2. 豚泥棒のなんか黒いもの
豚肉は牛肉と異なり鮮度が重要である。だから豚肉は朝、屠殺を行い、その日のうちにセリにかけられる。
あたし達の養豚場のように食肉処理場から養豚場が遠い場合は、朝の屠殺作業に間に合うよう、前の日の晩に豚を食肉加工場に運び込む。夜間の移動は盗賊に襲われる恐れがあるため、未明に移送を行うことは無い。
そんな訳で食肉加工場に到着したあたし達は一晩待機所で過ごし、翌朝の屠殺を待つことになった。
――しかし、喉が渇いた。
百歩譲って、食事が出ないことは許そう。捌いた内臓から穀物がぞろぞろ出てきたのでは、屠殺場職員も処理に困るだろうから。しかし、明日殺される身とはいえ、水ぐらいは出してくれても良いのではないだろうか。豚は人間よりも遥かに水を必要とする動物なのだ。ストレスで肉の質が落ちるぞ。
一緒に移送された豚の仲間も喉の渇きに苦しんでいた。
そのうち何匹かはあたしに何とかしてくれ、と訴えてきた。あたしはそんな彼らにグルーミング(毛づくろい)をしてやるぐらいしかできなかった。
どさっ。
突然、あたしたちの檻の前に、何か質量のある黒いものが落ちてきた。
その黒いカタマリを見つめていると、しばらくしてカタマリはヨロヨロと起き上がった。よく見れば、夕方御者の横に座っていた魔法使いであった。しかしながらその服は切り刻まれて血まみれで、部分的に焼け焦げて無くなっていた。あの可愛い(?)顔も半分焼けただれ、ひどいことになっていた。
それでも魔法使いはあたしと目が合うと、ニッと不敵に笑って見せた。
「よっ。迎えにきたぜ」
目だけはやっぱりあの優しい目であった。
あたしは嬉しさと驚きで、自分でもなんと表現したらよいか判らない声を上げていた。
「あんなに必死に助けを求められちゃ来ない訳にはいかないからな……って言ってもおまえには判らないか」
魔法使いは途中から自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
あたしは慌てて足元の草をはらって土の地面をむき出しにし、そこに文字を書いた。
<大丈夫? 何があったの?>
***
養豚場にいるとき、ヒマつぶしで養豚場内にある看板の文字を書き写していたら、牧場主の息子が面白がってあたしにいろいろと文字を教えてくれた。
当初この息子はあたしが単に自分のマネをして文字を書いているだけだと思っていたようで、
<ありがとう。そのテキスト、見せてもらっていい?>
と、息子が書いた文ではない文を書いて見せたら、腰を抜かして驚いた。しかし、次第に慣れてあたしと会話するようになると、
「レーナは賢いな」
と、あたしに勝手にレーナという名前を付け、自分の知っていることをいろいろと教えてくれるようになった。10歳の少年が知っている範囲の知識ではあるが。
ちなみに生前のあたしの名前は屋式七海である。ただこの名前を少年に伝えても意味はないので、養豚場ではそのままレーナで通した。
息子の両親もたまにあたしのことをレーナと呼んだが、あたしが文字を書くという話は最後まで息子の嘘だと思っていたらしい。あたしの檻の床は、最後は文字だらけだったのだが。
***
魔法使いは驚いた顔であたしを見つめた。
「おまえ……人間の言葉が判るのか?」
あたしはこくんと頷き、前足で今書いた文字をトントン叩いた。
「おまえ、本当は何者なんだ?」
魔法使いに聞かれてハタと困った。この世界の言葉で「転生者」に対応する単語を知らなかったし、何よりも「転生者」という概念が通用するかどうかが判らなかった。
<ただの豚。物心ついたら豚だった>
地面にそう書き足すと、魔法使いは苦笑した。
「そうやって字を書いてる段階で、既にただの豚じゃないだろ」
あたしは返答に窮し、魔法使いをじっと見つめた。
魔法使いはそのあたしの態度を、最初の質問に対する答えを求めていると感じたようだった。
「おまえを連れ出すって言ったら先輩達とバトルになった。信じられるか? たがが豚一匹のことで、王室直属の精鋭部隊が、寄ってたかって新人魔法使いに本気で襲い掛かってくるんだぜ」
<で?>
「なんとか全員倒してここに来た」
<は?>
「なんだよ。お前が助けてって言ったんだぞ」
<ということは、王室直属の優雅な身分をたがが豚一匹のために棒に振ったわけ? あんたバカじゃないの?>
あたしがそう書いたら、魔法使いはおかしそうに笑った。
「面白い“ただの豚”だな。おいで。どこでも好きな所に逃がしてやる」
魔法使いがあたしを指差すと、あたしと魔法使いを隔てていた檻の柵が勝手に壊れた。
壊れた柵の間を抜けて魔法使いに駆け寄ると、魔法使いは両手であたしの脇腹を押さえ、高速エレベータよろしく一気に上空へと垂直上昇した。
ちょ、ちょっと待った。
あたしは慌てて前足で下を指さした。
魔法使いは不思議そうな顔をしながら、でもあたしのゼスチャーを理解し、高度を下げてくれた。
高度が2mぐらいになった所であたしは魔法使いの手を振り払って地面に飛び降りると、檻のそばにあった井戸まで一気に駆けた。
井戸の手押しポンプの下にはタライが置いてあった。あたしはなんとかポンプを動かし、たらいに水をくもうとしたが、豚の体ではポンプレバーの上げ下げは難しかった。
「そうか、喉が渇いてたのか」
後から来た魔法使いがそう言いながらさっと手を振ると、ポンプを動かさなくてもポンプから水があふれ、たらいは直ぐに水で一杯になった。
あたしが「水があるよ」の鳴き声を出すと、壊れた柵に怯えてなかなか柵を抜けられなかったあたしの仲間達が一斉に柵を抜け、たらいの周りは一気に豚で埋まった。
一心不乱に水を飲む仲間達を見ながら、やっとリーダーらしいことができたと安堵感を感じていたら、魔法使いがあたしの頭にポン、と手を乗せ、言った。
「おまえさ、ただの豚ならもっと自己中心でいいんじゃないか?」
あんたが言うか?