第十六章
図書館でその後1時間ほど過ごしていると、窓の外の景色がだんだん灰色がかってきているのに気付いた。
「お昼から雨かなぁ・・・。」
ポツリと呟くと、別の本を読み進めていたロディアが口を開く。
「今戻った。」
彼を見ると、その瞳は紫色に変わっていた。
「あ、おかえりなさい。」
ロディアは机の上にある積み上げられた本を見やる。
「借りて帰るか?それとも・・・昼食を摂った後にまたここに戻ってくるか?」
そう言われて少し考え込んだ。
アレンティアのことやロディアのこと、その他一般常識や公用語についての本を粗方読み漁った。
他に働くうえで必要な知識はあるだろうか。
職種によってそれは変わるかな・・・。
「あの、借りていきたいものは3冊くらいで・・・。出来ればお昼ごはんの後は、街に出て働ける所がないか探してみたいの。」
「そうか・・・。ならそうだな・・・。城下町でというより、フロンで探したほうがいいかもしれないな。」
「フロン・・・は、私たちが暮らしてる研究所近くの?」
「ああ、あそこは田舎町ではあるけどある程度の店はあって、そこまで客入りが激しい所でもない。城下町から離れている程ではないから、都会に働きに出る人たちが多く住んでいる場所でもあって、情報が集まりやすい。そのために俺は利用している店舗がいくつかあるし、紹介出来ないでもない。」
「そうなんだね。じゃあ・・・お言葉に甘えて・・・お勧めがあったら紹介してもらいたいかも・・・。」
ロディアは一つ頷いて、借りるための本を受け取ってくれた。
手続きを済ませて図書館を出ると、日の光がとうに消えた空から、ポツリと頬に雨粒が落ちた。
「あ・・・」
曇天を仰ぐと、灰色の雲は遠くの方で急いで動いていくのが見えた。
みるみるうちにポツポツと降り出してきて、ロディアはどこから取り出したのかさっと傘を広げた。
パッと見上げるとその透明の傘は水が流れるように波を打っていて、お店に売っているようなものじゃないのはわかった。
「通り雨だろう。とりあえずフロンに戻って、行きつけの店に向かおうか。」
「うん。」
少し歩いて路地に入ると、ロディアは右手でそっと私の肩に触れた。
その瞬間周りの景色が少し変わって、また路地を出るとフロンの街並みに戻っていた。
相変わらずロディアの後を半歩後ろでついて行きながら、雨に濡れた建物を眺めた。
時々通り過ぎる人たちは、慌てて走り去ったり、店から出て残念そうに傘をさしたり、天気の所為かいつもより人が少ないようにも思えた。
「アリス、ここに入るぞ。」
よそ見していた私に声をかけたロディアは、木製の看板がぶら下がっているカフェの前で足を止めた。
脇にある小さな黒板には、素朴な昼食メニューが書かれていた。
ロディアの魔術で作った傘がスッと消えて彼がドアを引くと、心地の良いベルの音がする。
「いらっしゃいませ。おや・・・」
初老の男性がにこやかに私たちを出迎えてくれる。
お店の中はコーヒーのいい香りで包まれ、使い込まれた木製のテーブルや椅子を丁寧に拭くウエイターさんと、何人かのお客さんが静かに食事をしている。
「マスター少し尋ねたいことがある。アリス、こっちに・・・。」
ロディアに促されるまま隣のカウンター席に座った。
「いらっしゃいませ。あれ・・・ロディアさんが女性を連れていらっしゃるなんて珍しいですね。」
テーブルを拭いていた青年がキッチンに入りながら、チラリと私を見た。
「リック、メニューを彼女に。」
「はい、かしこまりました。」
「ロディア様、ご用件は・・・以前お聞きになっていた件ですかな?」
マスターと呼ばれた男性はコーヒーカップを磨きながら尋ねた。
「いや、彼女の働き口を探していてな。人手は足りているか?」
ロディアがそう言うとマスターもメニューを持ってきた青年も、少し呆気にとられたように黙った。
「・・・そうですな・・・ご存じの通り、祭事の時は人手不足ではありますな。何か訳アリで?」
「ああ、事情があって彼女は生まれ育った土地での記憶を失っていてな。たまたま俺が保護したんだが、コミュニケーションや言語能力に差異はないし、基本的な家事能力もあるように思える。学習能力も人並みであるし、人手としては十分に思える。どうだ?」
「ふむ・・・。」
二人の視線が注がれて思わず口を開いた。
「あ、あの・・・雑用でも掃除でも出来ることは何でも覚えますので、よろしければ面接してください。」
「承知しました、では・・・店を閉める3時間後くらいに、お話を聞かせていただいてよろしいですかな。」
「は・・・はい。」
あっさり了承されて拍子抜けしていると、ウエイターの青年がそっと私にメニューを手渡した。
「お腹空いてますか?まずは腹ごしらえからですね。」
「あ、ありがとうございます。」
メニューに書かれている軽食を一つ頼んで、運ばれてきた紅茶にそっと口をつける。
「最近は何か不審な噂や、変わった出来事はないか?」
ロディアがそう徐に尋ねた言葉に、マスターは慣れた様子でフライパンを振るいながら答える。
「ふむ・・・。特に今のところはございませんねぇ。おかげさまでフロンは平和そのものですな。」
穏やかな笑みのマスターはふと私に視線を向けて、また微笑む。
「お嬢さんは、この町の住み心地はいかがですかな?恐らく異国の方なのでしょうが、フロンはご存じの通り、ロディア様に懇意にしていただいているおかげもあり、治安もよく、緑も多く・・・人々も皆穏やかです。」
その言葉からは長くロディアと関わりがあって、身分も知った上での言い方だと悟った。
「はい・・・。気温も過ごしやすいですし、私もロディアに懇意にしていただいているので、記憶がない状態でもなんとかやっていけてるというか・・・。」
「そうですか。何があったにしろ、ロディア様の助力をお受けになられたことは、良きご縁でしたな。」
「はい。」
マスターはまるで孫を愛でるように微笑み返してくれる。
料理の音と、わずかに外から聞こえる雨音と、食器が片付けられる音やコーヒー豆が挽かれる音を聞いていると、何とも落ち着く雰囲気に心もストンと腰を下ろせる。
また紅茶に口をつけて、チラリとロディアを見やると、どこからか出してきた書類に目を通していた。
やがてリックと呼ばれていた青年がカップを持ち、ロディアの隣に立つ。
「ロディアさん、コーヒーで大丈夫ですか?」
「ああ、ありがとう。」
「お嬢さん、お名前をお聞きしてもよろしいですかな?」
「あ・・・えっと、アリス・・・アリス・クラウドです。」
私が名乗ると、マスターは頷いてソースが入った容器をさっと取る。
「すみませ~ん」「は~い!」
「ありがとうございます。お会計、800Gです。」
「頂戴いたします・・・ありがとうございました~。」
「アリスさん、お待たせいたしました。どうぞ・・・。」
出された料理を受け取って、綺麗な卵の黄色とソースの香りで思わず顔が綻ぶ。
「わぁ・・・美味しそう。ありがとうございます、わざわざ名前書いてくださって・・・。」
ソースで卵に書かれた名前は、綺麗な達筆でしたためられていた。
「いえいえ、ほっほ・・・サービスです。」
忙しく片づけをするリックさんに目を向けると、いつの間にかお客さんもいなくなって私たちだけになっていた。
「いただきます・・・。」
スプーンですくった一匙を頬張ると、ソースの程よい酸味が広がって幸福感に包まれる。
もぐもぐしていると、ガチャっと裏手の扉が開いた。
けれどドアが開いただけで誰かが現れる様子もなく、はたと見つめているとさっと足元に何かやってきたのが見えた。
「え・・・?」
それは素早く私の隣の椅子に飛び乗り、スッと背筋を伸ばして座った。
「あ・・・え・・・猫・・・。あ、あのマスター猫が・・・」
マスターが私に視線を返すとほぼ同時に、優雅に佇む猫から声がした。
「マスター、金が必要になった。」
「へ・・・しゃべ・・・」
私が困惑してロディアの顔を見ると、彼は特に何でもない様子でこちらを見て苦笑いを返す。
「ほう・・・それはまた・・・どういう件に関わっていらっしゃるんでしょうねぇ。」
「野暮用だ。大した金額じゃない。雑用や多少の接客ならしてやらんでもないぞ?どうだ。特に必要ないのであれば・・・まぁ考え直そう。」
灰色の体と綺麗な青い瞳をしたその猫は、改めて私を振り返りじっと見つめて来た。
私が何を言っていいか迷っていると、彼は姿を溶かすように靄を纏ったかと思うと、次に現れたのは人の姿をした青年だった。
私が呆然と見つめていると、銀髪の彼は私の料理をチラリと見てニコリと微笑む。
「アリスと言うのか。ふむ・・・人間はあまり好きではないが、お前は気に入った。どうだ・・・俺を今晩1万ゴールドで買わないか?」
「え・・・?えっと・・・?」
「何とまぁ節操のないことを・・・ノエル、いけません、そちらのお嬢さんはロディア様にご紹介いただいた方です。」
マスターが口を挟むと、ノエルと呼ばれた彼は私の奥にいるロディアを睨むように見つめた。
「ふん・・・。」
彼はまた私に顔を寄せて、少し神妙な面持ちで語る。
「悪いことは言わん・・・賢者など信用してはならんぞ。お前が人か獣人か知らんが、いずれにしても一緒に居ればどんな目に遭うか・・・。俺を飼ってくれるなら、極上の快楽をほしいだけ・・・」
彼の長い指が私の頬を撫でると、後ろにいるロディアをパッと見てまたその猫の目を鋭くさせた。
「アリスは俺が保護した国民だ。お前に引き渡すつもりはない。」
「チッ・・・その目で俺を見るな!この下賤な魔術師が!!」
彼は鋭い牙をむいて立ち上がり、またふんと鼻を鳴らして猫に戻ると、裏手の扉から去っていった。
私がまたも呆然としていると、マスターがやれやれ・・・とため息を落とす。
「申し訳ありませんなアリスさん。あれは長いことアレンティアに住む猫の獣人で、所謂・・・ボス猫という存在でしてな・・・。フロンは森も近いので、獣たちが人に危害を及ぼさぬように彼が見張りをしているのと同時に、街の者にも自分に干渉せぬようにと、幅を利かせている珍しい存在なのです。」
「・・・へぇ・・・。ここには獣人の方が多かったりするんですか?」
すると隣にいたロディアが静かに口を開いた。
「獣人自体の正確な数は、どの国であっても把握は出来ていないだろうな。彼らは人に交じって生きていることもあれば、動物側に交じって暮らしている者もいる。ノエルのようにどちらの姿であっても街で堂々と生きる獣人はいないし、大抵は存在が知られると研究のためと称して魔術師に捉えられるか、その珍しさが故に闇市で売りさばかれ、観賞用やペットとして扱われることもあるらしい。元の数はどうあれ、人間や魔術師のせいで激減しているのは確かだ。」
「そう・・・なんだ。」
牙をむいてロディアを睨みつけた彼が、どういう気持であったのか何となく想像できる。
「ノエルが特殊な存在として街で暮らせているのは、獣人とは思えない魔力量の多さからだ。民間の魔術師程度の魔術を使うことが出来るし、姿を両立することも魔力量を必要とされる上に、身を隠すことも誤魔化すことも上手く、誰も捉えることが出来ないのだろう。」
「・・・それは・・・ロディアでも、ってこと?」
冷めてしまわないうちにまた料理を口に運ぶと、ロディアはコーヒーを一口飲んでまた何でもないように書類を眺めた。
「どうだろうな・・・。俺としてはノエルを特に捉える必要性を感じないし、もうアレンティアに50年程いついていると聞くから、一国民として見ているな。」
「そうなんだ・・・。」
「ほっほっほ・・・あれでなかなかいい子なのですよ、アリスさん。」
マスターの微笑みを見て、また会う機会があれば話してみたいな、と思った。




