第六章
「ん~・・・どうしよう・・・。」
豪華な客室の中のバスルームを眺めて、私は途方に暮れていた。
お昼の後少しだけ船を見て回り、ぼんやり海を眺めて過ごしていると、あっという間に日が落ちて夜になった。
ロディアに好きなタイミングでお風呂に入っていい、って言われたけど・・・ガラス張りなんだよね・・・。
脱衣所も洗面所もバスルームも同じ場所に固まっているそこは、広々とした部屋へのドアも仕切りもなく、角度によってはバスルームも丸見えだった。
でも・・・お風呂に入ります、ってロディアに一言いえば、わざわざこちらに来ることはないと思うけど・・・
そもそも今まで同じ屋根の下で過ごしていて一度もそういうことがなかったのだから、今更ここにきて妙な真似をする人ではないと思う。
というか・・・350年以上生きている高名な賢者様に、そういう疑いをかけること自体が失礼にあたるかもしれない。
けど・・・
私はチラリと部屋のソファで寛ぐ彼を覗いた。
男の人がいるのに無防備なのも・・・。
「・・・どうかしたか?」
パチっと目が合って彼はそう尋ねた。
「あ・・・いえ・・・あの・・・」
恥ずかしくなってもじもじしていると、ロディアは立ち上がって側へやってきた。
「トイレならそこだぞ?」
「へ・・・いえ!そうじゃなくて・・・あの・・・お風呂に入ろうかと・・・。」
「・・・?そうか、好きにするといい。」
そっとロディアを見上げたけど、ポーカーフェイスの中に何を期待されているのかわからない、というような表情が見えた気がした。
何も言えずにいると、彼はまた静かにソファへ戻った。
もう!まごまごしてても仕方ないや、入っちゃおう・・・。
さっとシャワーを済ませて体を洗い、お風呂に浸かって20秒程数えてから出た。
素早く体を拭き、寝巻として部屋に用意されていたそれに袖を通した。
これは・・・なんていう服なんだろう・・・。
ツルツルした素材のそれは外側の生地はツヤツヤとしていたけど、内側は何とも肌触りのいい優しい生地だ。
まるで丈の長いワンピースのようで、裾にはレースがあしらわれ、通気性もよく着心地が良かった。
部屋へ戻り、キッチンに入って水を一杯飲み、ほっと息をつく。
ロディアの姿が見当たらなかったのでベッドの方まで戻ると、大きな窓の向こう、バルコニーの椅子に腰を掛けた後ろ姿が見えた。
そっと近くに歩み寄ってみると、やはり彼は気配を感じ取れるようで、声をかける前に振り返った。
彼の白い肌に浮かぶ紫色の綺麗な瞳と、茶色い髪が揺れて、背景の夜空と溶け込んでいる。
「あ・・・あの・・・」
開けていいのかわからなかったので、その場で手をこまねいていると、彼はそっとガラス戸を開けてくれた。
「どうした?」
「いえ・・・何をしてらっしゃるのかなぁって思ったくらいで・・・。あの、落ち着いてる時間を邪魔してしまってたらすみません。」
「構わん。座るか?」
海風が心地よく頬をかすめて、靡いた髪の毛を耳にかけながらそっと腰かけた。
「じゃあ・・・失礼します。」
テーブルを挟んで座ると、ロディアは私に向きなおり、掌を出した。
何だろうと私が視線を向けると、彼の掌の上で空気が渦を巻いてそのうちキラキラと光を帯びながら、小さな水滴が浮かび出した。
私が驚いて目を奪われていると、ロディアはそっと渦巻くそれを持ち上げて、手元にあったグラスに沈めた。
いくつもの水滴が集まって注ぐようにそこに溜まっていと、静かになったグラスにロディアは仕上げとばかりにまた手をかざした。
すると集まった水からす~っと粉のようなものがさらさら浮かんで、彼はそれを海に返した。
残されたグラスには、綺麗に澄んだ透明の液体が入っていた。
「これは・・・?」
「水蒸気を集めて魔術でろ過して、最後に塩分を取り除いたんだ。つまり普通の水だな。飲んでみるか?」
さっき水を飲んだばかりだったけど、好奇心が勝って頷いた。
ゆっくりグラスを傾けて口をつけると、冷たくてスッキリ喉を通っていく。
「はぁ・・美味しいです。」
半分程飲んでグラスを見つめると、ロディアはそっとグラスを取った。
「そうか。粒子の分解、生成、ろ過はあまり得意ではないが・・・うん、確かにうまいな。」
彼は水を飲み干してそう言うと、手を止めて私をじっと見つめた。
「・・・え・・・何ですか?」
「いや・・・何でもない。」
ロディアはまた海に視線を戻して、私は彼の無くなってしまった後ろ髪を何となく眺めた。
スパっと切り落とされた髪の毛は、そこだけ真っすぐになっている。
私は聞きたいことを頭の中でいくつか思案しながら、どれにしようかと悩んでいた。
チラチラと彼の横顔を伺うと、その綺麗な紫色の瞳に思わず見入ってしまう。
そしてじーっと眺めているうちに、その瞳が私の方へ動いてびっくりするのだ。
「あ、あの・・・」
「ん?」
「ロディアは人の心を読めたりします?」
彼は質問の意図を測るように私を見つめ返した。
「いや・・・そういう魔術は使わないな。それより・・・アリス」
「え、はい」
「名前はそのまま呼んでくれるようになったのに、敬語で話すのか?」
「え・・・。あ・・・でも・・・だって、失礼ですよね・・・」
おずおずとそう言うと、彼は不思議そうに首を傾げる。
「それが失礼なら既に呼び捨てが失礼になるんじゃないか?まぁ俺はそうは思わないが。」
「・・・ロディアがそうしてほしいって言うなら・・・普通に話しま・・・話すけど。」
ロディアは満足気に口元を持ち上げた。
「そうしてくれ。その代わり・・・と言っては何だが・・・、アリスの頼み事も一つ聞いてやろう。」
「頼み事・・・」
彼の瞳を見つめ返してから、空になったグラスに視線を落とした。
「あの・・・おこがましいことになるんですけど・・・じゃなくて・・・なるけど・・・」
慣れない敬語からのため口に翻弄されながら、一つ大きく息をつき意を決して口にした。
「私の故郷が見つかって・・・家があったとしても・・・その、ロディアとあのおうちに引き続き住まわせてもらっても・・・いい?」
そっと視線をあげてロディアの表情を確認するも、彼は相変わらずの無表情だった。
「あ・・・の、もちろん自分に必要なものは働いて買うし、家賃を入れろっていうならもちろん支払うから・・・。それ以外にも何か手伝えることがあるなら何でも手伝うし、私に出来ることがあるなら何でも・・・」
「危ういな・・・」
「へ・・・?」
彼は海風に髪を揺らしながら、夜空の暗闇を瞳に落とし込んだ。
「覚えているか?服屋のエリーが言っていたことを・・・。国民に恐れられ、同時に崇拝されている俺は、裏では不当な人体実験を行っていると、噂を流されてもいるようだ。実際のところ、国家魔術師の中でも賄賂を受け取って闇事業に肩入れしたり、人体実験を行っていた者も少なからずいたようだ。権力を持った途端に悪事に手を染める者はどこにでもいるだろう。」
彼の瞳がまた私の視線と重なる。
「アリス・・・記憶を失くしているとはいえ、権力を持つ国の犬に対して、何でもする・・・などと口にするのは軽率だ。一般市民である以上、国の者に是非を問う権利がある。相手がどう答えるかもわからない時に、自分の権利を放棄してはならない。」
「・・・はい・・・。」
「・・・何故、家があったとしても帰りたくないんだ?」
特に変わらない声色に、慰められるでもなく責められているわけでもないとわかった。
「私・・・私は・・・家に居てはいけない気がするから・・・。ごめんなさい、上手く説明できない・・・。」
混乱する頭の中で、帰りたいという気持ちを表せるものがない。
けれども帰りたくないという気持ちを説明出来る程の記憶もなかった。
私が押し黙ると、ロディアはまた静かに言った。
「いいだろう、恐らくアリスの故郷だと思われる町は、港の近くにある。そこに行って手がかりがあれば、何かはっきりしてくることもあるはずだ。現状を鑑みてアリスが暮らしていくにあたって、あまりにも劣悪な環境だと判断した場合、国籍をアレンティアに移すことを検討しよう。」
彼はそう言って立ち上がった。
「あまり長く海風に当たると体が冷える。中に入るぞ。」
「はい・・・。」
同じく立ち上がって最後に見た地平線には、遠くの方で星が海に飲み込まれているように見えた。