あのひとが先輩と一緒になりました。
今でも時々思い出す。
あの時手を引っ張っていれば変わっていたかもしれない。ほんの少しの勇気と強引さがあれば、そして今ならその勇気と強引さも持ち得ているのに…。
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とある地方の高校へ進学し、ごくごく普通の学生生活を送っていた自分。そして3年生になり進学よりも就職を考えていた。ただ特に働き先にこだわりも希望もなかったので、学校が仲介してくれた中堅規模の印刷会社にそのまま就職した。
会社は自社ビルで社員はたしか100名程だったと思う。社会人1年生として最初の4、5カ月は仕事を覚える事に必死だった。そのせいだろう、あっという間に夏が過ぎて、でも徐々に周りが見えだしたかなと感じた秋の半ば。事務員として彼女が中途採用で入社してきた。
月初の社員全員が集まる朝礼で、社長に促されて自己紹介する彼女。その声はキーが高く身長は低くて150センチをこえたくらいか?小動物系の顔立ちは童顔で幼く見えた。後で聞いたら7歳も年上でちょっとびっくり、年上感まったくなしじゃん。でも彼女とだったら並んで歩いても違和感はないだろうなぁ、なんて考えたりもして。そんな印象だったけどその時は特別意識もすることもなく、同じ会社で一緒に働く若い女性社員って程の認識だった。
ちなみに自分も童顔だったりする。そのせいで高校2年生くらいまで身長が低かったのも手伝って、実年齢よりもガキっぽくみられがちでそれが嫌だった。まぁ今じゃ身長も伸びたし社会に出てからは、服装や髪形なんか見た目はかなり意識していたつもり。
しかしそんな気持ちとは裏腹に、会社では最年少だったせいもあるんだろうな。仕事上で接点を持って彼女と少しずつ話をするようになると、何を思ったか彼女「矢田」さんからは、名前ではなく「少年」なんて呼ばれだして、社内のあっちこっちでそんなふうに呼ぶもんだから、不承不承いつの間にか会社で先輩や上司からも、あだ名として「少年」と呼ばれるようになってしまう。なんだかなぁ…。
そんな彼女からは最初、弟の様に思われていたのかもしれない。誰に聞いたのか一人暮らしをしていた自分に、「少年?ご飯はちゃんと食べてるの?」「あぁあ、洗濯ちゃんとしてる?シャツがヨレヨレじゃん」「よっ今日は天気がいいね」なんて仕事中、仕事以外のことでも声をかけてくれるようになった。
ぶっちゃけ、これまであまり女性から声をかけられることってなかったんだけど、矢田さんが親しみをもって接してくれていたのは分かっていたし、見た目全然年上っぽくないのに、お姉さん風を吹かす矢田さんがおかしくてなんだかかわいく見えた。
その後も生活態度についてたくさん注意?してくれたけれど、そんなこと気にしちゃいない。彼女と話すときは基本敬語だけど、だんだんタメ口になりつつ冗談の憎まれ口を返したり。いつも自分を見上げ、上目遣いで目をクリクリさせながら話す矢田さん。そのやり取りが楽しくって。
やがて冬を迎え年も越したころには、お互いに個人的な部分も話したりの仲にはなっていたと思う。
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ある春先の暖かい日、お昼休憩中に社屋外にある非常階段の喫煙スペースで、1人たばこを吸いボーッと景色を眺めていると、矢田さんがひょっこり顔を出し、自分を見つけてニンマリ笑う。
「ねぇ少年、今日夜予定あるの?」
「いやなんにもないけれど、なんすか?」
「じゃあ今日はお姉さんが晩御飯おごったげる」
「へっいや急になんで?」
「一人暮らしでロクなもの食べてないんでしょ?遠慮するな」
「へぇ~い、あざぁっす」
その夜、仕事の終わりに矢田さんから居酒屋で晩御飯をおごってもらい、以降たびたびご飯に連れて行ってもらえるようになった。やがて会社が休みの日は、矢田さんからのお誘いで買い物に付き合ったり、自分が見たい映画を今度はこちらから誘い、一緒に見に行くようになったり。2人で過ごす時間がどんどん増えていく。
そしてより彼女のことを知った。読書が好きで読む本の趣味も同じ。音楽や食べ物の好みもほぼ一緒。基本的に素直だし、かわいい雰囲気で相変わらず目上を感じさせない。いつも気を遣わず話せたし、やっぱ年上の包容力?自分がバカをやっても何やってんだかって、呆れながらだが笑って許してくれていた。
そんなことが数カ月。特別どちらかが告白したわけでもなかったけれど、これってもう付き合ってるんだよなぁ?って思うようになった。もう普段からデートにも誘うようになったし、矢田さんへの感情は素直に「好きな女性」と考えるようになり、気持ちもどんどん高まって行く。
恋愛経験は少なかったが、自分なりに気持ちを伝えたくて手を握ってみたり、腰に手を回して2人一緒に歩いて見たり、年下だけどしっかりしなきゃって、どこかに行ったときはお金も2人分を払うように心がけた。そんな自分の様子を矢田さんも理解してくれているのか、優しく合わせてくれる。
そう矢田さんがそばに居てくれるだけで心が安らぐ。彼女と一緒にいること。何よりもその時間がとても、とても大切で…。
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そして前までならホテル行きましょうよ!とか熱いキスさせてください!なんてことをからかいながら冗談で言い、矢田さんも、もう!まだ少年でいなさいってお互いケラケラ笑っていたのだけれど、今はとてもじゃないがそんなこと、言えなくなってしまっていた。
正直、年上の女性で大人。きっといろいろなことを知っているだろう…そう考えると自分の存在がすごく子供じみて気後れし委縮してしまう。そんなだから気持ちを押し付けすぎて振られるのが、失うのが怖かったし。あの笑顔を無くすのなんて考えられない…。
年上彼女の存在が自分の未熟さを自覚することとなり結果的に臆病になる、勇気が出せずにいた。
いつだったか、実は一度だけ自宅のワンルームマンションに来たことがあって、その時はベッドのふちに並んで腰掛け、たわいもない雑談をしながらテレビを見ていたんだけれど、何かの拍子でテレビに夢中になっている横顔に視線を送った。
優しくほほ笑む彼女。その姿は愛しいと思う。かわいいと思う。切ないと思う。
瞬間ふいに我慢できなくなって、強く抱きしめベッドに押し倒して、唇を押し付ける様にキスをした。
ムードも何もあったもんじゃない…ここから先を!って考えたけれど、顔を離すとこう言うのいきなり駄目だよ?って優しく言われてしまう。そしたら途端にガツガツしていたのがとても恥ずかしく、やっぱり嫌われるのも怖くて冗談ですよぉって取り繕い、笑ってごまかした。実は全く笑えないけれど。
家に来たのはそれっきり。今にして考えたらずいぶん背伸びをしていたな。若さゆえってやつ。
それから何の進展もないまま、会社ではいつもと変わらない矢田さんだったけど、いつの頃からか2人で会う回数も減って、どこか遊びに行こうって言っても断られることが多くなった。やっぱ無理にキスをしたのまずかったかな?それとも知らない間に機嫌を損ねるようなこと何かしたっけ。デートであの時にお金を出してもらったのがいけなかったかな?
例によって会社の非常階段でたばこを吸いながら、自分なりに原因を考えるが、心当たりはなく理由が全くわからない。
と、下の階から男2人の話し声が聞こえてきた。女性の事を話している様だ、いろいろしゃべっていたから内容はあまり覚えていないけれど、ひとつだけ。
「初めての夜にな?涙流しながらごめんなさいって言うんだ」
「おい、そこって謝る処か?」
「下からぎゅっと抱き着いてもくるし、最中そのうち声も絶え絶えになっててさ。死ぬんじゃないかって心配になったよ」
「おぉ!飯もうまいんだろう?色んな意味で良いねぇ」
「それでさ……」
ったく!真昼間から生々しい会話してんじゃねえよ……。
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休日に会えなくなって一カ月くらいたったろうか。
少年!今度の日曜日に遊びに行こう!時間空けといてね?絶対だよ♪。
う、うん。
会社の廊下ですれ違いざま、急に声をかけられた。ちょっと面食らったけどニッコリ笑顔で声をかけてくれたし、久しぶりに2人で同じ時間を過ごせるって思うと、めちゃめちゃ嬉しかったし週末が楽しみでしかたなかったんだ。
当日。何時もの場所で待ち合わせて彼女を見つけ、おはようって声をかけたら、ほほ笑んで矢田さんの方から腕に手を回してくる。一緒に歩いている最中もなんだかテンションが高く、すごく饒舌でいつになくしゃべってきてて。わたし夢があってね?いつか誰かと夫婦になったら、テーブルを挟んでおそろいのマグカップでコーヒーを飲むんだとか、少年は貯金ちゃんとしてるの?子供はさ二人くらいはほしいんだよね。
もしも結婚したら?のそんな話ばかりしていた。ただ若干二十歳になったばかりの自分にはてんでピンとこない。やがて日が暮れて、行きたいって言っていた洋風居酒屋に手をつないで向かう。
そして歩いている途中、ふいに足を止め矢田さんは独り言のように、あぁあれが友達が言ってたラブホテルかぁって、派手なネオンの看板を見上げ見つめていた。
…矢田さんの握っていた手に力が入った気がする。
「お部屋がさ、かわいくてきれいなんだって」
「そ、そうなんだ。それより俺お腹がすきましたよ、お、お店速く行こう」
「…うん」
2人にとってなんか場違いの話題の様な気がして、そそくさと彼女の手を引き歩き出す。
終電も近づいた時間。帰りはいつも自分が決まった駅まで送るのだけど、それじゃあって軽く手を挙げ背を向けて歩き出す。ふと正面を見ると、駅に備え付けの鏡に矢田さんが写っていることに気がついた。手を伸ばしかけ、何か言いたげな顔で自分の背中を見ている。
心臓がドキッとし、どうしてそう思ったんだろう…声をかけられたら別れを切り出されるのじゃないかって、あわてて鏡から視線を逸らし、そして振り返ることなくその場を去った。
翌月曜日。会社での矢田さんの態度ははっきりとしていた。
基本目を合わさない、仕事についての話も必要最小限。何もかもがそっけない。昨日はあんなにテンション高かったじゃん、なんで?この落差は何なんだ??それからはずっとそんな態度をとられ続け、意味が分からず悩み苦しんで心はボロボロ。
俺やっぱ振られたの?でもそれなら振られた理由が分からない。あそこ迄嫌われる言われもないし。やっぱりなぜ?しかなかった。
それからは仕事も集中できずミスを出すし、さすがにここまで露骨な態度に出られると、悲しさよりもだんだん怒りを感じる様になってきた。でも、それでも年上の人だし、会社でプライベートを持ち出してけんかするのは…。
あぁもういいや、どうせ嫌われてるのだったら、今度の仕事が終わりに問い詰めてもっと嫌われてやらぁ。いろいろなことを思って、言いたいことは山ほどあったけれど、とりあえずグッと我慢をしてその週はやり過ごした。
それからさらに数日が過ぎ、残暑が厳しいなか外回りを終え会社に帰って事務所に入る。汗でシャツがへばりつき体が気持ち悪い。それにもう喉がカラカラ。その足で給湯室の冷蔵庫に自分の飲み物を取りに向かった。廊下の突き当りにある給湯室なのだが、そこでお茶を入れる準備をしている矢田さんの姿が目に入る。彼女もチラッとこちらを見た。
「お疲れさまです」
声をかけてもガスコンロにヤカンを置き、やはり視線を合わさず何も答えない。
「あの…」
「聞こえています」
その言い草にカチンときた。
「俺あんたになんかしましたか?いったい何でここ迄嫌われてんすか?理由が分からなくってつらいんすけど!」
後半の声がつい強く大きくなってしまう。
「何もしていないよ、なんにも」
「ならなんで?どうして?」
「…なにもないから。2人、なんにもないから、だから怒っているんだよ?少年は…しょうねんは優しすぎるんだよ!!」
矢田さんはまっすぐ自分の顔に視線を向け、責めるようなまなざしをしていたが、やがて涙があふれボロボロとほほを伝いだすと、うつむいて横をすり抜けどこかに行ってしまった。
ぼうぜんとし、その場で立ち尽くす自分。
火にかけられたヤカンは沸騰したのだろう。いつまでもふたがカタカタ動いていた。
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それから半年が過ぎ。
今日は矢田さんが寿退社することとなった最後の出勤日。夕方定時の仕事終わりに部署の人たちから、お祝いで花束を渡されていた。
彼女は花束を受け取りながらはにかみ、目じりにはわずかには涙が見える。
自分は彼女を囲い祝福する人たちの後ろの方でその様子をながめていた。
うわさによると婚約者の男性は、最初の頃彼女から全く相手にされず、それでもめげずにグイグイ押しに押したそうだ。そしてプロポーズ。念願かなって結婚が決まった時、「彼女に振り向いてもらえたのは奇跡だ!やっと気持ちが通じた!!」って同僚に話し、ずいぶん喜んでいたらしい。
相手は会社の先輩だった。
自分はそっとその場を離れると、一人屋外の非常階段に向かう。
非常扉を開けて階段に腰かけたばこに火をつける。暮れていく街並みを見ながら、何時だったか階下から聞こえてきた、あの男の言葉を思い出していた。
…涙を流しながらごめんなさいって。