きをした大犯罪人となる。
あまりにもリスクのある賭けだった。
厩舎からの道のりは、大きな重圧を抱えながら歩くには、長すぎる道のりではあったものの、私はその道が永遠に終わらぬようにと願わずにはいられなかった。




