第二十二章
それからしばらく、ノエルが目を覚ます様子はなかった。
窓の外は日が落ちて暗くなり、とても海岸に密猟者がいたと思えないいつもの静かな森のままだった。
「アリス、さっき話していた通り、一通り検査をさせてもらう。」
「あ、うん」
ノエルの隣で様子を伺っていたけど、ソファの上で毛布を掛けられたノエルは静かに眠っていた。
「あの・・・ロディア、ノエル大丈夫なのかな・・・」
体中に残った血の跡は、もう固まってしまって綺麗な毛並みにこびりつき、頭をそっと撫でてもあの時の柔らかな感触ではない。
「問題ない。魔力の流れに異常はないし、眠り続けることで回復を早めているんだろう。獣人は人間とも、獣とも違うんだ。魔力を宿していてどちらの姿をも形どることが出来るのは、それだけで体の中で複雑な魔力の流れを操っていることになる。俺でも動物に姿を変えろと言われたら少し難しい上に時間がかかる。加えてノエルは100年近く生きているから、それなりに危険な目に遭いながら生きて来ただろう。怪我をすることは幾度となくあったはずだ。ならば、どうすればそれがいち早く治癒されるのかも把握しているだろう。」
「そっか・・・そうだよね・・・。気持ちよさそうに眠ってるし、ロディアの治療のおかげで治っていってるんだよね。」
また優しく可愛い耳が立つ頭をそっと撫でると、白いひげがフワフワ揺れて、穏やかな寝息と共に波打つ。
「正直・・・獣人を治療したことはないから多少焦ったがな・・・。アリス、腕を出してくれ。」
そう言われて向き直ると、彼は医療器具をテーブルに広げて注射器を持っていた。
それを見て何故か反射的に身構えてしまった。
銀色に光る尖った針が怖いのか、それとも注射が怖いのか・・・何かわからない恐怖を覚えて体が震え始める。
「アリス・・・大丈夫か?」
「あ・・・・い・・・あの・・・・」
私の怯えようを見て何かを察したのか、ロディアは注射器をしまった。
「アリス、怯えなくていい、大丈夫だ。無理に何かを注射しようとしているんじゃない。採血しようとしただけなんだ。血が怖いか?それとも注射器が怖いか?」
ロディアの言葉を理解しながらも、私の頭の中は何か覚えのない記憶を再生した。
その光景が何なのかわからないけど、不快なことだったということだけはわかる。
「そうか・・・確かにあの場所で見たアリスの記憶では、父親は注射器でアリスに薬物を投与していたな。」
私が尚も震えていると、ロディアはそっと隣に腰かけて抱き寄せた。
「・・・大丈夫だ、何もしない。いいか、検査に必要なアリスの魔力を取り出して、それがどういう性質を持っているか調べようとしていたんだ。人間は体内で無意識に魔力を生命維持のために使っている。量に差はあれど、無くてはならないものだ。だが次第に大人になっていくにつれて魔力はどんどん少なくなり、年老いる頃には魔力はほとんど必要なくなって生きていける。同時にそれは内臓機能が衰えることにもつながっているがな。人間の血液や、汗、涙・・・その他体から排出されるものには魔力が含まれている。だから俺は採血しようとしていたんだ。アリスに何も危害を加えることはない。」
ロディアは優しく抱きしめて私の頭を撫でながら、淡々とそう説明した。
まるで怖い夢に怯えた子供を慰めるように・・・
「採血が嫌なら・・・そうだな、尿検査でも構わない。」
ロディアはそう言うと、空間にしまっている中から四角いコップを取り出した。
「ここに排尿してもらえれば、検査として使わせてもらう。」
それはお医者さんとしてはごく普通の検査方法なんだろうけど・・・・何とも恥ずかしい気持ちが否めなかった。
私がもじもじしていると、彼は不思議そうに小首を傾げた。
すると頭上からバサバサと羽音が聞こえて、ライザスさんがふわっと降りて来た。
「ロディア、レディにコップを渡して排尿してこいなんて・・・君は人であるデリカシーまで失くしたのか?」
自身の羽を啄んで整えながら、ライザスさんは困ったように首を傾げた。
ロディアはライザスさんと私の顔を見比べて、一つため息をついた。
「身体検査としては妥当だ。一番有効なのは血液検査だが、それが無理ならこれが合理的だろうと判断したまで。だがまぁ・・・確かに女性に対して少し失礼だったかもしれん。・・・すまん。」
「い、いえ・・・えっと・・・」
嗜めるようにロディアを見るライザスさんと、少し困っているロディアを見ると、今度は自分から何か別の方法を提案しなければと思った。
そんな私に気付いたのか、ライザスさんはちょこんと座ったロディアの足に乗った。
「それなら汗をかくまでここで運動するか・・・それとも感動する物語でも読んで涙をもらうか・・・だね」
「・・・そうですね・・・」
コップを空間にしまいながらロディアは言った。
「いい、さっき言ったように有効なのは血液検査だ。注射器など使わなくても、俺はいかようにでも採血は出来る。」
「ほう?そうなのかい?」
私とライザスさんが不思議そうに彼を見返すと、また少し思案するようにロディアは私の目をじっと見つめた。
「初めてアリスを治療した際に、点滴していたのを覚えているか?あの要領で採血しよう。」
「あ・・・はい。」
ここで目を覚ました時、衰弱していた私に不思議な魔術で点滴を施してくれたことを思い出した。
ロディアはすっと私の腕を取って、その袖をまくった。
手首より少し上にそっと触れると、わずかに淡く光を帯びだした。
「ロディア・・・君、随分器用なことを・・・」
ライザスさんは物珍しそうにのぞき込んだ。
その光は徐々にロディアが手を引いて伸びて、何の痛みもなく血が光の管を通るように体の外へ出た。
管の先の丸い光に血液が溜まると、ロディアはそれをふわふわ宙に浮かせて持ち、蓋をそっと閉じるように私の腕に手を置いた。
「これでいい。」
そう言うと彼から影がふわっと具現化して、ドッペルのロディアが現れた。
赤い目の彼は本体のロディアから血液を受け取り、奥の部屋へ消えて行った。
「魔力の性質を調べている間に、身体検査をさせてもらう。」
「あ・・・うん・・・。身体検査って・・・どうすればいいの?」
「その名の通り全身を検査する。聴診器で内臓の音を聞くこともするし、身長や体重を計り、眼球や耳の状態も確認する。俺は元々医者であるし魔術師でもあるがゆえに、全裸になってくれればそれらの検査は魔力を使って一瞬で済ませることが出来る。」
静かに聞いていた私の隣で、ライザスさんはまた一つため息をつく。
「ロディア・・・」
「わかってる、目の前で脱げというのは、俺が男の姿であるがゆえに失礼ではある。・・・時間をかけて人間の医者がするように検査を進めようか・・・」
ロディアはそのまま無表情に聴診器を取り出し、私のシャツのボタンに手をかけた。
「あ・・・あの!ロディア・・・」
「ロディア~・・・それは脱がせようとしているのと同じじゃないか?」
「上を少し開けてくれ」
私が言われた通りシャツのボタンを外すと、彼はそっと聴診器を当てた。
ペタペタと胸やお腹に当てられて、少しくすぐったい気もしたけど、しんと静まり返ったリビングで私も黙っているしかなかった。
やがてさっと離して聴診器をしまう彼は、特に何でもない様子だ。
「ふむ・・・内臓は特に変わったところはないな。」
「・・・変わったところ?」
「・・・少し気になることがあってな。まぁ全て調べたら明らかになるであろうから、今は何とも言及出来ない。可能性だけ述べて混乱させたくはないし、杞憂かもしれん。」
「彼女は少し人間とは違った魔力を有しているように見える。ロディアの杞憂ではないだろうさ。私にはわかるよ。君は少し特別な人だ。そしてロディア、それを確かめることは今すぐにでも出来ると、わかっているのじゃないかな。」
「ライザス・・・」
ロディアはわずかに瞳を光らせてライザスさんを睨んだ。
「この子にとって自分自身をよく知り、それを受け入れることは大切なことではないかな。君の優しさはわかる。過酷な運命は時に弱い生き物を苦しめるだろう。だが彼女を弱い人間だと決めつけるのもいかがなものか。またそうであっても、君が側に居れば守ってやることも出来るし、君が以前話していたことも含めて考えると、今起きている全てのことは偶然とはいいがたい。」
二人が何のことを話しているのかはわからなかったけど、私のためにどうするべきか話し合ってくれているのはわかった。
ロディアは瞳の色をあれこれ変えながら俯いた。
「ロディア、私に一度でも助言を求めたのだから最後まで首を突っ込ませてもらうよ。彼女にハッキリと告げるためにも、確信を得る方法を試すといい。守り続けることが賢者の役目かもしれん、だけどもその意識が時に自身の首を絞めることにもなるだろう。君がすべきことは、国と女王の安寧・・・そして自分自身が長命であり続けることだ。違うかな。」
「もちろんそうである。違いはない。だが長い目で見て判断してしまえば、時に目の前の命さえ救えないんだ。俺は決してそうはならない。俺は全てを救うと決めた。ドッペルを生み出した時から、俺はもう苦しむことなどないのだから。」
ロディアは紫色の瞳をまた私に向けると、感情の宿っていないまなざしが少し悲しそうに揺れた。
私が黙って言葉を待っていると、ロディアは静かに口を開いた。
「アリス・・・アリスを俺が救えるようにと、海に落ちたお前を海岸まで運んだのは・・・ある一人の人魚だ。」
「・・・人魚・・・?」




