9. 文献、文献
若い司書は、自分をアニータと呼んで、と自己紹介した。
彼女はあたしを休憩室のような部屋に案内し、傷の手当てを一通り行うと、しばらくこの部屋で安静にしているように言った。
「ごめんね、ナナちゃん。門番の二人も悪い人達じゃないんだけど、固定概念から離れられなくて、王宮に侵入しようとする異物は排除しなきゃと思っちゃったみたい。本当にごめん」
アニータはひたすらあたしに謝った。あたしが感謝の意をゼスチャで伝えると、アニータはほっとしたようであった。
「でもナナちゃんってカッコイイね。ちょっと惚れちゃった」
はぁ? 何言ってるの、この子。
「じゃあ、しばらくナナちゃんはここで休んでて」
そう言ってアニータが部屋を出て行きそうになったので、あたしは慌てて本が読みたい、とゼスチャーでアピールした。
「そんな体なのに大丈夫? どんな本が読みたいの?」
言いながら、アニータはあたしに紙とペンを渡してくれた。
<静電気と磁石に関する最新研究、力と物の運動に関する最新研究、あと熱に関する研究報告の文書を閲覧できませんか?>
あたしがそう書くと、アニータはしばし茫然とした。
本当は単純に“物理学に関する最新研究”と書きたかったのだが“物理学”に対応するこちらの世界の単語を知らなかった。そこで、“電磁気学”と“力学”と“熱、流体力学”のつもりで前述のごとく書いたワケだが……やっぱり判りにくかったかな。
「良く解らないけど……科学に強い先輩に相談してみるね」
アニータが言った。
今、アニータが言ったセリフを上記のように書いたが、“科学”の部分の単語の意味はこの段階ではあたしは解らなかった。ただ話の流れから、“科学”か“物理学”だろうと見当を付けた。
<そう。その“科学”に関する最新研究成果が知りたい>
あたしはさっそくその“科学”らしき単語を使ってみた。この世界の文字は表音文字なので、音さえ聞き取れればなんとか文字にすることは可能だ。
「解った。ちょっと待ってて」
そう言ってアニータは部屋を出て行った。
***
戻ってきたアニータは、厚さ60cmほどの書類の山を抱えていた。
「王宮では学者のリクエストに応えて手に入る限りの論文を集めてるけど、中にはとんでもなく難解で、ごく少数の学者しか理解できないような論文もあるらしいよ。こんなのでいいのかな?」
言いながらアニータは長テーブルにドサッと書類を置いた。
アニータの文書にざっと目を通すと、まさに今あたしが読みたい情報が詰まっていた。あたしは“科学”という言葉の意味が“科学”でやはり正解であったことに感謝した。それ以上にアニータが優秀な司書であったことに感謝した。
<ありがとう。感謝します>
そうアニータに伝えると、あたしはそれからしばらくアニータが持ってきてくれた文書に夢中になった。
こちらの世界は、化学はそれなりに発達しているようであった。元素の概念が先ずあり、分子や分子の結合という概念もあった。個体、液体、気体の三相と温度と気圧の関係、化学反応とエネルギーの関係もいろいろと考察されていた。ただ周期表の発想が異なるようで元素の順番が異なったり、化学記号や化学式の書き方も違ったりしたので、細かい所は良く解らない。
ただし、科学論文なのに頻繁に“魔法”という単語が出てきてしまうことが気になった。元の世界では様々な方法を駆使して発生させている化学反応をこちらの世界では“魔法”を使ってショートカットしてしまう傾向があるようであった。
物理学のほうは、“電気”という概念が無いことが致命的であった。力学のほうはそれなりに発達しており、万有引力の法則や微分方程式による運動の解法まであるにもかかわらず、“電気”の概念が無いために、マクセル方程式はおろか、電磁波という概念も無かった。そのため、光、という物理現象はこちらの世界では謎の現象のようであった。(書くまでも無いと思いますが一応。“光”と“電波”は同じものです)
ただし光に有限の速度があるではないかと疑い、実測を試みた、との論文はあったので、今後運よく光の干渉という現象が見つかれば、地動説と合わせて相対性理論ぐらいまでならマクセル方程式無しでもたどり着けるかもしれない。ただし、“電気”の概念が無い為に黒体輻射を式で表そうという発想は出てこず、量子力学には当面の間たどり着けそうにない感じであった。
ちなみにこの世界では宗教の力が弱いらしく、地動説はかなり昔に確立していた。
あと、“電気”を知らないことに関連して、一見発達しているように見える化学分野でも、イオンという現象は電気とは別の現象扱いであったし、電気分解などもも当然無さそうであった。
数学分野では虚数の概念があり、Cosθ+iSinθ=Exp(iθ)という式まで見つかっていることには感動した。感動で思わず「ぐふ」というような声を漏らし、ふと顔を上げるとアニータと目が合った。
アニータが文書を持ってきてくれてから今まで、たぶん2時間ぐらい経っていたと思う。あたしはすっかりアニータの存在を忘れていたのに……アニータはまさかずっとあたしのことを見てたのだろうか?
申し訳けない気持ちになり、伏し目がちにアニータを見つめると、アニータは笑顔を返してくれた。
「すごい集中力。ナナちゃんって本当に勉強大好きなんだね」
<アニータ、ずっとそこに居たの?>
あたしがそう書くと、アニータは声を立てて笑った。
「あきれた。本当に気が付かなかったの? あなたが本当に本を傷つけずに文書を扱えるのか、監視が必要でしょ」
<で、合格ですか?>
「合格どころか、今すぐ司書の仕事を手伝ってほしいぐらい。でもナナちゃんみたいな優秀な学者さんに司書なんてやらしちゃ失礼だよね」
<学者じゃないです。あたしは単なる科学オタクです>
……ええと、もちろんこちらの世界に“オタク”に該当する単語などない。意訳です。
あたしが慌ててそう書くと、アニータは論文の一つを指さしてにっこり笑った。
「ナナちゃんが夢中になってたこの論文ね、これがこの中で一番難しくて、世界でも数人の学者しか理解できないんだって。でもナナちゃんはこれを見ながら何度も嬉しそうに頷いてたよね。それって既に単なるオタクじゃないでしょ」
それは、さっきちらっと書いた微分方程式に関する論文であった。いや、内容はたいしたこと無いのだ。ただ、微分方程式という今までにない概念を思いついた初期論文のため内容が整理されておらず、又、使用されている記号なども適切でない為に妙に難解な論文になってしまっているだけなのだ。
ただ、そう書いてもアニータには通じないような気がしたので、あたしは代わりに次のように書いた。
<高評価、ありがとうございます。アニータも利用者が必要としている適切な文書を探してくれる優秀な司書さんですよね>
「え? あ、そう? そうかな?」
アニータは、たががケモノに褒られただけなのに、なんだか妙に嬉しそうであった。