第一章 淡く光る紫
不思議な夢を見ていたような気がする。
海の中で自由に泳いで、その深い青の世界を、まるで飛び回っているような気分だった。
けれども、少しずつゆっくりと海底へと沈んでいく体に気付いた時、伸ばした腕はもう、空気に触れることはなかった。
でも私は、なんだかその夢を、とても暖かくて愛おしいものに感じた。
覚めなくてもいい、と思うほどに・・・。
「気が付いたか?」
目を開けた時、私に声をかけたのは男性だった。
「・・・・ここ・・・は・・?」
声が上手く出ない・・・。体も動きづらい。
首を声のする方へ曲げるのがやっとだった。
「何かの事故で海に投げ出されてしまっていたようだ。流れ着いていた浜辺で俺が救助した。痛むところはあるか?」
寝かせられている私の側に、しゃがんで目線を合わせてくれたその人は、綺麗な紫色の瞳が印象的だった。
「貴方は・・・?ここ・・・どこ・・・」
「ここはアレンティアの外れにあるフロンという地域だ。俺は魔術師のロディアという。自分の名前はわかるか?」
アレンティア・・・?私はぼーっとする頭で何かを思い出そうにも、記憶がごちゃごちゃしていた。
覚えていたのは・・・
「アリス・・・です。」
彼の瞳を見つめ返すと、安心させるようにうなずいてくれた。
「アリスだな。他に何か思い出せることはあるか?」
思い…出せること・・・
考えようとした。だけど、何故だか覚えていそうな記憶に靄がかかっていて、言葉にして説明できることがなかった。
「ごめんなさい・・・。思い出せない・・・。」
その時始めて、はっきりとしてきた意識で、申し訳ないという気持ちが溢れて来た。
「そうか。大丈夫だ、今は色々と混乱しているのかもしれない。落ち着いて何かわかったら教えてくれ。」
淡々と対応する様を見て、お医者さんみたいだな、と思った。
彼は私に視線を落とし、表情を変えず言った。
「脱水症状を起こしてはいけないから、点滴をする、少しそのままでいてくれ。」
どうして助けてくれたんだろう・・・。
魔術師の人は、人助けすることも仕事なんだろうか。
反対側に視線を向けると、だいぶ大きめのベッドに寝かせられていたことに気付く。
奥にはカーテンの閉まった窓と観葉植物。
後は掃除用具が少しあるくらいで、生活感のない寝室に感じた。
天井が高く、木目に囲まれていて、大木を切り抜いた部屋にいるようだった。
ふいに腕に触れられて、その温かさにドキリとする。
「・・・少し我慢してくれ。」
そういうと彼は、私の腕を指ですっとなぞる。
するとそこから光る管のようなものが上に伸びていったと思うと、丸い水が浮いてぽたぽたと落ちながら管に伝わっていた。
「すごい・・・」
針を刺す痛みも一切なく、きらきらと光る魔法の水が、自分の中に入っていくような気がした。
どうしてこんなことが出来るのだろう、とぼーっとそれを眺めた。
「動けるようになるまで、安静にしているといい。何か用があるときはこれを・・・」
そう言って彼は、小さな銀細工の置物を私の枕元に置いた。
それは小鳥の形をしていて、細やかな羽の模様に、水晶がはめ込まれたような目があり、今にも飛び立ちそうなほど精巧に作られていた。
不思議に思い彼の顔を伺うと、懐から同じものを取り出して言った。
「それに触れながら話すとこちらに声が届く。ここは三階建ての地下もある研究所だからな、声で呼べない時は使ってくれ。」
「・・・触れながら話す・・・?」
「ああ、触れると生き物に流れている魔力を感知して、電話のように相手と会話が出来るんだ。その間は鳥の目がわずかに光る仕様になっている。」
私は傍らの小鳥に、そっと触れてみた。
すると蝋燭の火を灯すようにゆっくりとその目が光り、小鳥の口がわずかに開いた。
「はっ・・・!」
彼を見ると、手に持っているもう一つの小鳥は目を光らせ、少し羽を広げるポーズをとっていた。
「すごい・・・。魔術でこんなことが出来るんですね。」
「ん・・・魔術というより一種のからくりのようなものだな。こういうものを専門として作れる知り合いがいるんだ。」
「へぇ・・・。」
彼は小鳥をしまうと、静かに部屋を出ていった。
足音が遠ざかっていくと同時に、窓の外から少し風が鳴った。
私は再び天井を見上げて、また目を閉じてみた。
名前以外をどうして覚えていないのだろう。
頭の中を整理したくても、どうしてかうまく働かず、結局そのまま眠りに落ちてしまった。
次に目を開けた時、何やら不思議な匂いを感じた。
ゆっくり体を起こしてみると、特にだるさも痛みもなく、腕を見ても昨夜の点滴はなかった。
枕元には使うことなかった小鳥が、変わらず側にあった。
ベッドから足を出して、立ち上がると少しまだ浮遊感のような、軽い目眩を感じたけれど、気分が悪いということもなかったので、寝室から出てみることにした。
寝室に扉はなく、出てすぐ左側が手洗い場だったので、とりあえず用を足すことにした。
寝室の隣の部屋は、ダイニングだろうか、おしゃれなクロスが敷かれたローテーブルとシンプルなソファがあり、奥には対面キッチンがある。
一輪挿しや調味料が綺麗に並んでいて、あまり使われている様子もなく、シンクも新品そのものだ。
反対側の突き当りには大きな窓があり、その手前には木の螺旋階段があった。
窓からの景色を見てみようとした時、ちょうど、螺旋階段から規則正しい足音が聞こえてきた。
「目が覚めたか。」
「あ・・・おはようございます・・。」
昨夜自分を助けてくれたその人を、ちゃんと見ていたはずだったけど、改めてその姿を目にすると、少したじろいでしまった。
頭を下げ、また目を合わせると、彼は私の顔をじっと見つめ、少し困った顔をした。
「女性物の服がなくてな・・・この後買い出しの予定があるからいくつか買ってこよう。もう少しその恰好で我慢していてくれ。流れ着いた時に着ていた服は、随分傷んでしまっていたから、悪いが処分しておいた。」
そう言われ自分の体を見下ろすと、大きめの長袖のシャツに、シンプルな長ズボンという恰好だった。
はたと、着替えさせてくれたのは彼だと気づき、恥ずかしさでいっぱいになったが、私が言葉を発する間もなく、彼は側を離れ、キッチンの戸棚に手をかけた。
魔術師だという彼は、身長が高く、整った顔立ちをしていて、20代半ばくらいの男性に見えた。
こげ茶色のストレートの髪が、首をなでるように生えている。後ろ姿のそのうなじには、銀色の金具で束ねられた髪が、長く背中に伸びていた。
私はその場でどうしようか手をこまねいていると、お湯を沸かそうとしていた彼は私を見ていった。
「座っていていいぞ。具合はどうだ?」
「あ・・・今日はだいぶ気分もよくて大丈夫そうです。あの、きちんとお礼も申し上げてなくて、すみません。助けていただいてありがとうございます。」
そう頭を下げ、また顔色を伺うと、彼は特に表情を変えず
「礼には及ばない・・・。いいから座りなさい。」
そう言って彼は湯が沸いたポットを手に取り、カップに注いだ。
寝起きに感じたものとは違う、茶葉のいい香りがした。
私は横目でそれを眺めつつ、ソファに腰かけた。
「紅茶は好きか?頂き物の茶葉だが、俺はあまり嗜好品を使わないから、良かったら飲んでくれ。」
そう言って温かい湯気が立つカップを目の前に置き、彼は隣に腰かけた。
「ありがとうございます、いただきます・・・。」
ゆっくりカップを持ち、息を吹きかけて冷ましながら、綺麗に澄んだ紅茶に唇をつけた。
立ち込めるフルーティな香りと、舌に染み込む優しい甘みを感じ、ゴクリと喉を伝わせる。
飲み込む行為がとても久しぶりなのかもしれない、今まで味わったことがないくらいおいしく思えた。
「美味しい・・・」
私は自然と声が漏れた。
そして不思議なことに、何か心細さや不安が、じんわりと胸に広がる気がした
「…落ち着いたか?」
彼の静かで心地いい声が耳に入り、顔を向けるとわずかに微笑むそのぎこちなさにドキリとした。
安心して涙が出そうになるのをこらえて、私は必死に言葉を探した。
「あの・・・私、自分に何が起きたのか全然思い出せなくて・・・本当にご迷惑おけてして申し訳ありません・・・。どうかこの恩は一生懸命働いて返しますので、その・・・しばらく・・・ここに居させてもらえないでしょうか。」
目をふせ、手に持つ紅茶の温かさと、湯気ばかりが視界に入っていた。
そのわずかな沈黙は、私をまた不安にさせるには十分な時間だったけれど、彼はまるで朝食のメニューの説明でもするかのように答えた。
「好きにするといい。手洗い場はそこ、食べ物の備蓄も好きなものを食べていい。俺は寝室を使わないからそこで寝起きしなさい。必要な物はさっき言ったが、買いに行ってくるからほしいものを教えてくれ。」
私は少し呆気にとられポカンとしてしまった。
「どうした?」
「いえ・・・あの・・・」
何かを期待していた、とかそういうわけじゃない。
むしろ厳しい答えが返ってくるだろうと思った。
「・・・寝室を使わないって・・・他の部屋で寝るんですか・・・?」
「いや、俺は睡眠をとらない。魔術師として長く生きているとそうだ。」
彼はそう言いながら腰を上げ、着ていたコートの襟を直した。
「そう・・・なんですか。」
「ちなみに食事も嗜好品もとらない。だから貰い物以外あまり食料がなくてな。」
彼はそう言いながら掌を広げ、柔らかい光を纏った。
すると髪も目の色も黒くなり、印象が薄くなった気がした。
「歩けそうなら、一緒に街に付き合ってほしいんだが・・・行けるか?」
「は、はい!荷物持ちます!」
「いや・・・そうではなくて、一緒に来てもらわないと必要なものがわからないんだ。」
彼はそう言いながら私にも掌をかざして、魔術をかけたらしい。
「保護魔術をかけた。人から注目されなくなる。」
玄関は下だ、とそのまま階段を一緒に降りた。
帽子掛けにあるコートをふわりと着せられて、側に寄った彼から花のようないい香りがした。
「少し冷えるからな、着ていきなさい。」
彼は丁寧にコートのボタンを留めてくれた。
慣れた手つきに口を挟む隙もなく、されるがままになっていた。
その後さっとブーツを目の前に揃えられたので、ゆっくりそれを履いた。
彼もまた靴ベラを使って革靴を履いた後、ぶかぶかのブーツの私の足元に向かって言った。
「フィオーネ。」
え?と声をもらした瞬間、部屋のどこからともなく、何かが金色の光を散らしながら飛んできた。
「え!え、なに・・・?」
すると羽ばたきながら飛んでいるそれが、私の足元をぐるぐると飛び回り、その光を受けたブーツは色も形も女性物の綺麗なブーツに変わった。
そして姿を確認できないまま、素早く部屋の中に飛んで消えていってしまった。
「行くか。」
おろおろとしている私に、彼は何食わぬ顔で言うと、玄関の扉を開けた。