3. それは、百億分の一の奇跡……かも
魔法使いがちょっと高度を上げると、あたし達が今までいたランスイエルフ国の中心街は、簡単に全体が見渡せた。街の規模は直径8kmぐらい? ……ザルツブルグと同程度、山手線の内側ぐらいかな。街の外は深い森に囲まれていた。
魔法使いはホウキの柄の先の方に座るようあたしに言ったが、豚が細い棒の上に留まれる訳がなく、悪いとは思ったが仕方なくあたしはホウキの柄に横座りした魔法使いの腿に前足でしがみついた。
「高い所は苦手か?」
魔法使いがふざけたことを言うので、あたしは怒りの声を上げて抗議した。
あたりまえでしょうが。命綱なし、細い棒っ切れ一本にしがみついて上空数百メートルに上昇って、どんな罰ゲームだよ。しかも豚の体は人間以上に細い棒にしがみつく手段がない。
すると魔法使いはあたしの体を引き寄せて膝の上に乗せ、両手で抱え込んでくれた。
「これでどう?」
いやいや、確かにこれなら安心だが、あたしは生まれてこのかた一度も体を洗ったことのない豚である。自分では判らないがかなり獣臭い筈で、その匂いをこの人に付けてしまうのは申し訳けない。
ごめん……のつもりで声を出してみたが、残念ながらその意図は通じなかった。
「そうか、良かった。飛べない感覚を忘れてたわ。ごめんな」
逆に謝られてしまった。……ん? “忘れてた”? 魔法使いって生まれた時から魔法を使うんじゃ……。
「さて、国境までは見つかるとヤバいから飛ばすぞ」
魔法使いがそう言うと、急に体が横に重たくなり、街を含めた景色がすごい速度で横に吹っ飛んでいった。しばらく森の上を飛ぶとランスイエルフ中心街よりぐっと小さな街……集落? が現れ、更にもう一つの集落を通り過ぎた辺りで魔法使いは速度を緩めた。
「この辺りまでがランスイエルフ。広いだろ」
広いだろ、と言われても、比較するものが無いので……。飛んだ距離はざっくり30kmぐらい? これを国土の半径とし、円形の国土を想定するとその面積は3000km平方弱で、だいたい埼玉県や神奈川県ぐらい? (おまえさん、さしずめ理系だな、とツッコんでください。自分でも何を一生懸命計算してんだろ、と、あきれました)
「俺はエリック。21歳。俺の実家はここから反対方向に飛んだ所にある村で、昔は違ったんだが今ではランスイエルフの一部に組み込まれっちまった」
飛びながら、魔法使いが自己紹介を始めた。……ので、あたしは相槌を打った。ぶう。
そっか、エリックくんか。
「この辺は王国同士でずっと覇権争いをしていて、弱い王国は強い王国にどんどん呑み込まれてる。俺は、どうせ魔法使いとして独り立ちするなら勝ち馬に乗ろうと思って、5か月前からランスイエルフ王室にいた」
勝ち馬?
「ここの領主は2年前にクーデターを起こし、元の王を追放して新王になったばかりの新興勢力だが、冷血漢で悪知恵が働く。こういう奴が最後に生き残ることを俺は知っている。……もう、戻れないけどな」
エリックは、自分が捨てたものに若干の未練があるようだった。だったらますます、なんであたしを助けた?
あたしは前足で空中にクエスチョンマークを描いてみみせた。
「お前さ、必死に“助けて”って叫んでたろ。これを見捨てたら、きっと後悔すると思ったんだよ」
あ、すみませんでした。おかげで助かりました。
「そのくせ人がよそ見したら舌出しやがって」
ええっ、見てたの?
「でも助けて良かったよ。こんな小生意気で面白い豚、食っちまったらもったいない」
あたしは不満を鳴き声で表し、抗議した。ぶう。
「ほら」
エリックが笑った。少年のような屈託のない笑い方だった。
「さて、お前にも自己紹介してもらおうか」
エリックが言うと、空中の、ちょうどあたしの前足の辺りに濃い霧が、あたかも白いボードのような形にふわふわと集まった。あたしが前足を動かすとそこだけ霧が途切れ、、黒い軌跡が残った。
子供の頃あったなぁ、こんなの。磁石でなぞるとそこだけ黒くなるボード。
「おまえ、名前は?」
あたしはエリックの質問を無視し、さっきから聞きたくて仕方が無かった質問をぶつけてみた。
<「こういう奴が最後に生き残ることを俺は知っている」って、どういうこと?>
「いきなり俺の質問は無視かよ。ま、いいや。でもそこは説明してもお前には判んねえよ。おまえがとんなに賢い豚でも、オダノブナガって言われて何のことか判んねえだろ」
え? え?
ちょっと待て、この人……。
あたしはこの世界の文字ではなく漢字で、
<識田信長?>
と、書いて見せた。
「………」
今度はエリックが驚く番だった。
ちらっと様子を確認すると、エリックは言葉を失い、元々大きな目をまんまるに開けていた。
ほうきの飛行速度が急に落ち、空中に静止すると、ゆっくりと降下を始めた。
降り立ったのは、森に囲まれた小さな広場のような草原であった。
星影がぼんやりと地面の凹凸を浮き上がらせ、森との境辺りを鹿の親子が歩いていた。
地面に足が着くと、エリックはあたしの向いであぐらをかいて座った。あたしもお尻を地面に付けて座った。生草は、普段座っている干し草よりもひんやり冷たく……でも柔らかかった。
エリックは一度、大きな深呼吸をした後、やっと口を開いた。
「あんた、転生者か?」
エリックの言葉にあたしはうなずいた。こちらの世界の「転生者」という単語は初めて聞いたが、単語の意味をわざわざ確認するまでもなかった。
「驚いたな。この世界に転生して21年になるけど、俺以外の転生者なんて始めて会ったぞ。……でも、なんで豚なんだ?」
あたしが前足で文字を書くゼスチャをすると、エリックはさっきの白いボード状の霧を出した。
<あたしが聞きたい。電車にひかれて、気が付いたら養豚場の豚だった>
この世界に「電車」なんて単語はない。あたしたちの会話はいつの間にか元の世界の言語になっていた。
「自殺か?」
<まさか。友達とホームで電車を待ってたら後ろで喧嘩が始まって。でも気にも止めなかったら突然後ろから押されて線路に落ちて、直後に電車が入ってきて……って感じ?>
「死んだあと、神様か死神らしい誰かの声を聴かなかったか?」
<聞いたような気もするけど、ほとんど覚えてない。エリックは?>
「俺は……やっぱりあんまり覚えてないが、確か何個か選択肢を示されて、魔法使いを選んだんじゃなかったかな」
あたし達はいつの間にか元の世界の言葉、つまり日本語で会話していた。
***
エリックの生前の名前は松本隆志。23の時に癌がんで死亡したそうだ。当時、大学生。
<こっちで21歳だから、合わせて44歳か。結構おっさんじゃない>
「合わせるなよ。そういや糸偏な」
<?>
「オダノブナガのオの字」
あたしはもう一度、戦国時代の覇者の名前を書いてみた。
<識田信長>
あ、しきだのぶなが、になってる……。以外と細かいな、こいつ……笑うなっ。
エリックの笑い声を浴びながら、あたしは慌てて“識”の字を黒く塗りつぶした。ぶう。
***
それからあたし達は、いろいろな話をした。
とりあえず、この世界の仕組み。エルフやオークのような人間と何かの中間的な生物は存在しないとのこと。だからこそあたしが字を書いて見せたときは本当に驚いたそうだ。
不思議なのは、彼が転生して21年、あたしは6ケ月と、こちらに来てからの年月に大きな隔たりがあるにも関わらず、転生前はほぼ同じ時代を生きていたらしいことだった。
例えばあの、東北地方を中心とする大地震は二人とも経験していたし(ちなみに彼は千葉の内房、あたしは埼玉の一地方と住んでいる場所は違ったが、被害の程度は同じようなものだった)、好きだったアニメや音楽も結構共通のものがあった。
詳しく日時を比較してみると、彼の死亡日の3年半ほど後にあたしの電車事故があったことが判った。あたしは17年間幽霊でもやっていたのだろうか?
なんだかんだ、あたしはいつの間にか元の大学生に戻り、たまたま知り合った別の大学の学生と長話をしているかのような気分になっていた。
ただ残念ながら明らかにここが元の世界ではない証拠に、目の前に広がる満天の星空の中に、知っている星座は一つも無かった。